第55話 ※由梨視点 沙織ちゃんの光に魅せられたの♡
私が手を振り払うと、ぱしん、と乾いた音が空気を裂いた。
一瞬、何が起きたのか分からないように高木さんが目を見開いた。
その瞳が、みるみるうちに色を変えていく。驚きの色が消え、怒りが広がって、瞳孔がぐっと開いた。
その黒い穴が私を射抜くように見つめてくる。息が詰まり、胸が痛いほど高鳴った。
「……このっ──」
言葉と同時に、胸ぐらを掴まれた。
制服の布が首元に食い込み、喉の奥が締めつけられる。息がうまく吸えず、肺が空気を求めて軋む。
高木さんの指先が冷たく、でも爪の先だけが熱い。力が入るたびに皮膚を通して痛みが伝わる。
掴まれた部分が脈打つように痛くて、全身がこわばった。
逃げようとしても腕が動かない。心臓の鼓動が耳の中で鳴って、自分の声も遠くに感じる。
その時だった。
階段の上から、コツンと靴音が響いた。
続けざまに、聞き慣れた声が空気を裂いた。
「おーい、その子、沙織の“お気に”なんよ。あまり苛めないでやってくれる?」
低く、でもはっきりとした声音。
橋本 恵美──教室でよく笑ってる彼女の声なのに、今はまるで別人みたいに冷たく聞こえた。
「……恵美」
高木さんが小さく呟く。
その瞬間、胸元を掴んでいた手が、火傷したみたいにぱっと離れた。
押し込められていた空気が一気に喉を抜け、息が震えながら漏れる。
肩が勝手に上下して、涙が出そうになるのを噛み殺した。
橋本さんは階段の踊り場に立ち、微笑んでいた。
けれど、その笑みの奥には刃のような冷たさがあった。
「近くの廊下まで声、漏れてたから。……やるなら、もっと上手く誘いなよ」
その声は優しい響きを持っているのに、どこまでも鋭い。
有無を言わせない圧力が空気を支配して、高木さんは小さく舌打ちをすると、何も言わずに視線を逸らした。
橋本さんが、軽く顎をしゃくって廊下の方を示す。
その視線を追うと、廊下の向こうには、私のクラスの女子たちが数人。
好奇心と、少しの心配が入り混じった目で、こちらを見ていた。
途端に、胸の奥に張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
肩から力が抜けて、背中が壁にもたれかかる。
肺の奥まで空気を入れようとするのに、上手く吸えない。
喉が熱くて、心臓がずっと速く脈打っている。
冷たい空気が、汗ばんだ首筋を撫でていく。
震える手のひらを制服のスカートで隠しながら、私は小さく息を吐いた。吸って、吐いて。
それを何度か繰り返すうちに、ようやく少しだけ落ち着いてくる。
──助かった。それだけで、感覚が現実に戻っていく。
「……そ、そんなんじゃ。私はただコイツと仲良くしたかっただけで。な、そうだろ?」
高木さんが、さっきまでとは打って変わって、焦ったように言葉をつなぐ。
怒りでも憎しみでもない、もっと曖昧で、苦しそうな声音。
私は視線を逸らし、渋々ながら小さく頷いた。
もし逆らったら、何をされるか分からない。
──そんな恐怖は確かにあった。
でも、それだけじゃない。心のどこかで、私は高木さんに対して、妙な同情を覚えていた。
さっきまで、あんなに強気で、私を見下ろすようにしていたのに。
橋本さんが来た途端、あの目の奥の光が一瞬でしぼんだ。
強がるように言葉を並べているのに、声がかすかに震えている。
その変化は、ただの立場の上下とか、先生に見つかるかもしれない焦りとは違う。
橋本さんは怒鳴らない。脅さない。
でも、ひとつひとつの言葉に「決定権」がある。
「命令」ではなく「確認」。
その優しさの形をした支配が、何よりも冷たい。
高木さんの瞳の奥には、恐怖だけじゃない感情が渦巻いていた。
怒らせたくない。嫌われたくない。
でも何より、見放されたくない。
そんな複雑で幼い感情が入り混じった瞳だった。
その姿は、友情の名残にも見えたけれど、同時に、どこか痛ましい。
高木さんは、ただ“強く見せよう”としているだけだったんだ。
その強さは、生まれ持ったものじゃない。
痛みの代わりに作った“殻”みたいなものだ。
触れられたら割れてしまう。
橋本さんの、たった一言でひびが入ってしまうような──そんな脆い強がり。
「あっそ。どちらにせよ、私は勘違いさせるようなことすんなよって言いに来ただけだから」
橋本さんは、軽くあくびでもするような気だるい声で言った。
高木さんは唇を噛みしめ、何も言い返せずに立ち尽くしている。
「あとウチのクラスの子に手を出されると、庇いにくいから勘弁ね」
「……しゃーないなぁ」
その返事は、諦めのようでもあり、絞り出した抵抗のようでもあった。
自尊心を削られながら、それでもまだ、完全には膝を折らない──そんな声。
橋本さんは、淡々としたまま言葉を重ねる。
「そして、さっきのはお願いで、こっちは忠告。沙織に手を出すのは辞めといた方が身のためよ。沙織はやる時は、どんな手使ってでもやるタイプだから」
その瞬間、高木さんの肩がわずかに揺れた。
呼吸が止まる。
瞳が大きく見開かれたまま、橋本さんの顔を見つめていた。
その表情には、怒りと屈辱、そしてほんの少しの──期待が混じっていた。
その期待は、きっと“分かってほしい”という未練だ。
橋本さんに、まだどこかで手を差し伸べてもらいたかったのかもしれない。
でも、その望みは叶わない。
橋本さんはもう、その関係の外にいる人みたいに見えた。
高木さんを“助ける”でも“裁く”でもなく、ただ遠くから見ている。
その無関心が、何よりも冷たかった。
橋本さんは、私を助ける義理なんてない。
私のことを特別に思ってるわけでもない。
むしろ、あの人からすれば、私なんて「面倒ごとに巻き込まれたくない存在」でしかないはず。
それでも、橋本さんは私を庇った。
あの強い目で、私の前に立ちはだかってくれた。
分かってる。彼女が私を助けたのは、私のためなんかじゃない。
沙織ちゃんがいるからだ。
沙織ちゃんが“みんなを大切にしている”から、橋本さんもそれを踏みにじれない。
それだけの理由。たぶん、それ以上でもそれ以下でもない。
沙織ちゃんはいつだって優しい。
穏やかで、柔らかくて、笑うと空気がふわりと明るくなる。
誰にでも平等で、余裕があって、少し冗談を交えながら場を和ませる。
ただそこにいるだけで、まるで部屋の中に光が差し込むような存在だった。
クラスの中でも、誰より自然に中心にいて、それを誇らない。
だから、みんな沙織ちゃんが好きになる。
憧れて、近づきたくなる。
でも、同時に、あまりに強い光だから、時々、見ているだけで怖くなる。
その眩しさの裏にある影が、どれほど深いのか、誰にも分かるわけがない。
そして、そんな沙織ちゃんが怒ったところなんて、私は見たことがない。
けれど、もしそうなったら。
その想像だけで、胸の奥がざわめき、足の力が抜けていく。
背中に冷たいものが伝い、指先がわずかに震えた。喉が乾いて、呼吸が浅くなる。
身体が勝手に“怖い”と反応しているのが分かった。
きっと、私の身体が知っているんだ。
“沙織ちゃんを怒らせたらいけない”って。
頭じゃなく、もっと深いところで理解している。
その優しさの中には、絶対に触れてはいけない一線がある。
沙織ちゃんの魅力は、人を惹きつける光だ。
暖かくて、柔らかくて、包み込むのに──その輝きの奥には、目を逸らしたくなるほどの“強さ”がある。
一歩近づくと、息が詰まるような圧を感じる。
それでも、その光を見てしまう。
惹かれてしまう。怖いのに、美しい。
そんな矛盾が、私の中でずっと静かに揺れている。
胸の奥がぎゅっと掴まれるようで、呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が早くなって、耳の裏まで熱が上がる。それでも離れられない。
近づけば近づくほど、光に溶けてしまいそうで怖いのに、その光の中でなら壊れてもいいとさえ思ってしまう。
もし、あの穏やかで、笑ってばかりの沙織ちゃんが、本気で怒ったとしたら。
想像するだけで、背中がぞくりとした。
喉がひゅっと狭まって、呼吸が浅くなる。
あの優しい瞳が、怒りで揺らぐ瞬間なんて、見たくない。
きっと、橋本さんにも、誰にも止められない。
沙織ちゃんが“正しい”と思っている限り、その怒りはどこまでも広がって、誰も手を出せなくなる。
でも、私は今、その“恐さ”に守られている。
矛盾しているけど、あの怒りの刃が、私に向けられない限り──私は安心していられる。
でも、その安らぎの中で、ひとつだけ胸の奥が疼いていた。
──守られるだけじゃ嫌だ。こんなにも温かいのに、こんなにも優しいのに、それでも私は怖い。
この関係が、沙織ちゃんの“ご機嫌ひとつ”で簡単に壊れてしまうことを知っているから。
そんな不安を抱えながら、それでも離れられない。
どれだけ助けられてきたか分からない。
どれだけ救われたか分からない。
あの優しさを、光を、もう一度浴びたくて。
どんなに眩しくても、焼かれてもいい。
きっと私は──そんな沙織ちゃんの輝きに魅せられた一人なんだ。
理屈じゃない。ただ、あの光の側にいたい。
そして、願わくばその隣に立ちたい。
それが依存だと分かっていても、橋本さんの姿を見ていると、心のどこかでそう思わずにはいられなかった。




