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第53話 ※由梨視点 沙織ちゃんみたいな輝きが欲しいの♡

 階段の下に立っていたのは、高木莉里だった。

 金に近い茶色の髪がゆるく波打っていて、光を受けるたびに艶やかにきらめく。

 整った顔立ちに強いアイラインが引かれていて、その視線はまっすぐで、刺すように鋭い。

 グロスで濡れた唇が陽の光を反射して、やけに眩しく見えた。挑発的で、計算高くて、でもそれ以上に“自分を見せる”ことを恐れていない、そんな人間だけが放てる光。


 その高木さんが、私を睨みつけるように見つめていた。

 怖い、と思う前に、視線が動けなくなった。胸の奥が熱くなって、背筋が勝手に固まる。

 でも、私が一歩だけ後ろに下がると、彼女はふっと表情を崩した。

 さっきまでの威圧感が嘘みたいに、目尻がやわらかく下がって、唇の端が上がる。

 恐いはずなのに、なぜか心の奥が少しだけ緩んだ。


「まあまあ、そんな緊張しなくていいから。こっち来なよ」


 そう言って高木さんは軽く笑いながら、私の肩に腕を回した。

 手のひらが乗る瞬間、空気が一段熱を帯びる。

 そのまま自然な流れで階段を登り、踊り場まで引っ張られていく。

 細い腕なのに、不思議と抗えない力があった。

 香水の甘い香りが近づくたび、頭の奥がぼんやりと霞んでいく。

 恐怖も不安も、ゆっくりと遠ざかっていく。


「坂尾由梨だっけ? 沙織と仲良いんだ?」

「え、えっと……この前は沙織ちゃんがたまたま誘ってくれて」

「彼氏は? いんの?」


 問いかけが矢のように飛んでくる。

 一つ答えるたびに次の質問が重なって、思考が追いつかない。

 何か考えていたはずなのに、「早く答えなきゃ」という焦りが先に身体を支配していく。

 喉が乾いて、唇が張りつく。呼吸を浅く吸い込むたびに、高木さんの甘い香りが鼻の奥に絡みついた。

 それが頭の中にまで染み込んでくるようで、息をするたびに心拍がひとつ速くなる。


 視線を逸らそうとしても、彼女の瞳がそれを許してくれない。

 濃く縁取られた目元が、射抜くように私の表情を捕まえて離さない。

 熱い。息が詰まる。

 身体の奥がざわざわと波立つような、目を逸らせば崩れてしまいそうな感覚。


「……高木さんと同じクラスの中村くんと」

「はっ、中村かよ。お前、アイツと付き合ってんだ」


 ようやく搾り出したその言葉を聞くと、高木さんは鼻で小さく笑った。

 そして、挑発的なのにどこか人懐っこい笑顔を浮かべる。

 唇の端がぐいっと上がって、目尻が柔らかく緩む。

 まるで子どもが面白いおもちゃを見つけた時みたいな表情だった。


「そんなことより、合コン開いてやるから来いよ。あんな奴より、イイ男いっぱい居るから」


 軽い調子で放たれたその一言に、胸の奥で何かがプツンと音を立てて切れた気がした。


 ──あんな奴。

 その言葉が、直樹の輪郭を乱暴に汚していくように感じた。

 頬の裏が熱くなって、舌の根に苦いものが滲む。

 私は思わず視線を逸らし、唇をきゅっと噛み締めた。


 高木さんは、そんな私の小さな変化を面白がるように眺めていた。

 目尻に浮かぶ悪戯っぽい笑みが、余計に神経を逆撫でする。

 愛嬌のある口元も、扇のように広がる睫毛も、今はすべてが鬱陶しい。

 笑顔の裏にある「見下し」が透けて見える気がして、吐き気に似た嫌悪感が喉までこみ上げた。


 その反応が楽しかったのか、高木さんは口角をもう一段上げて、腕をぐいっと回してきた。

 彼女の香水の匂いが至近距離で強く鼻を突く。

 逃げようと肩を引いた瞬間、抱かれた腕に力がこもった。


 骨の下で皮膚がきしむ。

 痛みに驚いて身体を強張らせると、爪がじかに食い込んだ。

 その微かな痛みが、恐怖よりも現実感として鮮やかに残る。

 爪の跡が残るほどの圧力なのに、彼女の笑顔は壊れない。


「そんな顔すんなって。私はただお前と仲良くしたいだけなんだから」

「…………」

「メイクに興味あんだろ? 私が教えてやるからさぁ」

「…………」

「沙織も誘ってもいいぞ。一緒に行こうって誘ってくれよ」

「…………」


 言葉が降り注ぐたびに、胸の奥がぎゅっと縮こまっていく。

 笑顔で言われているのに、声の奥には硬い何かが混じっていて──その“優しさ”がまるで罠みたいに聞こえる。

 頬を伝う空気が、少し熱を帯びてくる。逃げ場のない狭い踊り場で、高木さんの存在がやけに近くて、息が浅くなる。


 沙織ちゃんの言葉は、聞くだけで胸の奥に灯りが点るのに。

 高木さんの言葉は、表面を撫でるように優しいのに、その下で刺すように冷たい。

 粘つくような視線が、肌を這う。微笑みの輪郭が歪んで見える。


 でも、返せない。何を言っても、上から潰されるような気がして。

 喉の奥が乾いて、唾を飲み込む音さえ大きく響く気がした。

 頭の中では言葉が生まれては消えて、口まで届く前に萎んでいく。

 ただの沈黙が、自分を弱く、ちっぽけに見せていくのが怖かった。


「……なぁ、なんか言えよ? これじゃあ、まるで私が虐めてるみたいじゃんか。なぁ?」


 声のトーンが、急に変わった。

 さっきまでの柔らかさが跡形もなく消えて、そこにあるのは鋭い圧力。

 目の奥の光が、冷えていくのが分かる。


 心臓が跳ねた。反射的に肩がすくむ。

 背筋を伝う冷たい汗。

 彼女の視線が刺さるたびに、呼吸が短く細くなる。

 喉が締め付けられて、声を出そうとするたびに肺の奥で空気が止まった。

 震える指先を、無理やりスカートの裾で握り締める。


 ──怖い。

 でも、それを顔に出した瞬間に、何かが壊れる気がする。


「沙織に構って貰って嬉しいんだろ? 守って貰いたいんだろ? 守って貰えば良いじゃん。一緒に行こうって言うだけだって」


 高木さんの声は、低く、硬質で、氷の破片みたいに胸の奥に突き刺さった。

 その冷たさは、怒鳴られるよりも怖い。静かに、逃げ道を塞がれていくようだった。


 そう──私は沙織ちゃんに構ってもらえて、嬉しかった。

 憧れて、眩しくて、いつも遠くから見上げていた人が、自分の名前を呼んでくれた。

 一緒に歩いてくれた。笑ってくれた。それだけで、世界が少し柔らかくなった気がした。


 お出掛けの時、ナンパを怖がる私を、沙織ちゃんは迷いなく庇ってくれた。

 高木さんとその彼氏の前でも、一歩も引かなかった。

 そんな強くて綺麗な沙織ちゃんに守ってもらえたことが、特別だって──本気で浮かれてた。


 ……だけど今、胸の奥に溜まっていくこの恐怖は、あの時に感じた安心とはまるで違うものだった。

 高木さんの声が近づくたびに、背中の皮膚が粟立っていく。

 体が勝手にこわばって、呼吸のリズムが乱れる。


 本当は──今すぐに助けてって言いたい。

 沙織ちゃん、お願い、って。

 怖くて、逃げたくて、震えて、涙が滲んで。

 心のどこかで“もう従っちゃえば楽になる”って囁く声がする。

 『高木さんの言う通りにしようよ。そうすれば怒られない。傷つかない。』

 そんな弱い私が、内側で甘く囁いている。


 きっとその通りにしたって、沙織ちゃんは怒らない。

 笑って、頭を撫でてくれる。

 『怖かったんだね。仕方ないなぁ、由梨ちゃんは』

 あの優しい声で、全部を包んでくれる。

 ──でも、それじゃ駄目だ。


 そんな優しさに溺れたら、私はまた何もできないままになる。

 ただ守られるだけの、無力な存在で終わってしまう。

 私は沙織ちゃんの力になりたい。

 守られる側じゃなくて、隣に立てる人でありたい。

 どうすればそうなれるのかは、まだ分からない。

 けれど、あの優しさに甘えるだけじゃ、きっと届かない。


 唇を噛む。痛みで少しだけ、意識が戻る。

 怖い。けれど、逃げたくない。

 あの人の隣に立つ自分を、今ここで手放したくない。


 沙織ちゃんに「可愛い」って言ってもらえたのは、本当に嬉しかった。

 デートって言葉を使って一緒に出掛けたのも、胸が跳ねるほど楽しかった。

 学校でメイクをしてもらえた時、指先が頬に触れるたびに心臓が熱を持った。

 体育のバスケで、同じチームで走って、汗をかいて笑い合ったあの瞬間──全部が宝物みたいだった。


 沙織ちゃんに、いっぱい助けてもらった。

 優しくしてもらって、守ってもらって、たくさんのものを貰った。

 でも──どうしてか、この“優しさ”だけは、受け取っちゃいけない気がした。

 その甘さをそのまま飲み込んだら、私はもう自分で立てなくなる。

 それがどうしてなのか、自分でもよく分からない。

 ただ、胸の奥が警鐘のように鳴る。

 “その優しさに溺れたら、もう戻れない”って。


 沙織ちゃんは、高木さんたちとの合コンに行きたくないって言ってた。

 なら、私がその言葉を守らなきゃ。

 あの人が言った“嫌だ”を、私が叶えてあげたい。

 ……それくらいのこと、私にだってできる。そう信じたい。


 でも、正直に言えば、恐い。

 喉が乾いて、舌が上顎に張りつく。

 手のひらは冷たいのに、胸の奥だけが焼けるように熱い。

 脚が少し震えて、膝の内側から小刻みに力が抜けていく。

 息を吸っても、ちゃんと肺に届かない。

 なのに、心臓だけが暴れてる──生きてるっていうより、逃げ出したがってるみたいに。


 それでも、沙織ちゃんが悲しそうな顔をする方が、もっと怖い。

 呆れたように笑われたらどうしようって考えるだけで、胃がきゅっと縮む。

 その“もしも”が浮かぶたびに、足元の空気が抜け落ちるみたいで、立っていられない。

 涙が滲みそうになるのを、まぶたの裏で押し止めながら、唇を噛んだ。


 ……お願い、沙織ちゃん。

 私を助けて。

 私に、少しだけ力を貸して。

 あなたのその眩しさを、ほんの少しでいいから分けてほしい。


 私も、沙織ちゃんみたいになりたい。

 誰かを守れるような強さを、貴女の隣で笑える勇気を、私の中に──どうか、お願い。

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