第57話 ※由梨視点 もっと沙織ちゃんのことを知りたいの♡
高木さんが階段を下りていく背中を見送ると、空気が一気に軽くなった。
それまで胸の奥で張り詰めていた糸がぷつんと切れたみたいで、私は思わず肩の力を抜いた。
隣で橋本さんが、気怠そうに長いため息を吐く。
その仕草には、苛立ちとか呆れとか、そういう色が少しだけ混じっていて──それなのに、どこか余裕があった。
まるで、こういうことにはもう慣れてるって顔。
私はその様子をぽかんと見つめて、頭の中がまだ現実に追いついていなかった。
けど、ふと「助けてくれた」って気づいた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
慌てて背筋を伸ばし、ぎこちなく頭を下げる。
「……あ、あのっ、橋本さん。ありがとうございますっ」
声が少し裏返って、自分でも情けなくなる。
でも、橋本さんは眉一つ動かさず、気の抜けた声で答えた。
「いーよ。私はちょっと声かけただけだし。お礼なら、心配してくれた友達に言ってやりな」
その言葉に、彼女が階段の方を顎でしゃくる。
そこには──私の友達たちが、柱の影から小さく顔を覗かせていた。
降りてきた高木さんに睨まれたせいか、身体をぎゅっと縮めて、気まずそうにこちらを見ている。
目が合うと、私は反射的に笑顔を作った。引きつった笑顔だったけど、なんとか「大丈夫」って伝えたかった。
みんなも、少しだけ安心したように笑い返してくれる。
その瞬間、喉の奥が少し熱くなった。
野次馬みたいな気持ちもあるんだろうけど、私のために様子を見に来てくれたんだ。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
橋本さんはそんな私たちのやりとりをちらっと見て、少し笑みを溢した後、わざとらしくみんなに手をしっしっと振った。
まるで猫でも追い払うみたいな雑な仕草。
教室に戻れ、って意味なんだと思う。
みんなは一瞬きょとんとした顔をしたけれど、何も言わずにこくりと頷いて、踵を返して歩いていった。
その背中が見えなくなった頃、橋本さんがもう一度ため息をつく。
さっきより少し深く、少し優しい音で。
「……はぁ、まったく。こういうの、ほんと面倒くさいわ」
そう呟いた横顔は、どこか遠くを見ているみたいで、私は何も言えずに、ただその姿を見つめていた。
「……今回のことはさ、沙織が原因というか標的だったから、まあ坂尾さんは災難だったよ。出掛け先で莉里に会ったのは運がなかったね」
「そ、そんなことないです。沙織ちゃんとお出掛けできて……楽しかったし」
「そう? とりあえず、さっきあったことは沙織にも伝えとくけど、またああいうことがないとも限らないから、ちゃんと気をつけなよ?」
「……わ、分かりました」
その口調に責める響きはなかった。
でも、事実として突きつけられたその言葉は、静かに胸の奥に沈んでいく。
自分の声は少し震えていた。
空気が喉の奥で擦れるように、掠れて出ていく。
橋本さんは気怠そうに言いながらも、その目だけは真剣だった。
──なんとなく、分かってた。
私なんかが一緒にいて、沙織ちゃんの迷惑にならないはずがない。
沙織ちゃんほど綺麗で、気高くて、人を惹きつける子って、そうはいない。
高木さんの彼氏みたいな、乱暴な人たちが興味を持つのも無理はない。
彼らにとって沙織ちゃんは、滅多にお目にかかれない“最上級の極上品”。
高木さんは、そのために沙織ちゃんのことを"献上品"として、差し出そうとしてる。
そして私は──その沙織ちゃんをおびき寄せるための、ただの餌。
思考がそこまで辿りついた瞬間、呼吸が止まった。
自分でも驚くほどに身体が硬直して、指先が冷たくなる。
唇を噛んだ。
強く噛みすぎて、金属の味が広がった。
でも、痛みがないと、涙が出そうになるのを止められなかった。
心臓の鼓動がうるさい。
脈が耳の奥で跳ねて、世界の音が遠ざかっていく。
──私、そのものには価値がない。
そう思うと、足元から力が抜けた。
壁に背を預けて、息を整えようとする。
でも、吸っても吸っても空気が入らない。喉が詰まる。
橋本さんにも、沙織ちゃんにも迷惑をかけた。
その事実だけで、胸の奥が熱くなって、視界が滲む。
悔しかった。
守られてばかりの自分が、情けなかった。
ただ、沙織ちゃんの隣にいたいだけなのに、怯えて、泣きそうになって──何もできない。
そんな自分が嫌で、息を吸い込んで、奥歯を噛みしめた。
爪が掌に食い込む。
痛みと一緒に、ようやく涙が引っ込む。
それでも胸の奥には、どうしようもない無力感が残った。
まるで、自分の存在が誰かの影のように、意味を失っていく感じ。
「……でさ、坂尾さんに聞きたいんだけど──沙織のこと、売ってねーよな?」
橋本さんの声色が急に変わった。
視線は鋭く、冷たく刺すみたいに変わったかと思えば、一歩、私に近づく。
逃げる隙間なんて与えない、ゆっくりとした動き。
気づけば、背中が壁にぶつかっていた。
その距離は近い。
髪の先が頬に触れそうで、呼吸の熱が肌に落ちる。
さっきまでの軽い調子が、音もなく消えた。
まるで胸の奥を覗き込まれるような鋭さ。
息が止まった。喉の奥がきゅっと締まり、言葉が出てこない。
高木さんみたいに乱暴ではない。
けれど、橋本さんの方がずっと怖い。
静かな声の中に、確信めいた力があって、逃げたら終わりだと本能が告げてくる。
胸の奥がざわざわする。
怖いはずなのに、背筋に電気が走るみたいに身体が反応してしまう。
心臓が速くなりすぎて、呼吸がうまく合わない。
「……う、売る……?」
かろうじて声を出すと、自分の声が震えているのが分かった。
舌の奥が乾いて、喉がカラカラだ。
「遊びに行くとか、沙織も誘うとか言ってねーよな?って聞いてんの。自分が行けば、沙織がどう動くか、分かってないわけないよね?」
「……い、言ってないです」
橋本さんの瞳が、ほんの少しだけ細まる。
光が反射して、そこだけ鋭く光った。
私の足元がぐらりと揺れる。
ようやく出た言葉は、小さくて、掠れていた。
けれど、橋本さんの視線は逸れない。
その静けさが、怒鳴られるより何倍も怖い。
目の奥が熱くなる。
恐怖なのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からない。
──やっぱり、私が行けば、沙織ちゃんは着いて来てくれるんだ。
心の奥で、苦いような甘いような感情がふくらむ。橋本さんも同じように考えていた。
胸の真ん中が痛いのに、どこか嬉しくてたまらない。自分だけがそう思ってたんじゃない。
全身がじんと温かくなって、同時に強烈な罪悪感がこみ上げる。
もちろん、私だけが特別なわけじゃない。
沙織ちゃんは、誰にでも優しい。困っている人がいれば手を差し伸べるし、決してな面倒ごとから逃げたりしない。
私がどんなに隣にいたいと思っても、沙織ちゃんは“みんなのための人”で、私のものになんてならない。
でも、それでも──私のために少しでも沙織ちゃんが動いてくれるのなら、その優しさの一滴でも、私に向けてくれるのなら、それだけで十分すぎる。
そんなふうに思ってしまう自分が、どうしようもなく醜くて。それでも、嬉しい。
目の前が滲んで、視界がぼやける。
心臓が痛いのか、苦しいのか、嬉しいのか、もう分からない。
私の中の沙織ちゃんは、どんどん遠くへ行く。
光の向こう側へ、手を伸ばしても届かない場所に行ってしまう。
それでも、その背中が見える限り、私はきっと追いかけてしまう。
胸の奥がぐしゃぐしゃになって、涙が滲む。
尊敬と憧れと、届かない距離への絶望。
その全部が絡み合って、喉の奥で言葉にならない嗚咽になる。
橋本さんの冷たい眼差しが、現実を引き戻す。
恐怖と、尊敬と、嫉妬と、恋慕──それらが全部混ざって、私の中はもうぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
どうして、こんなにも苦しいのに、心のどこかで嬉しいと思ってしまうんだろう。
「……本当に? 沙織に誓える?」
「……沙織ちゃんに誓います」
その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが締めつけられた。
沙織ちゃんに誓う──たったそれだけの言葉なのに、どこか儀式みたいで、少しおかしい。
橋本さんの瞳の奥にあるのは疑いじゃなくて、沙織ちゃんへの信頼と、守りたいっていう強い意志。
それが伝わってきて、怖いよりもむしろ温かかった。
あんなに恐かった人なのに、今はその強さが眩しく見える。
きっとこの人も、沙織ちゃんのことが大好きなんだ。
その気持ちを感じ取った瞬間、自然と頬が緩んでしまう。
──なんだか、仲間に認めてもらえたような気がして。
「ならよし。てか『いやっ!』って言ってたの聞こえてたしね。莉里に反抗したんだ? やるじゃん!」
「あ、や、なんかもう勢いで……」
「その勢いで言えるのが凄いって言ってんの。もっと自信持ちな。てか、私のことは恵美でイイから。“さん”付けとかダルいし」
橋本さんはそう言って、ニカッと笑った。
その笑顔が意外なくらい眩しくて、優しくて、見ているだけで空気が少し和らぐ。
さっきまでの圧力が嘘みたい。
次の瞬間、ぱしん、と腰の辺りを叩かれた。
びくっと身体が揺れて、反射的に息が漏れる。
でも痛くはない。
その手の温度が、制服越しに伝わってきて──胸の奥がじんわり温かくなった。
「……恵美、ちゃんで。沙織ちゃんにも、とても呼び捨てなんか出来ないから、橋本さんにも難しいかも……?」
「そ? てか坂尾さん、面白いね。私も由梨って呼ぶわ。沙織がバカしそうになったら、ちゃんと教えてね」
「あ、はい。もちろんですっ」
その瞬間、心の奥がほんのり温かくなる。
“由梨”って、あっさり名前で呼ばれて。
呼ばれ慣れていない響きなのに、妙に心地よかった。
胸の奥がくすぐったくて、こっそり笑みがこぼれてしまう。
恵美ちゃんも、再び笑った。
その笑顔は、さっきまでの鋭い視線の面影もないくらい柔らかくて──
まるで、曇っていた空に一筋の光が差し込むようだった。私もつられて笑ってしまう。
「バカしそうになったら」なんて、あんまりな言い方だと思う。
でも、それが本当に“沙織ちゃんらしい”って、すぐに分かった。
沙織ちゃんはいつだって、自分のことを一番大事にしているようでいて、実際は他の誰かのために無茶をする。
無理をしてまで誰かの幸せを優先するし、たぶん止めても聞かないんだろう。
その結果、周りを巻き込んで、心配させて、
それでも「大丈夫」と笑って、また前に進む。
──まるで、嵐みたいな人だ。
自分の意志で風を起こして、みんなを巻き込みながらも、その中心に立っている。
だからこそ、みんなが惹かれる。
誰もが呆れて、心配して、それでも放っておけない。
危なっかしくて、愚かしくて、
「そんなことしなくていいのに」って思うのに──それでも、誰よりも美しくて、格好いい。
そんな人を好きにならない方が無理だ。
その光に手を伸ばして、焼かれるのが分かっていても、それでも近づきたくなる。
だって、あの眩しさを知ってしまったら、もう目を逸らせない。
「んじゃ、私は教室戻るね。早くご飯食べ終わんないと、昼休み終わっちゃうわ」
「あ、うん。私もお弁当残したままだった」
「そうなんだ。なら、急がないと」
笑い合って、二人で廊下を駆け出す。
恵美ちゃんと並んで走る足音が、なぜか心地いい。
まるで、少しだけ自分が強くなれたみたいだった。
たとえ小さな一歩でも、私もちゃんと“沙織ちゃんの力になれた”気がして。
私も、沙織ちゃんの役に立ちたい。
あの人が誰かを救おうとするみたいに、
私も、誰かのために動ける自分になりたい。
何が出来るかはまだ分からない。
力も勇気も、きっと足りない。
それでも、心の奥で確かに何かが灯った。
それは、ほんの小さな火花みたいな光。
頼りなくて、すぐにでも消えてしまいそうなほど儚いのに──
その温もりだけは、胸の真ん中にちゃんと残った。
もっと沙織ちゃんと向き合いたい。
あの笑顔の裏にある想いも、誰にも見せない涙も、全部、知りたい。
もっと、もっと近づきたい。
まだ言葉にならないけれど、この胸の中に灯った想いを、宝物みたいに抱き締めながら、私は教室へと駆け戻った。




