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第59話 ※莉里視点 沙織には絶対に譲らないの♡

 私は悔しさと焦燥に揺れながら、廊下を速足で駆ける。


 くそっ、くそっ、くそっ。

 失敗した、失敗した、失敗した。


 呼吸が上手く入らない。胸の奥がぎゅっと縮こまり、酸素が喉の手前で跳ね返る。

 足音がやけに響くのに、体の感覚はふわついて、地面を踏んだ気がしない。

 手のひらには冷たい汗が滲んで、指先はじんじんと痺れている。

 肩で息をしながら、それでも止まれなかった。 止まったら、このどうしようもない悔しさに押し潰される。


 沙織の下駄箱に、わざわざ手書きのラブレターを仕込んだ。

 時間稼ぎのためだけに用意した、気持ち悪い嫌がらせ目的の雑な手紙だ。

 ついでに、その告白役として、どうでもいい男を一人向かわせた。


 その目的は、沙織を坂尾から引き離して、一時的に排除するだけ。

 ただ時間を奪い、足止めして、予定通り坂尾を“合コン”に連れて来られればそれで良かった。


 沙織がいなければ、あんな気の弱い、沙織の金魚の糞みたいな子なんて、少し脅すだけで十分だと思ってた。

 腰を引いた声で“分かりました”って言わせるだけでよかった。

 

 なのに……

 なのに、手を振り払った。

 あの子が、私に。

 あんなふうに。


 胸の奥がちりっと焼けたみたいに熱くなる。悔しさと、否定された痛みが一瞬で混ざる。


 舐めるのも、いい加減にしろ。

 お前と私じゃ、学校での立場が全然違うんだよ。

 私がどれだけ皆に言うこと聞かせられると思ってんの。

 どれだけ人を動かせるか、それがどれほど価値になるか。


 それに、恵美がわざわざ介入してくるなんて。

 あんな雑魚に、そんな価値ないはずなのに。

 なんで。

 なんで、あんな子なんかを助けるの。


 悔しい。

 胸の奥がざわざわして、息が荒くなる。

 歩幅をさらに大きくして、廊下の角を曲がる。


 まるで、心臓を直接握られてるみたいだ。

 苛立ちと焦りで、爪が掌に食い込むほど強く握りしめていた。


 もしかしたら、沙織が事前に何か口添えしていたのかもしれない。

 そう考えると、胸の奥がざらりと逆なでされる。

 あの子、見た目に似合わず本気で動くときは誰よりも早い。

 まさか、先手を打たれていたなんて。


 私が坂尾を知ったのも、沙織と一緒にいたあの日がきっかけだ。

 あの子は、本当に沙織の影みたいにくっついて歩いていた。

 その気弱そうな立ち姿を見た瞬間、直感した。

 “利用できる”。


 しかも、もし坂尾が巻き込まれた原因が自分にあると分かれば、沙織は必ず動く。

 あの子はそういう、妙に真面目で損なところがある。


 “合コン”と銘打っておけば、誘われた時点では断りづらい。

 表面上は健全で、ただの遊び。

 坂尾の口から「行く」と言質さえ取ってしまえば、沙織は強く否定出来ない。


 そこまで仕込めたら、もうこっちのもの。

 沙織は、基本的に他人の気持ちを無視出来るタイプじゃない。

 自分のせいで誰かが困っていると思えば、覚悟を決めて足を運ぶ。

 その優しさが致命的な弱さになる。

 ……そのはずだった。


 私の頭の中では、沙織の“あの顔”が崩れていくところを何度も想像していた。

 あの子が得意げに浮かべる微笑みが、すこしずつ剥がれていく。

 誤魔化しも、強がりも、全部意味をなくしていく。

 普段どれだけ涼しい顔を装っていても、

 状況を自分のペースでコントロール出来なくなるだけで、人間なんて簡単に揺らぐ。


 そこに、坂尾という足手まといが加われば、沙織はより動けなくなる。

 その負担が彼女の肩にのしかかる瞬間──

 私はそんな彼女の“堕ちる瞬間”を、この目で見たかった。


 あの整った顔が曇り、

 あの余裕を含んだ目が揺れ、

 自分の立場を思い知らされる、その一瞬。


 美しくて、壊れやすくて、どうしようもない“弱さ”が露わになる瞬間を。


 そうすれば、きっと彼氏も私を手放さない。

 「莉里が必要だ」って、求めてくれる。

 学校でも、誰も逆らわなくなる。

 恵美だって、あの頃みたいに私の側に戻ってくれるはずだ。


 沙織の“オマケ”みたいに扱われる日々なんて、もう終わる。

 恵美だって、私が主役のほうが嬉しいに決まってる。


 そう想像するだけで、全身がじんわりと熱を帯びていく。

 心臓の鼓動が、まるで湯気を立てるみたいに胸の奥で膨らんだ。

 口元が勝手に緩む。

 頬が上がる感覚と一緒に、喉の奥がくすぐったくなる。

 ぞくりとした高揚が背筋を撫でて、足取りすら軽くなる。


 そうなっていたはずだったのに、失敗した。

 頭を少し冷やせば分かる話だ。

 あの沙織が、自分の弱みを人前で晒し続けるなんてありえない。

 あの子は慎重過ぎる。いや、ずる賢いと言ってもいいくらいだ。


 あの人好きする笑顔──あれは、ただの“表向きの仮面”だ。

 柔らかい顔をして近づいてくるくせに、

 心の中身はどこまでも冷静で、どこまでも疑り深い。


 “もしあの子が裏切ったら?”

 “もし思わぬ方向に転がったら?”

 “もし自分が断れない状況になったら?”


 そういう“もし”を、無限に並べて、

 その全部に備えてくる。


 本当は、私たちのことなんて一切、信じてなんかない。

 あの子の中では、いつだって“自分の身が一番大事”だ。

 それでも、表面だけは綺麗に整える。

 相手に合わせて、笑って、頷いて、

 “分かったふり”をして距離を取る。


 そのくせ、カーストや影響力が下がる評判にだけは妙に敏感だ。

 自分が悪口の原因になるようなことは──絶対に許容しない。

 それがたとえ面倒で、たとえ誰かに恨まれるリスクがあっても、あの子は自分の手で潰しにかかる。


 沙織の悪口を広めようとしても、それがまた難しい。

 本来なら、あの完璧すぎる聖人君子の噂話なんて、みんな大好物のはずだ。

 「実はあの白鳥沙織にも悪い噂があるらしいよ」なんて囁けば、瞬く間に火がつく。

 そう確信していたのに、なぜかそうはならない。


 まるで、沙織に関する悪意だけが、世界から弾かれているみたいだった。


 沙織の生き方は、どうしてあんなに綺麗なんだろう。

 どこか歪んでいるのに、芯の部分はまっすぐで、理屈じゃなく光を放つ。

 ただ視界にいるだけで、心を掴まれるような、吸い込まれてしまいそうな輝きを纏っている。


 そのまっすぐさの前に立つと、自分の影が伸びていく。

 ちっぽけで、取るに足らなくて、捻れて濁った部分ばかりが浮き彫りになる。

 まるで、自分の存在が“くだらない”と告げられているみたいだった。


 それでも、悪口を流そうとした。

 せめて、少しでも揺らいでほしかった。

 あの均整の取れた笑顔が、ほんの僅かでも崩れればいいと願った。


 だけど──広まらない。


 沙織は誰に対しても分け隔てなく手を差し伸べる。

 その優しさは、計算なのか天然なのか分からないほど精密で、気づけば誰もが沙織に“借り”を作っている。

 その子自身には何もなくても、仲の良い友達が助けられたことがある。

 妹が虐められたあの子は、沙織に救われたことがある。

 孤立しかけたあの子は、沙織に拾われたことがある。


 そういう繋がりが、校内のいたるところに網みたいに張り巡らされている。


 そんな相手の悪口なんて、軽々しく言えるはずがない。もし噂を広めたら、その友達がどう思うか。

 もし耳に入れば、何が起こるか。

 みんなそこまで考えて、口をつぐむ。


 だから私が吹き込んでも、誰も広めようとはしない。

 悪意が芽生える前に、借りの記憶や、あの圧倒的な“善性”のイメージが、躊躇いを呼び戻してしまう。


 沙織の光は、あまりに強すぎて、

 影を生み出すくせに、誰にも影を認めさせてはくれない。


 そのうちに、その子自身も気づかぬまま沙織の世話になってしまう。

 忘れものをそっと届けてくれたり、困っていると当たり前みたいな顔で手を貸してくれたり、ほんの一言だけ励ましをくれたり。本当に取るに足らないような出来事ばかりだ。

 でも、そういう小さな親切ほど、胸の奥に静かに残る。


 気づいたときには、もう悪口なんて言えるはずがない。

 それどころか、沙織の輝きに魅せられてしまう。

 綺麗で、真っ直ぐで、どこか歪ささえ愛おしい。矛盾を抱えたまま、それでも前を向いて歩くあの背中に、気づけば心酔していく。


 見れば見るほど、美しい。


 流線を描くような目元。吸い込まれるみたいな瞳の奥に、時々ふっと影のような静けさが宿る。その一瞬だけの陰りが、完璧さに人間の温度を足してしまって、なおさら目を離せなくなる。

 サラサラとした黒髪は歩くたびに微細な光を散らし、指先で触れたらどんな感触なんだろうと想像してしまう。


 美しいというだけでは足りない。

 “神秘的”という言葉のほうがまだ近い。


 そんな沙織を意識するだけで、胸の奥がじわっと熱くなる。心臓が勝手に早くなって、脈が耳の裏側まで響いてくる。息が浅くなって、吸い込むたびに肺の中がざわめく。

 頬の内側が熱を帯び、足先までじんとしたしびれが落ちていく。


 触れてもいないのに、ただ視界に入るだけで、体が反応してしまう。


 その魅力はあまりに強くて、ほんの一瞬でも自分が飲み込まれそうになる。

 好きとか憧れとか、そんな単純な言葉で区切れる感情じゃない。

 “美しさに心が奪われる”って、こういうことを言うのだと知ってしまう。


 だからこそ──その恐ろしさに、心が震える。

 抗うことも、目を逸らすこともできないまま、ただその輝きの前に立ち尽くすしかない。


 そんな自分が、どうしようもなく嫌になる。

 胸の奥についた黒い泥をかき回されるみたいで、呼吸がひりつく。

 憧れているなんて、認めたら崩れてしまいそうで。

 羨ましいなんて、そんな言葉を吐いた瞬間に“私”が終わってしまいそうで。


 穢らわしい。弱い。みっともない。

 そう思えば思うほど、沙織の姿がまぶたに焼きついて離れないのが、さらに腹立たしい。


 私は誰にも負けない。

 私は誰にも屈しない。

 私は──私だ。


 どれだけ沙織が眩しくても、心を攫われたりなんてしない。

 決して、あの子の思い通りにはならない。

 たとえ胸の奥が勝手に震えても、足が少しすくんでも、それでも“立つ場所”だけは譲らない。


 そのためなら、何だってしてみせる。

 悪い男とだって付き合う。

 求められれば、身体だって差し出す。

 学校の友達だって、いくらでも男にくれてやる。

 どうせ私なんて、元から綺麗じゃない。汚れることなんて、怖くもなんともない。


 でも──心だけは、絶対に渡さない。

 誰かに触れられても、奪われても、使われても。

 その奥にある想いだけは、誰の手も届かない場所に隠しておく。


 この心は、想いは、私だけのものだ。

 そこにだけは、沙織でさえ踏み込めない。

 踏み込ませてたまるものか。


 けれど、そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の奥の小さな震えが静かに熱を帯びていくのを、私は止められなかった。

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