第52話 ※由梨視点 沙織ちゃんが側にいるみたいなの♡
昼休みの教室は、ざわめきと笑い声で満ちていた。
窓の外では日差しが柔らかく差し込んで、机の上を白く照らしている。
「……じゃあ、恵美、私行ってくるから」
「はーい、ちゃんとそっちに一人送るから。よろしくー」
沙織ちゃんは、流れる髪を揺らして立ち上がった。
昼休みが始まって早々に告白を受けに行くとかで、大きく息を吐きながら、渋々と教室を出て行く。
私はその様子を少し離れた席から、ただ見詰めていた。
──沙織ちゃんが男子から告白を受けるのは、そう珍しいことじゃない。
最初の頃は、遠くからその背中を眩しく見つめていた。
クラスの中で、誰よりも“物語の主人公”みたいに見えて。
あの人に名前を呼ばれたら、それだけで一日が明るくなるような気がしていた。
でも、沙織ちゃんの隣に並んだ時に気付いてしまった。
彼女の周りに漂う空気が“憧れ”だけなんかじゃなくて、“欲望”に溢れていたことに。
その視線がどれほど重くて、どれほど無神経なものかを知ってしまってから、胸の奥で何かが軋んだ。
あれ以来、私は素直に沙織ちゃんのことを「羨ましい」と思えなくなってしまった。
それでも、その中で輝く姿はとても眩しくて、だからこそ余計に遠い世界の存在だと感じてしまう。
私は「大変なんだろうな」って思う程度で、また傍観者に戻る。
どれだけ沙織ちゃんの力になりたいと願っても、私が届くのはその程度。
彼女は光の側にいて、私はその光を見上げる影の一部でしかない。
……それでも、ね。
ため息をつきながら教室を出ていく沙織ちゃんの背中を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
完璧な彼女も、嫌そうに眉をひそめるときがある。
そんな“人間らしい”姿を見つけて、私はほっとしている。
同時に、そんなことで安心している自分を、どこかで軽蔑してもいる。
彼女が嫌がっているのに、私は嬉しい。
その歪んだ気持ちを抱きしめるように、胸の前で手を重ねた。
ざわめく教室の中で、一人だけ違う時間を生きているような感覚がした。
それでも、沙織ちゃんに寄り添いたいって思いは消えることはない。
けれど、その気持ちに手が届くほどの自信もなくて、許してくれるのかなって恐くなる。
無力感と失望感の底で、私はずっと問い続けていた。私にそんな資格があるのかなと。
ジャンケンには負けてしまったので、私はいつもの友人たちと机を囲み、お弁当を広げていた。
今日は母が作ってくれた卵焼きが少し甘い。冷めてもやわらかくて、口に入れるとじゅわっと広がる。
白いご飯の上には、昨日の夕飯の残りらしい照り焼きチキンが一切れ。照りの強いタレが染みていて、少し濃い味が妙に安心する。
その横で、友達がミニトマトを楊枝で刺して口に入れた。
「ねえ、昨日の体育の白鳥さんさ、まじでヤバかったよね。ロングパスをそのまま、シュートだよ。美しすぎて、マジヤバい」
「わかる〜! あれほんと感動した」
「坂尾さんも頑張ってたよね? 白鳥さんにいっぱいパスしてた」
「え、ううん、たまたまだよ。その分、いっぱいミスしたし」
苦笑しながら答えると、みんなもつられて笑ってくれた。
けれど、どこかぎこちない。
箸を動かす音と、少し伸びた沈黙の隙間。
笑い声の奥に、妙な“間”があることに気づいてしまう。
ふと顔を上げると、みんなの視線が私の手元に集まっていた。
遠慮、羨望、嫉妬、そしてほんの少しの畏れ。
そのどれもが、いつも沙織ちゃんに向けられているものに、よく似ていた。
直樹っていう彼氏がいることが公になったのも、少しは影響しているのかもしれない。
でも、決定的なのはやっぱり──昨日のあの時間。
沙織ちゃんがみんなの前で、私の手を取って、連れ出してくれたあの瞬間。メイクと称して、彼女の指が私の頬を撫でてくれたあの瞬間。
あの教室のざわめき、息を呑む気配、わずかに聞こえた「いいなぁ……」という囁き。
「ねぇ、そのチーク、白鳥さんにしてもらったの真似た感じ? めっちゃ似合ってる」
「あ、うん……そう。一人でも出来ないかなってやってみたけど、なかなか上手く出来なくて」
「いいなー。私も白鳥さんにメイクして欲しいなぁ。坂尾さん、なんとか白鳥さんにお願い出来ないかな?」
「……うーん、出来なくはないと思うけど。たぶん自分でお願いした方が良いと思うよ」
「それが出来てたら、こうやって頼まないよー」
そんな何気ない会話の中で、私は箸を止めた。
みんなの笑顔は優しいけれど、その中に少しだけ“線”が引かれている。
私はその線のこちら側にいるのか、それともあちら側に立たされているのか。
その答えが怖くて、笑うしかなかった。
昨日、沙織ちゃんにメイクをして貰っていたとき、私はその空気に気づかなかった。
いや、正確には──気づかないふりをしていた。
みんなの羨望の視線を感じながら、沙織ちゃんに特別扱いされることが、ただ嬉しくて、心地よくて。
私はあの時、周囲のざわめきなんてどうでもよかった。
沙織ちゃんの指先が私の頬をなぞる感触だけで、世界がいっぱいになっていたから。
今になってようやく分かる。
あの視線の意味も、そこに含まれた距離も。
私のほんの少し後ろ──まるで沙織ちゃんが隠れているみたいに、彼女の存在が私の輪郭に影を落としている。
私は変わらず、みんなと仲良くしたいだけなのに──なぜか、心が遠い。
笑顔のまま話していても、どこか膜が一枚隔てているような感覚。
みんなの声も、少しだけ遠くから聞こえる。
私は何も変わっていない。
変わったように見えるのは沙織ちゃんがすごいだけ。
それなのに、まるで私だけが別の場所に立っているような気がした。
もしかして──沙織ちゃんも、いつもこんな気持ちを抱えているのかな。
周りに憧れられて、羨ましがられて、それでも誰かの隣にいたくて。
そんな居心地の悪さと、少しの誇らしさが混ざったような感情。
ほんの少しだけ、それが分かった気がした。
「坂尾さーん、なんか2組の子が呼んでるー!」
唐突に、教室の入口のほうから声が響いた。
箸を持つ手が止まり、口の中に入っていたご飯を慌てて飲み込む。
喉の奥がちょっと痛くなる。
私が呼ばれることなんて、今まで一度もなかった。
冗談かと思って周囲を見渡すと、みんなも「え?」という顔で私を見ている。
声をかけてくれた子に視線を向けると、ちゃんと目が合った。
それでも信じられなくて、自分を指さして確認する。
彼女は無言でコクリと頷いた。
「え、私? 誰か別の人じゃなくて?」
「うん、坂尾さんに用事だって」
「……分かった。すぐ行くね」
そう答える声が、思っていたよりも上ずっていた。
お弁当箱にそっと蓋を被せる。
まだ半分も食べていないけれど、もう味なんて分からなかった。
友達に「ちょっと行ってくるね」と目配せをして立ち上がる。
机の脚が床を擦る音が、やけに大きく響く。
教室の空気が、一瞬だけ私の動きに引きずられたように静まり返った。
──誰が、私に?
何の用事で?
全く検討がつかない。
一瞬、直樹の顔が浮かんだけれど、すぐに首を振る。
アイツなら、わざわざ別のクラスの子に頼まず、自分で顔を出すはず。
扉の外を覗いても、彼の姿はない。
じゃあ、誰?
足元が少しふらつくような感覚のまま、私は廊下に出た。
昼休みのざわめきと、窓から差し込む白い光。
その中に、ぽつんと立っている女の子がいた。
肩までの髪。整った前髪。スカートの裾を少しだけ握っている。
顔は見たことがある。2組の、確か……名前は思い出せない。
でも、話したことなんて一度もない。
なのに、彼女はまっすぐ私を見つめていた。
視線が交わった瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。
「……あ、あなたが坂尾由梨ちゃん?」
「……あ、はい。そうですけど」
「ちょっと着いてきて貰っていい?」
「……は、はぁ。いいですけど」
呼び止めたその女の子は、私の顔を確認しながらも、どこか落ち着かない様子だった。
肩までの髪を指でいじりながら、視線を泳がせている。私と目を合わせたのはほんの一瞬だけ。
まるで、何かを頼まれて仕方なくやっているような──そんな雰囲気。
私は余計に訳が分からず、ただ曖昧に頷くしかなかった。
そのままの流れで、彼女の背中を追いかけるように歩き出す。
昼休みの喧噪がまだ残る廊下。
教室の中からは笑い声と机を引く音、パンの袋を破く音が聞こえる。
けれど、その声が遠のくほどに、私の足音だけが妙に響いていく。
曲がり角をいくつも曲がり、渡り廊下を抜けたあたりで、空気がひんやりと変わった。
校舎の端──普段ほとんど人のいない階段の踊り場。
ここに来た瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。
「ごめんね、私は連れて来てって言われただけだから」
案内してきた女の子が、申し訳なさそうに両手を合わせて頭を下げた。
その声には、どこか怯えのような響きが混じっていた。
そして彼女はすぐに踵を返し、足音を立てて走り去っていく。
足音が廊下の奥で消えると、世界が一瞬で静まり返った。
私は立ち尽くしたまま、状況を理解しようとする。
でも、頭の中が白くなって、思考がまとまらない。
呼吸が浅くなり、指先がじんわりと冷えていく。
──なぜ、私が呼ばれたの?
──誰が、何のために?
その答えは、次の瞬間に現れた。
階段の影から、ゆっくりと一人の女子が姿を現す。
制服の裾を整え、髪をかき上げながら、まっすぐこちらを見据えてくる。
その目は、どこか獲物を見つけた肉食獣のように静かで、冷たい。
「……高木、莉里……さん……?」
喉の奥でその名前を呟いた瞬間、背中を冷たいものが走った。
彼女は軽く笑うでもなく、ただ淡々と──けれど確かな敵意を孕んだ目で、私を見つめていた。




