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第54話 ※由梨視点 沙織ちゃんの言葉が私の中で生きてるの♡

「……い、いや」

「あ? なんだって?」

「……いや、です。私、彼氏、いるんで」


 掠れるような声をようやく絞り出す。

 けれど高木さんは、眉ひとつ動かさずに笑っていた。

「そんなこと言わずにさー。彼氏いても、ちょっとぐらい遊ぶなんて当たり前なわけ」


 その言葉は、笑っているのに氷のように冷たく響いた。

 空気が急に重たくなる。息を吸っても、胸の奥まで届かない。

 私はただ、頷くこともできず、視線を床に落とした。


 高木さんの視線が、まるで針のように肌を刺す。

 頬が熱い。耳の奥で血の音が鳴っている。

 返した言葉が空中で掻き消され、再び喉の奥に沈んでいく。


 “有無を言わせない”って、こういうことなんだろう。

 言葉があっても通じない。目の前の相手が、人の形をした“圧”に見える。

 頭の中がゆっくりと白く塗りつぶされていく。

 恐怖なのか、諦めなのか、自分でも判別できない。


 ──そんなもの、なんだろうか。


 ふと、そんな思考が浮かぶ。

 彼氏がいても、他の人と遊ぶのが“普通”なのか。

 周りの女の子たちが笑って話していた、そういう軽いノリの世界。


 みんなが当たり前みたいにやっているなら、自分の方が間違ってるのかもしれない──そんな錯覚が、頭の奥を掠めた。


 でも、私は直樹以外の男子と遊んだことなんて一度もない。

 話すことはあっても、あくまでクラスの延長で、名前を呼び合うだけ。

 誰かと二人きりになる想像をしただけで、胃がきゅっと縮む。


 活発な男子が笑いながら廊下を駆け抜ける姿や、優しい男子が誰かを気遣っている場面を見かけると──確かに、そんな光景は少し眩しい。

 青春っぽくて、明るくて、キラキラしている。


 でも、それはいつも“外側”の光景だった。

 自分がそこに混ざることを想像しても、現実感がない。

 手を伸ばしても、その光は掌からすり抜けていく。


 ──違う。私はああいうふうには、なれない。

 沙織ちゃんも、そういう場所に行ったことがあるのだろうか。

 行きたくないとは言っていた。けれど、あの言い方は、もしかしたら“知っている人”の口調だったのかもしれない。


 ──実際に経験したからこそ、「行きたくない」って言えるのではないか。

 そんな考えが、ふっと胸をかすめた。

 いや、沙織ちゃんがそんな経験をしていないわけがない。


 私は、行きたくない。

 そんな場所に行って、知らない人と笑い合うなんて想像できない。

 それに私は直樹と付き合っている。浮気だなんて、そんな馬鹿なこと──


 そう理屈では分かっているのに、肩に回された高木さんの腕が離れなくて、香水の甘さに包まれているうちに、思考の輪郭が少しずつ溶けていく。


 “もし、行ったらどうなるんだろう”

 そんなこと、考える必要なんてないはずなのに。

 それでも、頭のどこかで“行かない理由”より“行ってみる理由”を探している自分がいた。


 沙織ちゃんも、もしかしたら──

 その想像の続きが、喉の奥で詰まる。

 高木さんの笑い声と香りが、私の中の境界線をぼやかしていく。


 沙織ちゃんに、この話をしたことがある。

 『私の知らなかった世界や見もしなかったことを、沙織ちゃんはずっと抱えてて……そのことに気付こうとすらしてなかった』

 私がそう言うと、沙織ちゃんは一瞬、少しだけ遠くを見た。そして静かに言った。


 『いいんだよ、由梨ちゃんは由梨ちゃんのままで』

 そのあと、微笑みながら付け加えた。

 『知らない方が幸せなことって、いっぱいあるもの』

 その後は、誤魔化すように抱き締められた。

 『いやだよ、そんなの』って確かに返したはずなのに。


 あの時の微笑みが、どうしても忘れられない。

 優しかった。確かに優しかった。

 でも、同時に──胸の奥に小さな棘が刺さったみたいに、痛かった。


 “いいんだよ”

 それは突き放す言葉にも聞こえた。

 まるで、私が届かない場所にいることを、当たり前みたいに言われた気がした。

 私の知らない世界を見ている目。私の届かない背中。


 嫌だった。

 本当は、すごく嫌だった。


 私だって、沙織ちゃんに近づきたい。

 沙織ちゃんが見ている世界の、その少し先に行ってみたい。


 沙織ちゃんの役に立ちたい。守ってもらうだけじゃなくて、隣に立ちたい。

 でも──どうすれば近づけるのか、どうすれば許して貰えるのか。

 それが全然分からない。

 

 高木さんの指が、無意識に私の肩を軽く叩く。

 そのリズムに合わせて、心臓の鼓動も速くなっていく。

 トクントクンと音が鳴るたびに、自分の輪郭が曖昧になっていく気がした。

 頭の中で、“嫌だ”と“憧れたい”が混ざり合って、その境目がどこにあるのか、もう分からなくなっていった。


 だって、沙織ちゃんが悪いんだよ。

 私に隠し事なんてするから。つい気になって、こんな誘いにも惹かれてしまう。


 この場から逃げ出したいのに、頭の中は余計な考えばかりが浮かんでくる。

「行ったって何も起きない」「ただ話を聞くだけ」

 ──そんな都合の良い言い訳を、自分でも信じられないくらい必死に探していた。


 なのに、心のどこかで、それを“理由”にしてしまいたい自分がいる。

 そうやって自分と沙織ちゃんの境界を曖昧にして、傷付かずに済むと思っている。

 そんな自分が、何より嫌だった。


 胸の奥で鈍い熱がぐるぐると回って、喉の奥に何かが詰まる。

 それでも、私の中にいる沙織ちゃんを裏切ることは出来ない。

 彼女が嫌がるようなことは、絶対にしたくない。

 それだけは、何があっても。


 だから、再び首を振った。


「……そ、それでも、嫌だから」

「……なぁ、あんまり調子乗んなよ? お前の意見なんか聞いてねーんだわ。行きますって素直に言えばいいんだよ」


 声が震えて、喉が締め付けられるように痛い。

 けれど、それしか言葉が出てこなかった。

 高木さんの声が低く落ちて、肩を抱く手に力がこもる。

 その瞬間、全身がこわばった。


 背中が冷たい壁に押し付けられる。

 逃げ場がないと気付いた途端、心臓が喉の奥までせり上がってくる。

 怖い。

 なのに、身体は声も出せずに動けない。


 足の力が抜けて、膝が小刻みに震えた。

 掌がじっとりと汗ばんで、息が浅くなる。

 高木さんの香水の匂いが鼻の奥に刺さって、目の奥がチカチカした。

 ただ、早くこの距離から解放されたい。

 でも、抵抗することが怖い。


 壁に押し付けられた肩が、じんと痛んだ。

 その痛みが、はっきりと教えてくれた。

 ──あ、この人は、私の言葉なんて聞いてないんだ。


 胸の奥が、冷たくなる。

 耳の奥で自分の鼓動ばかりが響いて、世界の音が遠ざかっていく。

 私はずっと、相手に合わせるように生きてきた。

 怒られないように、嫌われないように。


 空気を読み、場に合う言葉を探して、それを口にしてきた。

 本心なんて、誰かを傷つけるだけだと、いつの間にか思い込んでいた。


 そんな生き方が、身体に染み付いていたんだと思う。

 けれど、高木さんにはそれがない。

 人の顔色なんて気にも留めず、自分の思うままに他人を押し通していく。


 そういう人がいることは知っていた。

 けれど、“実際にぶつかると、こんなにも辛いんだ”と、初めて知った。


 痛みと一緒に、何かが胸の奥で弾けた。

 怖いのに、泣きたいのに、

 それでも、心の奥で何かが叫んでいる。


 ──いやだ。


 声にならない声が喉の奥で震えた。

 押し込めてきた小さな「私」が、ようやく息をしようとしていた。


 私にもちゃんと意思がある。

 思っていることがある。

 普段はなかなか言い出せないけれど、それでも確かにここにある。


 沙織ちゃんは言ってくれた。

 『いいんだよ、由梨ちゃんは由梨ちゃんのままで』って。


 あの言葉が、胸の奥でまだ光ってる。

 そして、直樹も言ってくれた。『好きだ』って。

 その時の表情も、声も、嘘じゃなかった。


 沙織ちゃんは、あのとき直樹に言っていた。

 『由梨ちゃんのこと、ちゃんと大事にしてあげてね』って。


 その言葉が、今になって胸の奥で何度も響く。

 じゃあ、私が私の気持ちを大事にしなかったら、いったい誰が私を大事にしてくれるんだろう。


 高木さんにも、高木さんなりの理由があるんだろうな──。

 そう思うと、ほんの少しだけ胸が痛くなった。

 だって私は弱い。


 誰かの「そうするしかなかった」という言い訳に、すぐ寄り添いたくなってしまう。

 その人の孤独とか、事情とか、心の隙間に手を伸ばしたくなる。


 でも、本当はわかってる。

 いちばん寄り添ってあげなきゃいけないのは、他人じゃなくて、私の気持ちなんだ。


 だって、私はワガママだ。

 高木さんの言う通り、沙織ちゃんに今すぐ助けてほしいって思ってる。

 こんな時こそ駆けつけて、抱きしめてほしいって思ってる。


 そして──こんな時に来てくれない直樹を、

「頼りない彼氏だな」って、心のどこかで責めてる。


 ……なんて贅沢。

 なんて無理筋で、身勝手。

 人を責めながら、助けを乞って、矛盾でできた自分。


 そんな自分がいることに気づいた瞬間、心の奥で、ふっと笑いがこみ上げた。

 唇が震えて、乾いた息が漏れる。

 涙が出るわけでもなく、ただ喉の奥で小さく嗤う。

 惨めで、みっともなくて、笑うことでしか、どうにもならない感情を誤魔化せなかった。


 そんな我儘な私が、沙織ちゃんのために──いや、私自身のために──高木さんの言うことなんて聞きたくないって、私に触れるなって、心の奥で叫んでいた。


 だって私は、直樹の彼女なんだ。

 好きな人がちゃんといる。

 その事実だけで、誰かの勝手な手に触れられる理由なんてない。


 そう思った瞬間、胸の奥から熱い拒絶感が溢れた。

 高木さんの体温も、纏わりつく香りも、湿った息も、全部が汚らしく感じた。

 肌の表面がざわつく。鳥肌が波のように腕を駆け上がっていく。


 息が浅くなって、喉が焼けるように乾いた。

 押し付けられた肩が、痛みではなく“異物”として拒否反応を起こす。

 それはまるで、体の奥から「やめろ」と叫ぶような、反射的な震えだった。


 自分でも驚くほど、心と体が一致して動いた。

 逃げたい──その本能が、思考を追い越す。


「……いやっ!!」


 声が、勝手に出た。

 頭で考えるよりも先に、身体が反応していた。

 肩を振り払うと、指先が高木さんの腕を弾いた感触があった。

 その瞬間、空気が弾けて、周囲の音が遠のく。


 一歩、二歩と後ずさる。

 心臓が暴れるように打って、呼吸が乱れる。

 目の前の高木さんが一瞬だけ固まり、私と彼女の間に、見えない線が走った。


 ──もう、二度と触れられたくない。

 その確信だけが、胸の奥で強く鳴っていた。


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