横断歩道
この町も宅地化が進み、大都市のベッドタウンとなりつつあります。
どれも似たような一軒家が建ち並ぶ、そんな閑静な住宅街の外れ。そこに、掠れた塗料が僅かに見えるだけの横断歩道があります。車通りも少なく、信号なんて洒落た物はありません。二車線の細い道路には、ガードレールすらありません。ただぽつりと、横断歩道が敷いてあります。
僕はもう長い間、この横断歩道を見てきました。晴れの日も雨の日も。風の日も稀に降る雪の日だって。道路の端にある僅かな白線の内側から、横断歩道に向き合うようにして。座ることも眠ることもなく、ずっと、ずっと、見てきました。そして季節は幾度も巡り、今日はこの横断歩道と向き合って丁度十年になります。
十年と聞くと、区切りが良くて自然と愛着も湧きます。それに今日は僕の命日でもあるのです。いつもとは、心持ちがまるで違います。
もう十年もこの横断歩道を見てきましたが、掠れてあまり見えないにも関わらず渡る人が多いのも、この横断歩道です。
向こうには学校やスーパーなどが密集した地域があります。それを目指して、瞳輝かせる子供たちや、昼過ぎの気だるさを引きずる主婦たちが、この寂れた横断歩道を渡るのです。
今の時間は、通学する子供たちがランドセルや手提げ鞄を持って、意気揚々と渡って行きます。少し肌寒くなったこの頃、衣替えも終わったらしく皆一様に冬服を着ています。でも時に半袖で走り回る子供もいたりして、眺めている僕もどこか暖かな気分にさせられます。
僕も、真っ黒な冬服を纏い、この横断歩道を渡ったものです。あの日もいつも通りに家を出て、眠たい目を擦りながらこの場所まで歩いてきました。ただその日は、大型トラックが見えたので、それが通り過ぎるまで立ち止まっていました。丁度、今の僕が立っている場所に。今の僕と同じ格好で。
忘れることは出来ません。まるで僕がトラックを吸い寄せているかのように、トラックは綺麗な弧を描いて僕を轢きました。スピードもかなり出ていたらしく、即死だったみたいです。
僕はトラックが近付いてくることに驚いて咄嗟に目を瞑りました。そして次に目を開けた瞬間から、ずっとここに立っています。
「よお、元気か」
彼と会うのも、これで十回目になります。大らかな僕とは違って、彼は律儀に僕の命日に訪れてくれます。
「死んでる人に元気か、と聞かれても」
去年と変わらない、乾いた笑い声。初めて会った時も終始笑っていて、彼が死神と聞いた時には、少なからず驚いてしまったものです。
死神とは言いますが、僕はけして彼に悪い印象は持っていません。むしろ、良い人……いや、良い神とさえ、思っています。
加えて、この身体になってからというもの、会話が出来るのが彼だけなのです。一年に一度、命日に訪れてくれる彼の存在は、僕にとって一つの楽しみにもなっています。
「それにしてもお前、今年で十年になるが……まだ成仏しないのか」
この問いには、今までと同じように沈黙と俯きでお返事をします。
正直な所、僕ですらここに自分が立っている理由がわからないのです。轢かれてからすぐ、こんな状態だった訳ですから。
ですが、何故かこの死神について行っては駄目な気がして、誘いを断ってきました。また逆に、僕が沈黙と共に俯けば、彼も溜め息一つと引き替えに、あいわかったと諦めてくれました。だからこそ、僕は十年経った今でもここにいます。
でも、今年は様子が違いました。いつもの深い溜め息が、いつまで経っても聞こえてきません。その代わりに、少しばかり沈んだ声が聞こえてきました。
「今日で、お前はこの世とお別れなんだ。お前がなんと言おうと、無理矢理にでも連れて帰る」
僕は『そうか』と、一人呟きました。
今年はどうやら我が侭も通らないみたいです。ならば、諦めるしかないでしょう。絶対にあの世につれて行かれるのであれば、僕はそれに抗う気はありません。
ですが、この十年もの間、僕も何も考えずに過ごしてきた訳ではありません。自分なりに、僕がここにいる理由を考えてきました。
僕には、彼が尋ねてくれること以外にも楽しみがあります。それは、花を手向に来てくれる、彼女の存在です。
彼女は僕の幼なじみでした。物心ついて、気付いた時にはもう仲睦まじくて。お互い両親が仲が良いことも手伝って、僕たちは中学校の初めには既に、保護者公認の交際を始めていました。
事故のあったあの日。彼女は僕の少し後ろにいました。僕が横断歩道を渡らずにトラックが通り過ぎるのを待ったのも、彼女を待とうと思ったからに他なりません。
吹き飛ばされ、道端にまるでマネキンのように横たわる僕を抱きしめて、彼女はずっと泣いていました。救急車が来て、親御さんに引き剥がされるまでずっと、ずっと、泣いていました。
それ以来、彼女はこの横断歩道に花を手向けに来てくれます。初めは毎日。事故から少し経てば一月に一回、最近では一年に一回と回数は減りましたが、命日だけは、必ず来てくれます。
もう事故からだいぶ経ちます。童顔だった彼女も今では大きく成長し、可愛いから綺麗という言葉が似合うようになりました。贔屓かもしれませんが、とても綺麗な女性だと、心からそう思っています。
ただ、僕はそんな彼女が心配なんだと思います。
あれから十年も経ったんです。僕なんて忘れて、新しい人生を歩んでほしいのです。
「私、好きな人が出来たの」
僕が見つめる中、ぽつりと彼女は呟きました。
彼女は生きています。死んだ僕とは違って、生きています。
恋をするということは、とても良いことです。これで彼女は、新たな道へと進めることでしょう。
それなのに、何故僕は泣いているのでしょうか。嬉しいはずなのに、この溢れる涙の意味は何なのでしょうか。
「ごめんなさい」
「そろそろ行くか」
僕に向かって呟かれた二つの言葉両方に、僕は黙って、頷きました。
住宅地の脇にある、寂れた道路。そこにあったはずの横断歩道はもう何処にも、ありません。
作者のピースブリッジです。拙作を読了して下さり、誠にありがとうございます。
さて、初めて短編を書いてみて、あまりの難しさに絶句。五分は、あまりに短いですね……。
この作品は、五分企画に刺激されて、矢も盾もたまらず書いてしまった作品でございます。
それでは、この辺りで失礼します。機会があればまた、お会いしましょう。