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第68話 女の子って存在に揺さぶられるの♡

「そそ、褒め言葉は有り難く受け取っとけ」

「……うん、ありがと」

「ま、沙織にはそんな気を使う相手なんていねーだろうけど」

「もーっ、これでも恵美には気を使ってるつもりです」


 恵美が肩をすくめて笑うと、廊下の空気がほんの少しだけ軽くなる。

 そのやり取りをしている間も、胸の奥では別の思考が静かに波打っていた。


 ──他人の言うことなんて気にするな、なんて。

 そんな強がり、ほとんどの人間には無理なんだ。


 人間は社会的な生き物で、他者から承認を得れば脳が勝手に快楽物質を出す。

 「嬉しい」とか「苦しい」とか、そんな理屈の前に、本能の方が先に反応してしまう。


 たとえば、誰かのちょっとした褒め言葉。

 何気ない視線。小さく笑われた気がした瞬間。

 ほんの少しの不機嫌そうな態度さえ、心の奥で想像以上に響いてしまう。


 だって、胸の内側ってこんなにも柔らかい。

 爪で触れたら跡が残るくらい、簡単に揺らぐ。

 生き物として当たり前の反応なんだ。避けようがない。


 もちろん、自分の軸を持つことは大事だ。

 他者評価に振り回されないためには、自己受容感も自己肯定感も必要。

 わかってる。頭ではちゃんと理解してる。


 でも──

 理屈だけで感情が黙ってくれるほど、人間って単純じゃない。


 誰かに褒められれば心臓が跳ねるし、誰かに嫉妬されればざわっと胸が揺れる。

 その一瞬の揺れで、自分の輪郭が少し変わったような気さえする。


 確かに、自己評価よりずっと大きい褒め言葉を向けられると、胸の奥がむずがゆくなる。

「そんな大したことしてないのに」とか、「え、なんでそんなこと言うの?」とか、照れと戸惑いが押し寄せてくる。


 そしてふと、心の奥で警戒が動き出す。

 ──この人、何を考えてるんだろう?

 自分を良く見せようとする殻を守ろうとして、ちいさな防衛本能が反射的にざわつく。


 褒められすぎると、自分の価値を他人に委ねてしまいそうで怖くなる。

 ほんの少しだけ、自尊心が「待って」と袖を引っぱるように。


 確かに、褒めるという行為には黒い側面もある。

 人を都合よく動かしたり、気を引いたり、支配の前段階になったり、関係性の上下を作る効果だってある。私だって、由梨ちゃんにもっと自信を持ってほしくて褒めた。

 だから「誘導」って意味では似たようなことをしている自覚はある。


 それでも、「由梨ちゃん、すごいな」って思ったのは本当に嘘じゃない。

 心からそう思ったから、言葉にしただけ。

 その感情は、操作とか支配とかじゃなくて、純粋な尊敬の方がずっと大きい。


 褒めるという行為は、たとえ目的がどうであれ、

 “相手を気持ちよくさせよう”

 というベクトルを持っている。


 それを拒むっていうのは、極端に言えば──

 差し伸べられた手を、見てもいないふりをして通り過ぎるようなもの。

 挨拶をされているのに返さないような、そんな静かな不協和音。


 だから、過剰に疑う必要も、無理に受け取る必要もない。

 ただ、相手が渡してきた“善意の包み”をどう扱うかは、自分で決めればいい。


 別に、褒められて胸がじんわり温かくなっても良いし、思わず視線をそらしてしまうくらい照れ臭くなってもいい。

 私たちは結局、感情という原始的な揺れと、脳内の電気信号というどうしようもない仕組みに支配されて生きている。

 頭でどれだけ整然と理解したつもりになっても、本質的な悟りなんて──人智ではほとんど手の届かない場所にある。


 だからこそ、大切なのは“感情が動くこと”を否定しないことだ。

 揺れた自分を恥じる必要も、無理に悟ったふりをする必要もない。

 ただ、その揺れをそのまま“選択の舵”にしなければ良いだけの話。


 誰かに褒められて心が跳ねても、そこから依存へと流れていかないようにする。

 承認は甘いけれど、甘いぶんだけ中毒性も強い。求めすぎれば、自分という輪郭が薄れていく。

 本当は誰もそんなこと望んでいないのに、心はすぐに楽な方向へ転がろうとする。


 でも、それを完全に断ち切ることもまた難しい。

 私たち凡人は、自律だけでは生きていけないし、他者の言葉だけを拠り所にするほど単純にもできていない。その両極のあいだで、ふらつきながら立つしかない。


 だから──

 結局は“信じたい承認”ではなく、自分が「これは信じるべきだ」と判断した承認を選ぶしかないのだと思う。

 その基準は誰かが決めてくれるものじゃない。

 心が揺れ、迷い、何度も間違えた先で、ようやく自分の手で掴むものだ。


 私たちは、自律と他者との関係性の狭間という、不安定で救いの少ない場所に生きている。

 悟りの境地に至ることもできず、かといって他人の承認に狂い切るほど愚かにもなれない。

 本当に、不器用で、面倒で、それでもどうしようもなく愛おしい生き方しか選べないのだ。


 結局、私たちにできることなんて本当に限られている。目の前の優しい褒め言葉を、ただそっと受け取ること。

 そこに裏があるのか、本気なのか、どう捉えるか──その認識を、自分の中で選ぶこと。

 それしかできないし、それで十分なのかもしれない。


「どこがよ。こっちのがあれこれ気を回させられて、勘弁して欲しいぐらいなんだけど?」

「……大変、申し訳ございません。恵美には、本当にいろいろご迷惑をお掛けしてます」

「よろしい」


 いつもの軽口なのに、胸の奥がふっと軽くなる。

 この温度のやり取りがあるだけで、「ああ、私は嫌われてないんだな」って錯覚でも安心でも、少し呼吸が楽になる。


 私たちは、そんなふうに“承認欲求”と“社会的承認”の狭間で生きている。

 承認欲求は心の内側に生まれる渇きのようなもので、社会的承認は外側から与えられる光のようなもの。


 手放しなさい、気にしすぎないで、なんて言われても、そんな簡単に消えるわけがない。

 誰かに見つけてもらいたい。

 自分のことを「いいね」って思ってほしい。

 可愛いって言われたら嬉しいし、褒められたら調子に乗りそうになる──それはどうしようもない本能に近い反応だ。


 そして、私だってそうだ。

 もっと、みんなに見て欲しい。

 出来るなら「沙織ってさ、やっぱ可愛いよね」なんて軽く言われて、照れながら笑いたい。

 自分でも少しくだらないと思いながら、それでも欲しがってしまう。


 承認の渇きというものは、不思議なほど底が無い。ひとつ満たされても、すぐに次のひと口が欲しくなる。

 誰かに可愛いと言われても、誰かに褒められたとしても、それは本当に“その瞬間だけ”心を刺激するだけで、堆積しない砂のようにすぐ崩れ落ちてしまう。


 だって承認というのは、あくまで“表面”を撫でる感情だからだ。

 痒いところをかすかに掻いてくれるみたいに気持ち良いけれど、気付いた時にはもう跡形も残っていない。


 なのに──ある子の何気ない一言が、どうしてか胸の底で静かに残り続けて、ずっと心の奥を温めてくれることがある。


 その違いって、なんなんだろう。

 いろいろ考えてみたけれど、やっぱりその違いは“承認”と“理解”なんじゃないかな、って思う。


 承認は「可愛いね」「綺麗だね」「すごいじゃん」──

 確かに嬉しいし、言われた瞬間は胸がふわっとして、つい気持ちよくなる。

 でも、それはあくまで表面に触れるだけの刺激で、肌を指の腹で軽く撫でられたみたいに、すぐに消えてしまう。


 でも理解は違う。


 理解の言葉は、私の輪郭の奥にまで届いてくる。

 私を“個人として識別して”、

 “ちゃんと観測したうえで出てきた言葉”だから、

 どうしても温度が消えない。


 たとえば──

「沙織は、みんなが笑ってる時が一番嬉しそう」

 そう言われた瞬間、胸の奥がじわっと熱くなる。


 心臓の少し下、みぞおちのあたりからゆっくり温度が広がって、まるで芯から灯をともされたみたいに身体がほぐれる。

 “ああ、見られてたんだ”って、変な恥ずかしさと嬉しさが同時に押し寄せてくる。


「相談を聞いてくれてる時の顔が、本当に真摯で思わずドキッとした」


 そんなこと言われたら、もうダメだ。

 顔が一気に熱を帯びて、耳の後ろまでじわっと火照って、どこに視線を置けばいいのか分からなくなる。

 呼吸が浅くなって、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、でもその締め付けが心地良い、奇妙な感情に沈んでしまう。


「告白を受けに行く時の顔が、面倒臭いっての隠せてなくてウケる」


 こういう小さな観察まで言われると、心臓がくすぐられるみたいに跳ねる。

 自分では誤魔化したつもりの表情を、あっさり見抜かれていたという情けなさと、

 “そこまで私のこと見てたの?”という驚きが交じって、頬がじわりと熱を帯びる。

 唇の端が勝手に震えて、笑うのか拗ねるのか分からないほど揺れる。


 こういう言葉は、胸のいちばん深いところに沈む。忘れられない“重み”を残して、ゆっくり、確かに積み重なっていく。


 承認の言葉が風なら、

 理解の言葉は、心を震わせる波紋だ。


 表面じゃなくて、内側に触れてくる。

 だから、こんなにも簡単に私を揺さぶってしまう。

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