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無花果の葉

 お嬢様という言葉を聞いたとき、皆様はどんな人を思い浮かべるでしょうか。綺麗なお屋敷に住んでいて、昼は諸学問や礼儀作法をよく学び、夕方にはヴァイオリンや生け花等の習い事。夜には天上の音楽を聴きながら、旬の素材を活かした美味しい料理を優雅に楽しむ。まあ、こんなところでしょうか。

 目覚めはいつも同じ。上等なベッド、柔らかな毛布。窓から差し込む温かい日差し。既に用意された食事の匂い。

「おはようございます、お嬢様。既に食事の支度ができております」

 かく言うわたしも、そういう身分の暮らしをしています。専属の侍女の奉仕を受けつつ、日々の学びの備えをする。そんな毎日です。最初は戸惑いましたが、長く過ごせばそれらも慣れます。

「今日はフレンチですよ。腕によりをかけてご用意いたしました」

 フランス料理には思い入れがあります。ええ、初めて口にしたときのことは、今でもよく覚えております。

 侍女が合図をすると、フルートや太鼓を持った、まだ幼い見た目の小姓たちが姿を現しました。そう、先に述べたように、音楽を楽しみながらの食事をするのです。




 わたしの最も古い記憶は、澄み渡る青い空と、燦々と照りつける太陽でした。その日は雲一つない青空で、日輪の恵みは、わたしの体を余すところなく満たしておりましたーーそのときのわたしは、一糸纏わぬ裸でありました。それより以前の記憶はなく、またわたしが何者であるかの手がかりもなく、ただ由来の知れぬ知識と知恵だけがありました。故知れぬ裸の人だったのです。

 顔のすぐ横には、林檎の芯が転がっています。口の中にはまだ甘味と香りが残っており、多分、わたしがつい先程食べたものでしょう。

 わたしが身を起こし、周囲を見渡すと、眼前には美しい花々が咲き乱れる丘が広がっていました。輝く太陽は心地良い暖かさで、恵み深きはわたし以外にとっても同じことだろうという確信がありました。それが証拠に、辺り一面の草木もまた、太陽の恩恵を享受し、青々とした葉、色とりどりの花、瑞々しい果実を実らせています。多くの神話が語るような楽園とは、きっと、こういう場所なのでしょう。

 

 そんな楽園に集まる他の人たちは皆、わたし自身もそうであるように、一糸まとわぬ姿でした。狂気に憑かれたかのように踊り狂う乙女たち、笛や太鼓を奏でる少年たち――誰も彼も、皆、裸でした。ただわたしだけが、そうであることを恥じているらしく、誰もがそれを当然のこととして受け入れている様子でして、皆、ただ無邪気に舞っています。

「お嬢様、こんなところにおいででしたか」

 声のした方へ振り返ると、わたしよりも幾分か背の低い、幼い女の子が立っていました。周りの裸の子たちとは別の意味で変わった子。明らかに黒人の顔立ちではないのに、肌は変に黒く、目元はくっきりとしていて、さながらエジプトの壁画に描かれた人物を彷彿とさせる、なんとも不思議な印象の女の子でした。また、幼い顔立ちと体つきにも関わらず、彼女には何か名状しがたい不思議な色気と、それ以上に不相応な威厳があるように見えました。

 何より特異なのは、目覚めてから今まで見てきた裸の人々の中にあって、この子だけが服を着ていたという点です。フリル付きの丈の長いスカートは、いわゆるメイド服とは少々趣の異なるもの。その姿格好からして、高い身分の人々に仕える侍女といったところでしょうか。

 彼女は周囲を見渡し、次にわたしの頭から爪先まで観察し、最後に足下に転がる林檎の芯を見て、何か得心がいったように頷きました。

「……そのような格好では、お体に障りますよ。まずは宿舎へ戻りましょう」

 彼女がそう言って、手を叩いて合図をします。すると、一心不乱に踊っていた乙女たちが、その音に反応して、一目散に遠くに見える建物に走っていきました。

 わたしはというと、戸惑いを察した彼女に手を引かれ、ゆっくり歩いて行きます。今のわたしは、導きを必要としていたのです。道すがら、彼女は次のような話をされました。

「知恵の実を食べたアダムとイヴは、まず自分たちが裸でいることを恥じ、無花果の葉で隠したといいます。恥ずかしい、と思うことこそ、人間性の萌芽なのです」

 彼女は道端に生えていた無花果の木から、一枚の葉を取り、わたしに手渡しました。

「この無花果の葉は、言うなれば原初の衣服。服というのは寒さや風雨をしのぐためのものでもありますが、今では見せてはいけないものを隠す用途が主流と見るべきでしょう。服は、ヒトがヒトたる人間性を表しているのですよ」

 恥ずかしい。そう、異常な状況なのです。あの乙女たちも、笛を含む紅顔の少年たちも、皆、裸である自身を恥じている様子が無かったのは、既に述べたとおりです。彼女の言うとおりだとするのなら、あの子たちには、ヒトをヒトたらしめる人間性、その萌芽すら無いということなのでしょうか?

 ですが、わたしは彼女たちとは違う。だから、かつてアダムとイヴがそうしたように、受け取った一葉で恥部を隠しました。

 

 彼女の導きで辿り着いたそこは、寮が併設された学校のようでした。校庭には黒塗りの聖母像があり、学び舎に集う乙女たちを見守ってくださっているように思えました。

「最初のヒトなら、物語として意味もありましょうが、流石に無花果の葉一枚では、恥ずかしいでしょう。すぐお召し物をご用意いたしますから、少々お待ちを」

 すぐ、というのが文字通りのことで、まるで魔法のよう。あるいは彼女の話が、退屈と時を忘れさせるものであったのかもしれません。

「お待たせいたしました。もしお気に召さないようでしたら、いつでもお申し付け下さい」

 上等な仕立ての服です。今まで無花果の葉一枚で恥部を隠していたことを思えば、不満はありません。不満はありませんが、不安はまだ解消されていません。姿見に映るわたしの表情からも、それが見て取れます。

 わたしは、わたしをここまで導いてくれた彼女のことを、何も知りません。いいえ、彼女のことだけではなく、この島のこと、あの裸の乙女たちのこと、そしち、わたし自身のこと。知らないことだらけです。知恵を光とするなら、無知とは闇なのでしょう――わたしは闇の中にありました。

「……ご心配には及びません、お嬢様」

 わたしの不安を察したのか、彼女が耳元で優しく囁きます。そういう香水を使っているのか、みずみずしい林檎の香りがしました。

「ここには、お嬢様を脅かす敵はございません。ただ一つ恐れるべきものは、あの、お日様くらいのものです」

 彼女が指差した先には、燦然と輝く太陽がありました。人の手に届かぬという点では、夜空の星々と同じでしょうが、その輝きと恵みたるや、どれほどの綺羅星とて遠く及びません。

 確かに、太陽は恵み深く偉大です。万物の長の姿を敢えて描く場合、太陽の形で表現されることがしばしばあるのも、当然のことと言えましょう。しかし、慈雨無き烈日がいかに恐ろしい災厄となるかも、既によく知られているところであります。彼は生命を祝福する恵みであると同時に、乾きと死をもたらす恐怖の王でもあるのです——太陽を見続けていると、そんな畏怖の念が呼び起こされました。

「強い日差しは、お肌の大敵ですからね」

 わたしの太陽に対する畏れを察したのか、その脅威を身近で些細なものに言い換え、冗談めかして言いました。

「お嬢様の身の周りのお世話は、全てこのソフィアにお任せください」

 ここに来てようやく、彼女の名前が判明しました。そう、これがわたしの侍女、ソフィアさんの出会いでした。

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