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第63話 由梨ちゃんを抱きしめてあげたいの♡

「恵美っ、話し聞かせてっ!」


 チャイムが鳴った瞬間、胸の奥で張りつめていた糸が弾けた。

 終わりの号令も、形式だけの挨拶も耳に入ってこない。椅子を引く音がやけに大きく響いて、私は勢いのまま恵美の席へ身を乗り出した。


 教科書もノートも机の上に散らかったまま。

 片付けるという発想すら浮かばない。

 教室の空気がゆるんで動き出す中、私だけが一点に向かって突き進んでいた。


「……沙織、焦り過ぎ。気になるのは分かるけど」


 恵美は呆れたように眉をひそめた。でも口調は軽くて、どこか面白がっている。

 その落ち着きが逆に胸をざわつかせる。


 焦ってる? 自覚はある。

 でも、焦らずになんていられなかった。


 頭の中はひとつの映像で埋め尽くされていた。

 由梨ちゃんが莉里に捕まって、狭い空間に追い詰められて、迫られる。

 それを想像しただけで、喉の奥がきゅっと苦しくなる。


 何を言われた? どんな顔をしてた?

 怖かった? 泣きそうだった?

 それとも──ただ耐えていた?


 考えても答えは出ないのに、思考だけが高速回転して体温を押し上げる。

 心臓が早送りみたいに跳ねて、呼吸が浅くなる。


「廊下で話すけど、いい?」

「……そうね、それがいいと思う」


 恵美は立ち上がり、廊下の方を指差す。

 私が頷くと、自然な流れで廊下へと歩き出した。

 教室のざわめきが遠のいて、視界が細い一本道になっていく。


 すると恵美は、急に振り向いて、ちらりと教室の奥へ視線を向けた。

「由梨もこっち来て!」

 軽く手を上げて呼ぶ。その仕草は堂々としているのに、あまりにも唐突だった。


「ちょっと、恵美っ!?」

 声が裏返る。思わず肩が跳ねる。


 私の抗議より早く、空気が変わった。

 ザッと音がした気がするくらい、一斉に視線が恵美へと吸い寄せられる。


「えっ……?」

 そして次の瞬間、由梨ちゃんが椅子を引く音が響いた。


 驚いたように目を瞬かせて立ち上がる。

 その小さな動作だけで、教室中の視線が今度は彼女に集まった。

 私の心臓がドクンと鳴って、喉がきゅっと締めつけられる。


「ほら、由梨もこっちこっち」

「…………」


 恵美の声に導かれて、由梨ちゃんは教室中の視線に押しつぶされそうになりながら、それでも小さく息を吸って、ぎこちない足取りでこちらへ向かってくる。


 膝が少し震えているのが分かる。

 肩も縮こまっている。だけど、逃げない。

 迷いながらも、必死に一歩ずつ距離を詰めてくる。


 その姿が胸の奥に突き刺さった。

 健気すぎて、可愛すぎて、胸がぎゅっと締めつけられる♡


 胸の内側が熱くなって、呼吸が浅くなる♡

 指先にじわっと血が集まって、抱きしめる形に勝手に丸まってしまう。身体が前に出そうになる♡

 ほんの半歩止めなければ、そのまま駆け寄って腕を回していた♡♡


 ああ……好きすぎて……心が震えてる……♡

 ただ抱き締めたくて……頭の中が由梨ちゃん色に染まってく……♡

 愛してる……この気持ち、全部受け止めて……お願い……♡


 けど同時に、胃の奥が重く沈む。守れなかった。

 近くにいてあげられなかった。

 由梨ちゃんが莉里に絡まれたのは私の所為だ。


 その罪悪感が、胸の裏側に鈍い痛みを走らせる。

 息を吸うだけで苦しい。喉が熱い。

 涙腺が揺れて、視界の中心が滲みそうになる。


 抱きしめたい。

 でも抱きしめる資格があるのか分からない。


 二つの感情に挟まれて、身体が震えた。

 心が揺れたんじゃない。

 本当に身体が震えた気がした。


 そんな中、頭の奥では別の疑問が次々と弾ける。


 なんで恵美は、いきなり「由梨」なんて呼び捨てにしたのか。

 呼び方って、ただの記号じゃない。

 本人との距離感であり、力関係そのもの。


 呼び捨ては、関係性を一段引き寄せる。

 けれど同時に、それは由梨ちゃんを“みんなの目”の前に押し出す合図にもなる。


 スクールカーストは空気のような生き物だ。

 ほんの小さな変化で、簡単に歪み、揺れ、誰かを上げて、誰かを沈める。


 もし──恵美の呼び方ひとつで、この空気が変わったら。

 もし由梨ちゃんが変な注目を浴びて、裏で変な噂されて、その結果、傷つくことになったら……

 胸の奥がざわざわして、嫌な汗が背中を伝った。


 それに、これから話す内容を由梨ちゃんに聞かせていいはずがない。いや、違う。

 聞かせたくない。巻き込みたくない。


 これは私と莉里の問題だ。

 もっと言えば、私の我儘と莉里の意地の張り合いで、私が放置してきた澱みのようなもの。

 由梨ちゃんにだけは、それを触れさせたくない。

 あの子の純粋さに、自分の濁った部分を映されるのが怖い。


 由梨ちゃんを危ない話に付き合わせたくもないし、私の狡くて打算的な会話を聞かせるなんて絶対嫌だ。由梨ちゃんの前では、できるだけ綺麗で可愛くて、憧れられる私でいたい。


 なのに──恵美は、何のためらいもなく由梨ちゃんに声をかけて。勝手に巻き込んで。

 言いたいことは山ほどある。

 問い詰めたいのに、喉の奥につかえて、言葉にならない。


 私は恵美を恨めしげに睨んだ。

 視線で抗議するように、責めるように。

 でも恵美は、愉快そうに笑った。


 まるで全部計算済みで、私の動揺すら楽しんでいるみたい。

 風が吹き抜けていくみたいな軽さで、私の葛藤なんて取るに足らないものだと言わんばかり。


 だけど、それでも。由梨ちゃんを莉里から救い出したのは、間違いなく恵美だ。


 私が目を背けてきた結果を、恵美が代わりに処理してくれた。それは私の尻拭い。

 だから何も言えない。

 私に恵美を責める資格なんてない。


 私に出来ることは、そんな恵美の笑顔に呆れたようにため息を吐くことだけだった。



 学校の空気感について語るとき、人はよく「小さな社会」と言う。

 スクールカーストなんて言い換えることも出来るけど、その言葉の軽さに反して、その空間にはとんでもなく精巧で、しかも残酷な“秩序生成装置”が働いている。


 大人の社会みたいに給与や肩書きといった明確な指標がないぶん、むしろ純度が高い。

 人間関係の“生態系”そのものが剥き出しになっている。


 お金が介入しない世界では、序列は別の形で浮かび上がる。声量、ノリ、反応速度に表情の使い方。

 笑われる側か、笑わせる側か。

 誰の名前が呼ばれ、誰が呼ばれないか。


 そういう目に見えない要素が空気中に散っていて、知らないうちにそれぞれのカーストの位置取りが決まっていく。


 朝、教室に入った瞬間のざわめき。

 そのざわめきの“中心がどこか”。そこに自分が近いのか、遠いのか。


 休み時間に立っている場所、座っている場所、そこに誰かが寄ってくるのか、寄ってこないのか。

 そんな些細な出来事が、まるで読み取られるように積み重なっていく。


 カーストは階段と言うより、地層に近い。

 押し固められ、薄く層をなし、上から見れば平坦に見えるのに、踏み込んだ瞬間に高低差が露わになる。


 しかも誰も「決めた覚え」がないのが厄介だ。

 教師が決めたわけでもないし、ルールブックがあるわけでもない。

 それなのに、暗黙のラインが確かに存在し、越えてはいけない距離や、許される発言が自然と定められている。


 その正体は、たただの“同調圧力”だと言いたくなるけど、それだけではとても説明しきれない。

 もっと原始的な本能が働いている。


 群れの安全を守るために役割を割り当て、中心と周縁を分けるという、動物的な社会形成の名残。

 だからこそ、どれほど曖昧で弱々しく見えても、その秩序は思った以上に強固だ。


 霧のように曖昧で、どこにでも漂い、触れられない。なのに、確かに視界を奪い、行動を制限する。

 教室という空間は、単なる勉学の場ではなく、“空気の力学”で人を縛る装置だった。


 そして何より皮肉なのは──その秩序を壊すのは簡単じゃないのに、動くときは一瞬だということ。

 誰かの発言、誰かの嘲笑、誰かの沈黙。

 それだけで、空気の流れが変わり、気づけばカーストが書き換わっている。


 社会の縮図というより、“社会の濃縮液”に近い。

 スクールカーストとは、人間関係の法則をむき出しにして、煮詰めたようなもの。

 根源的な世界のルールみたいに思う。

 

 そして、"権威性"という言葉は、スクールカーストの核心をつかむにはこれ以上ない概念だと思う。


 ここでいう権威性は「偉そうにしている人」なんかじゃなくて、“空気に影響を与える力”。

 それを認める権力そのもの。


 発言の通りやすさ。

 空気感の支配。大衆の認識を書き換える一言。

 それを発揮できる人間が、カーストにおける序列の高い位置に据えられていく。


 権威性を持つ人とは単なる椅子取りゲームの勝利者ではない。

 その場の雰囲気を変えられる人のこと。

 存在するだけで、周囲の反応が揺らいでしまう。


 「あの子が言うなら」「あの子が笑ったら」

 一人の意志が、他人の行動選択を侵食し始める瞬間、それはもう権威性持ったことに等しい。


 そして、興味深いのは、この権威性は特定の空間や集団でしか機能しないということ。

 周囲が「権威性がある」と認めたときに初めて成立する。

 だからスクールカーストは、支配というより合意に近い。無言の、多数決にも似た社会的承認。


 その構造を理解したうえで、「私」──白鳥沙織は自分の立ち位置を自覚している。

 そこそこの影響力があり、周囲が反応を変える程度の存在感はある。


 でも、それをわざわざ恵美に対して振りかざすようなことはしない。

 恵美は「私」に影響力を行使できるが、「私」は恵美の自由を拘束しない。


 その非対称性は、力関係というより認識の問題だ。そして、「私」は恵美に対して、その支配されなさをむしろ求めている。


 自身の“勝手”を許さない存在は、窮屈ではなく貴重である。何を言っても肯定され、何をしても許されるような立場は、自由に見えて自分という輪郭を失いやすい。


 けれど、対等ではなくて、制動をかけてくれる相手がいると、自分の輪郭がはっきりする。

 恵美はまさにそんな役割を担ってくれている。


 だからこそ、「私」は頂点に立とうとしない。

 カーストの最上段は華やかに見えるが、高い位置ほど風当たりは強く、孤立も深い。


 周囲が期待を押しつけ、価値は役割に薄まり、存在そのものが象徴になってしまう。

 頂点は称号であって、安全地帯なんかじゃない。


 でも、恵美は違う。

 頂点に立ちながら、自由だ。


 他人の目を怖れず、肩の力を抜ける。

 良い意味で軽く扱い、時に弄ぶ余白すら持っている。背負うはずの重圧を重圧として扱わず、楽しさに変換できる性質。

 それが周囲を納得させ、自然と頂点へ押し上げている。


 だから「譲っている」と言うと驕りに聞こえるかもしれないけれど、実際には“適材適所”に近い。

 このクラスの頂点は恵美が最も似合っているし、恵美がいるからこそ「私」は私のままでいられる。


 逆らえないのではなく、逆らう理由がない。

 感情ではなく構造として成立している関係。


 だから、このクラスの頂点は恵美。

 そこには強制も奪取もなく、ただ空気が導いた帰結がある。

 私──白鳥沙織には、橋本恵美の存在が必要だ。


 ああ……恵美のこと、好きすぎて……心が震えてるの……♡

 愛してる……この気持ち、全部受け止めて……お願い……♡

 もう私……貴女なしじゃ息もできない……♡


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