第60話 由梨ちゃんとそんな関係が恋しいの♡
昼休みの終わりを告げるチャイムがまだ鳴りきらないうちに教室へ戻る。
ざわざわした空気の中、みんなが教科書をそろえたり席に戻ったりしていて、普段なら何でもないいつもの光景のはずなのに、妙に距離感のある風景に感じてしまう。
その中で、恵美が私のほうへ歩いてきた。
普段の彼女の涼し気な表情のままなのに、視線の奥にだけ、ふっと影がさしている。
てっきり、告白について聞いてきて、面白がりながら、冷やかしてくるはず、なんて予想が一瞬で崩れて、思わず息が詰まる。
私は椅子を引き、腰を下ろしながら恵美へ身体を向ける。
机の角が手のひらに触れると、やけに冷たく感じた。
あまり良い予感がしない。
胸の奥がじわりと沈んでいく。水に石を落としたみたいに、どこまでも底へ。
「ごめん、沙織、ちょっといい?」
恵美の声は、静かで、やわらかい。でもそのままでは終わらない質量を含んでいた。
「もちろん。何かあった感じ?」
「詳しくはまた授業終わったら話すけど、由梨──坂尾さんが莉里に絡まれてたから、その報告」
その瞬間、世界が薄くなる。
恵美の口から放たれた「絡まれた」という硬い響きが、空気を切り裂くように胸に刺さる。
頭では意味を理解しようとするのに、身体は勝手に反応する。
心臓がひとつ大きく跳ねてから、急に冷えていく。背中の方にすっと氷を押し当てられたような感覚が走る。
指先が細く震えて、机の上に置いた手の甲がわずかに強ばる。
視界の端がゆっくり暗くなるような、焦点が遠のくような感覚。
呼吸も浅くなる。
息を吸い込んだはずなのに、胸の奥まで届かなくて、細い管を通されているみたいだ。
恵美の表情に感情が乗っていないのが、余計に不安を煽る。
淡々とした声だからこそ、事態の重さだけが濁りなく胸に落ちてきた。
由梨ちゃんの席を少しだけ覗く。
不安を抱いて揺れてるような、固くて気まずそうな表情が視界の端に映った。
私の知らないところで、由梨ちゃんがトラブルに巻き込まれたという現実が、身体の奥の奥を締め付けてくる。
予想していなかったわけじゃない。
むしろ、覚悟だけはずっと心のどこかに置いていた。
由梨ちゃんとふたりでいるところを莉里に見られた瞬間、あの子の性格からして何かしらトラブルの火種が生まれることは、覚悟していた。
だからこそ、私は先に動いた。由梨ちゃんを守るために。
由梨ちゃんにメイクをしてあげて、「この子は特別なんだよ」って周囲に自然と伝わるように、みんなの視線の真ん中へと、そっと押し出した。
カーストの位置を少しでも上げておけば、誰かが気にかけてくれる目の数が増える。
困った時、一人で抱え込まずに済むかもしれない。
彼氏にも、「大事にしようね」と静かに伝えた。
あれは圧を掛けたいだけではなくて、ただ、私の気持ちをひとつだけ共有して欲しかっただけ。
由梨ちゃんのことを、ちゃんと尊重してあげて欲しくて。
私も出来る限り、注意するつもりでいた。
どんな形であれ、由梨ちゃんに危険が及ばないように。でも、完璧なんて、最初からあり得ないとも分かっていた。
私は完璧になんか出来ない。
万能な主人公でもなければ、誰かの未来を全部守れるほど強くもない。
届く範囲は限られていて、目の前の一つを拾い上げれば、その背中で別の何かを落としてしまうことだってある。
みんなそれぞれの思惑で動いている。
自分の望む結果のために、知らないところでやり取りをしている。
その流れの中で、私の予想や努力がすり抜けてしまうこともある。それが現実。
だから、やれるだけのことをやるしかない。
限られた時間、限られた手、限られた頭で。
自分の時間と相手の時間、
自分の気持ちと相手の気持ち、
周りとの関係性の綾まで全部抱えながら、
なんとか折り合いをつけるしかない。
完璧じゃなくていい。
ただ、守りたいと思った瞬間に、ちゃんとその人を守るために考えることができる私でいたい。
それをするために積み上げてきたものがある。
私の信用。丹念に磨いてきた立場。
クラスという狭い生態系の中で、私がどんなカーストの上に立っているのか──
それを調整するために使ってきた時間と、見えない努力。
全部、由梨ちゃんを含む、女の子を守るためのもの。そう言い切れるくらいには、私は自ら動いてきた。
誰にどう見られるか、何を言えばどう動くか、そんなことを考えながら積み上げてきたものだ。
それでも、胸の奥にこびりつく思いは消えてくれない。あの子にもっとできることがあった気がしてならない。
由梨ちゃんと仲の良い子たち──
たとえば休み時間に一緒にいるあの子たちに、
「最近、由梨ちゃんちょっと疲れてるみたいだから気にしてあげてね」
そんな一言を添えるだけでも違ったかもしれない。
人間関係の調整なんて後からいくらでも手を回せる。もし誰かが由梨ちゃんに嫉妬したって、私が間に入って笑って誤魔化せば済む話。
そんなの、今まで何度もやってきた。
なのに、私は──やらなかった。
いや、“しなかった”のではなく、“できたのに選ばなかった”。
やるべきことはやった。もっとできたはず。
この二つの思いが、胸の中で拮抗して、
その摩擦で心がじりじりと焼けたように痛む。
自責の念を重ねたところで意味なんてない。
そんなものは結果を変えてくれないし、ただ自分の心を傷つけるためだけの行為だって分かってる。
それでも──理屈ではどうにもならない感情がある。由梨ちゃんを巻き込んだのは、私のせいだ、と。そう思えてしまう。
無理やりコスメ屋さんに連れて行かなければ。
ただのカフェで食事するだけにしておけば。
そもそもお出かけなんてしなければ。
そもそも相談だけで終えておけば。
ありもしない“別の未来”が、影絵みたいに胸の奥で何度も浮かんでは沈んでいく。
そして沈むたびに、鈍い痛みだけがじわりと広がる。
由梨ちゃんを巻き込んだ。
それを受け止めるのは──わかっていても、心が痛む。理屈で整理しても、感情の穴は埋まらない。
その穴をどう扱えばいいか、身体の方が先に反応してしまう。
胸の奥でグッと何かが縮む。
みぞおちのあたりが、ぞわりと冷える。
呼吸は浅く、細く、まるで空気が肺に拒まれるみたい。
脳が、この苦しさを“理解”しようとしてくれる前に、身体はもう痛みの方へ傾いていく。
自分を責める考えが次々に浮かんでくるのは、思考というより “自罰への欲求” に近い。
心の均衡を保つための、歪んだ処理方法。
“傷つくことでバランスを取ろうとする” 危うさが、胸の内側をぎゅうっと掻き締めてくる。
脈が静かに速くなる。
指先がひやりとして、少し震える。
理由は一つなのに、身体が全部で代償を払おうとしてくる。そのくらい私にとって、由梨ちゃんのことが大きかった。
「……それで? どうなったの?」
声は穏やかに保ったつもりでも、微かに硬さが残った。
胸の奥に冷えがあると、言葉ってこんなにも重くなるんだと気づく。
「とりあえず私が間に入って、止めさせた。たぶん変な言質とかは取られてないはず」
「……そっか、ホントに良かった。助かる。ホント、ありがと」
その瞬間だった。
ふっと、胸の内側に溜まっていた重さがほどけるように抜けた。
息がゆっくり深く吸い込める。
肩が静かに落ちる。
喉の奥にあった緊張が、やわらかく溶けていく。
怖かったんだとようやく理解する。
それくらい、由梨ちゃんを守れなかった未来が嫌だったんだ。
身体が先に軽くなると、頭も追いついてくる。
平均から飛び抜けたもの──才能、美貌、立ち位置。そういうものは、本人が望んでなくても周りに歪みを生む。
お金持ちの子が全身をブランドで揃えていたら、隣に立つ自分の服がやけに安っぽく見えてしまうみたいに。
どれだけ勉強しても、簡単に満点を取る誰かがいれば、自分が積み重ねてきた努力ごと否定された気分になる。
人は比較で歪む。だから、歪みは自然に起きる。
飛び抜けてスポーツが得意な子がいれば、チームの空気は自然とその子の重力に引き寄せられる。
強い子ひとりがいるだけで、作戦も、流れも、世間からの視線まで変わっていく。
綺麗な子がいれば、視線はそこへ吸い寄せられる。廊下を歩くだけで、周囲の空気がその子の輪郭をなぞるように揺れる。
無意識のうちに、みんながその子を“中心”として扱い始める。
羨望と嫉妬、理想と反発。
一人の人間には到底収まりきらないほどの感情が絡みついていく。
好意のふりをした所有欲、応援の形をした監視、憧れの裏返しの嫌悪。
それら全部が、ゆっくりと渦を巻き、やがて大きな唸りとなって、教室という狭い箱を軋ませる。
そしてその歪みは、いつだって“中心”にいる子ほど深く刺さる。
もし、私が特別綺麗なんかじゃなければ──そんな考えが不意に胸の奥で灯る。
私が特別じゃなければ、私が莉里やあの男の視界に入ることもなかった。
由梨ちゃんが巻き込まれることだって、きっとなかった。
誰しにも好意を向けられて困ることもなかったし、告白を断る時に、心臓の奥がひりつくような罪悪感を抱かずに済んだ。
「どう身を守ろう」とか、
「誰が敵で、誰が見ているのか」とか、
そんなことばかり、頭を使う必要もなかった。
誰と仲良くするかでカーストが揺れるなんて考えずに、もっと気楽に、もっと自由に、ただやりたいことだけに集中すればよかった。
もちろん、これは“私が選んだ立場”。
望んだなら受け入れる覚悟も持つべき立ち位置。
それくらい、わかっている。理解している。
それでも──
“もしも” の影はひそやかに心へ入り込んでくる。
この顔じゃなかったら、
この立場じゃなかったら、
この注目も、責任も、危険も、
最初から存在しなかったはずなのに。
自分で選んだ道でさえ、
息が詰まりそうになる瞬間がある。
特別であることの代償を、
時々こうして考え込みたくなる。
こんなのただの被害者ぶってる気持ちの悪い自己憐憫で、贅沢な愚痴だと理解している。
他の子からしたら、ただ癪に触るだけで、自分に酔おうとしてる自慰行為。
それでも、ほんの少しだけ、自分の弱さに触れていたくなる。
ルックス良く生まれたことの恩恵は、数えればきりがないのだと思う。
言葉にできるものだけじゃなくて、私が一生気づかないまま受け取っている恩恵だって、たぶん山ほどある。
だけど、そうじゃなかった人生もどこかに存在していて。その人生の私は、きっと男がどうとか意識することもなくて、ただ由梨ちゃんと並んで、コスメを手に取って笑って、気楽に帰ってきていたんだろう。
ナンパに気を配る必要もなくて、視線を避けたり、危険を想定して歩く必要もなくて。あの街並みを、もっと無防備に二人で楽しみたかった。
少し距離をつくるような“羨望”も感じたくなくて。
隣にいる由梨ちゃんから、嫉妬や劣等感や無力感みたいな黒い影を感じることもなかったはずなのに。
私が隣にいるから、あの子は苦しむ。
ただ並んで歩いているだけで、誰かの心に痛みを生んでしまう。
その事実を分かってしまうから、余計につらい。
本当はもっと、由梨ちゃんの優しさに素直に凄いなって憧れたかった。
恵美の、周りを巻き込んでみんなを自然に楽しくさせてしまうあの天性が、ただ羨ましいと笑って言いたかった。
莉里の“絶対に負けない”って光に、負けを認めて焼かれたかった。
もっとみんなのすごいところに嫉妬して、勝手に絶望して、泣きそうになりながら「私って何なんだろう」って自分に打ちのめされたかった。
本当は、もっと自分の嫌なところをさらけ出してみたかった。
みっともない独占欲とか、卑屈さとか、全部。
そのうえで──それでも私を認めてくれる?
そんな弱々しい問いを、誰かに投げてみたかった。
そんなこと、今の私に出来るはずがない。
私はみんなの憧れで、望まれるものを全部持っている“側”の人間だ。
そういう役割を与えられて、そういう顔で見られている。
そんな私が誰かに嫉妬したって、言葉の端々がぜんぶ嫌味に変わる。
同情されても、茶化されても、どれも私の求めている答えじゃない。
たぶん、受け入れてはくれる。
いや、受け入れざるを得ないだけだ。
その子は私に合わせてくれる。私の気持ちに寄り添ってくれる。
その優しさに触れて、私はほんの少しだけ癒されて──その癒しのために、結果としてその子を傷つけてしまう。
弱音を吐いたら「嫌味」になる。
涙を見せれば「演技」になる。
嫉妬を滲ませたら「余裕ぶってる」と笑われる。
どう足掻いても、私の感情は“対等”には扱われない。
私の言葉はいつだって天秤の片方だけを重くして、相手に負担をかけてしまう。
だから私は、褒めて、認めて、励まして、そうやって“良い人”でいることでしか、大切なみんなと関われない。
本当はもっと、くだらない話で盛り上がってみたかった。
無意味にふざけて、笑いながら軽く小突き合ったりしてみたかった。
そんな当たり前の距離感が、私にはずっと遠い。
勇気がないのか、身勝手になれないだけなのか、そこに気づくたび、胸の奥がひどく空虚になる。
誰にも触れられないまま、空洞だけが広がっていく感覚に、息が詰まる。
だけど──
今の私がなかったら、恵美とこんな風に笑い合えなかった。
憧れられたり、関係を築いたり、あの子たちと交差する未来すら手に入らなかった。
そんな人生は、想像するだけで怖い。
それでも、それでもね。
ほんのわずかでいいから、そんか世界の“普通の私”が覗いてみたかった。
名前も光も背負わずに、ただ誰かと対等に笑いあえる時間があったら──
どれほど心が軽かったんだろう。
叶わないと分かっていても、そんな私を恋焦がれずにはいられなかった。




