表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/67

第55話 ※由梨視点 沙織ちゃんの光に魅せられたの♡

 私が手を振り払うと、ぱしん、と乾いた音が空気を裂いた。

 一瞬、何が起きたのか分からないように高木さんが目を見開いた。

 その瞳が、みるみるうちに色を変えていく。驚きの色が消え、怒りが広がって、瞳孔がぐっと開いた。

 その黒い穴が私を射抜くように見つめてくる。息が詰まり、胸が痛いほど高鳴った。


「……このっ──」


 言葉と同時に、胸ぐらを掴まれた。

 制服の布が首元に食い込み、喉の奥が締めつけられる。息がうまく吸えず、肺が空気を求めて軋む。

 高木さんの指先が冷たく、でも爪の先だけが熱い。力が入るたびに皮膚を通して痛みが伝わる。

 掴まれた部分が脈打つように痛くて、全身がこわばった。

 逃げようとしても腕が動かない。心臓の鼓動が耳の中で鳴って、自分の声も遠くに感じる。


 その時だった。


 階段の上から、コツンと靴音が響いた。

 続けざまに、聞き慣れた声が空気を裂いた。


「おーい、その子、沙織の“お気に”なんよ。あまり苛めないでやってくれる?」


 低く、でもはっきりとした声音。

 橋本はしもと 恵美えみ──教室でよく笑ってる彼女の声なのに、今はまるで別人みたいに冷たく聞こえた。


「……恵美」


 高木さんが小さく呟く。

 その瞬間、胸元を掴んでいた手が、火傷したみたいにぱっと離れた。

 押し込められていた空気が一気に喉を抜け、息が震えながら漏れる。

 肩が勝手に上下して、涙が出そうになるのを噛み殺した。


 橋本さんは階段の踊り場に立ち、微笑んでいた。

 けれど、その笑みの奥には刃のような冷たさがあった。


「近くの廊下まで声、漏れてたから。……やるなら、もっと上手く誘いなよ」


 その声は優しい響きを持っているのに、どこまでも鋭い。

 有無を言わせない圧力が空気を支配して、高木さんは小さく舌打ちをすると、何も言わずに視線を逸らした。


 橋本さんが、軽く顎をしゃくって廊下の方を示す。

 その視線を追うと、廊下の向こうには、私のクラスの女子たちが数人。

 好奇心と、少しの心配が入り混じった目で、こちらを見ていた。


 途端に、胸の奥に張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

 肩から力が抜けて、背中が壁にもたれかかる。

 肺の奥まで空気を入れようとするのに、上手く吸えない。

 喉が熱くて、心臓がずっと速く脈打っている。


 冷たい空気が、汗ばんだ首筋を撫でていく。

 震える手のひらを制服のスカートで隠しながら、私は小さく息を吐いた。吸って、吐いて。

 それを何度か繰り返すうちに、ようやく少しだけ落ち着いてくる。


 ──助かった。それだけで、感覚が現実に戻っていく。


「……そ、そんなんじゃ。私はただコイツと仲良くしたかっただけで。な、そうだろ?」


 高木さんが、さっきまでとは打って変わって、焦ったように言葉をつなぐ。

 怒りでも憎しみでもない、もっと曖昧で、苦しそうな声音。

 私は視線を逸らし、渋々ながら小さく頷いた。


 もし逆らったら、何をされるか分からない。

 ──そんな恐怖は確かにあった。

 でも、それだけじゃない。心のどこかで、私は高木さんに対して、妙な同情を覚えていた。


 さっきまで、あんなに強気で、私を見下ろすようにしていたのに。

 橋本さんが来た途端、あの目の奥の光が一瞬でしぼんだ。

 強がるように言葉を並べているのに、声がかすかに震えている。

 その変化は、ただの立場の上下とか、先生に見つかるかもしれない焦りとは違う。


 橋本さんは怒鳴らない。脅さない。

 でも、ひとつひとつの言葉に「決定権」がある。

 「命令」ではなく「確認」。

 その優しさの形をした支配が、何よりも冷たい。


 高木さんの瞳の奥には、恐怖だけじゃない感情が渦巻いていた。

 怒らせたくない。嫌われたくない。

 でも何より、見放されたくない。


 そんな複雑で幼い感情が入り混じった瞳だった。

 その姿は、友情の名残にも見えたけれど、同時に、どこか痛ましい。


 高木さんは、ただ“強く見せよう”としているだけだったんだ。

 その強さは、生まれ持ったものじゃない。

 痛みの代わりに作った“殻”みたいなものだ。


 触れられたら割れてしまう。

 橋本さんの、たった一言でひびが入ってしまうような──そんな脆い強がり。


「あっそ。どちらにせよ、私は勘違いさせるようなことすんなよって言いに来ただけだから」


 橋本さんは、軽くあくびでもするような気だるい声で言った。

 高木さんは唇を噛みしめ、何も言い返せずに立ち尽くしている。


「あとウチのクラスの子に手を出されると、庇いにくいから勘弁ね」

「……しゃーないなぁ」


 その返事は、諦めのようでもあり、絞り出した抵抗のようでもあった。

 自尊心を削られながら、それでもまだ、完全には膝を折らない──そんな声。

 橋本さんは、淡々としたまま言葉を重ねる。


「そして、さっきのはお願いで、こっちは忠告。沙織に手を出すのは辞めといた方が身のためよ。沙織はやる時は、どんな手使ってでもやるタイプだから」


 その瞬間、高木さんの肩がわずかに揺れた。

 呼吸が止まる。

 瞳が大きく見開かれたまま、橋本さんの顔を見つめていた。


 その表情には、怒りと屈辱、そしてほんの少しの──期待が混じっていた。

 その期待は、きっと“分かってほしい”という未練だ。

 橋本さんに、まだどこかで手を差し伸べてもらいたかったのかもしれない。


 でも、その望みは叶わない。

 橋本さんはもう、その関係の外にいる人みたいに見えた。

 高木さんを“助ける”でも“裁く”でもなく、ただ遠くから見ている。

 その無関心が、何よりも冷たかった。


 橋本さんは、私を助ける義理なんてない。

 私のことを特別に思ってるわけでもない。

 むしろ、あの人からすれば、私なんて「面倒ごとに巻き込まれたくない存在」でしかないはず。

 それでも、橋本さんは私を庇った。

 あの強い目で、私の前に立ちはだかってくれた。


 分かってる。彼女が私を助けたのは、私のためなんかじゃない。

 沙織ちゃんがいるからだ。

 沙織ちゃんが“みんなを大切にしている”から、橋本さんもそれを踏みにじれない。

 それだけの理由。たぶん、それ以上でもそれ以下でもない。


 沙織ちゃんはいつだって優しい。

 穏やかで、柔らかくて、笑うと空気がふわりと明るくなる。

 誰にでも平等で、余裕があって、少し冗談を交えながら場を和ませる。


 ただそこにいるだけで、まるで部屋の中に光が差し込むような存在だった。

 クラスの中でも、誰より自然に中心にいて、それを誇らない。

 だから、みんな沙織ちゃんが好きになる。

 憧れて、近づきたくなる。


 でも、同時に、あまりに強い光だから、時々、見ているだけで怖くなる。

 その眩しさの裏にある影が、どれほど深いのか、誰にも分かるわけがない。


 そして、そんな沙織ちゃんが怒ったところなんて、私は見たことがない。

 けれど、もしそうなったら。

 その想像だけで、胸の奥がざわめき、足の力が抜けていく。


 背中に冷たいものが伝い、指先がわずかに震えた。喉が乾いて、呼吸が浅くなる。

 身体が勝手に“怖い”と反応しているのが分かった。


 きっと、私の身体が知っているんだ。

 “沙織ちゃんを怒らせたらいけない”って。

 頭じゃなく、もっと深いところで理解している。

 その優しさの中には、絶対に触れてはいけない一線がある。


 沙織ちゃんの魅力は、人を惹きつける光だ。

 暖かくて、柔らかくて、包み込むのに──その輝きの奥には、目を逸らしたくなるほどの“強さ”がある。


 一歩近づくと、息が詰まるような圧を感じる。

 それでも、その光を見てしまう。

 惹かれてしまう。怖いのに、美しい。

 そんな矛盾が、私の中でずっと静かに揺れている。


 胸の奥がぎゅっと掴まれるようで、呼吸が浅くなる。

 心臓の鼓動が早くなって、耳の裏まで熱が上がる。それでも離れられない。

 近づけば近づくほど、光に溶けてしまいそうで怖いのに、その光の中でなら壊れてもいいとさえ思ってしまう。


 もし、あの穏やかで、笑ってばかりの沙織ちゃんが、本気で怒ったとしたら。

 想像するだけで、背中がぞくりとした。

 喉がひゅっと狭まって、呼吸が浅くなる。

 あの優しい瞳が、怒りで揺らぐ瞬間なんて、見たくない。


 きっと、橋本さんにも、誰にも止められない。

 沙織ちゃんが“正しい”と思っている限り、その怒りはどこまでも広がって、誰も手を出せなくなる。


 でも、私は今、その“恐さ”に守られている。

 矛盾しているけど、あの怒りの刃が、私に向けられない限り──私は安心していられる。


 でも、その安らぎの中で、ひとつだけ胸の奥が疼いていた。

 ──守られるだけじゃ嫌だ。こんなにも温かいのに、こんなにも優しいのに、それでも私は怖い。


 この関係が、沙織ちゃんの“ご機嫌ひとつ”で簡単に壊れてしまうことを知っているから。

 そんな不安を抱えながら、それでも離れられない。


 どれだけ助けられてきたか分からない。

 どれだけ救われたか分からない。

 あの優しさを、光を、もう一度浴びたくて。

 どんなに眩しくても、焼かれてもいい。

 きっと私は──そんな沙織ちゃんの輝きに魅せられた一人なんだ。


 理屈じゃない。ただ、あの光の側にいたい。

 そして、願わくばその隣に立ちたい。

 それが依存だと分かっていても、橋本さんの姿を見ていると、心のどこかでそう思わずにはいられなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ