第40話 女の子の挨拶に蕩けちゃうの♡
朝の登校時間。
昇り始めた陽の光が、校舎のガラス窓をゆるやかに撫でている。
私はその光の筋を切り裂くように、ゆっくりと歩を進めた。
校門を抜けると、空気が変わる。
その瞬間、いつものように、周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。
羨望。嫉妬。好奇。恋慕。警戒。
いくつもの感情が、見えない糸のように空間を漂い、私の輪郭に絡みついてくる。
それでも、私は怯まない。むしろ、それが朝の日差しのように心地よい。
女の子たちの視線は、どれも尊い。
彼女たちが、私を通して揺れ、触れ、変わっていく——その瞬間の彼女たちの“生きている光”が、たまらなく愛おしい。
誰かが私を見ることで、自分を少しでも揺らしているのなら。
その一瞬に寄り添えるのなら、私がこの場所にいる意味がある。
「おはようございます」
私がそう口にすると、空気が柔らかく震えた。
「白鳥さん、おはようございます」
「白鳥先輩、おはようございます」
「白鳥さん、おはよー」
幾つもの声が、波のように返ってくる。
先輩も、後輩も、同級生も。
その声のひとつひとつが、私の中で宝石のようにきらめいた。
鈴が鳴ったような声も、小鳥の囀りのような声も、すべてが私の鼓膜をとろりとろりと震わせ、蕩けさせていく♡
音が波紋となって内側へ広がり、やがてそれは“音”という形を失って、甘い液体のように脳髄へと流れ込んでくる♡♡
脳の奥底から、熱く濃密な光がじゅくじゅくと滲み出す♡
まるで神経そのものが濡れていくような——そんな錯覚♡♡
息をするたびに、光が脈打ち、世界の輪郭がやわらかく歪む♡♡♡
目の前の景色がじわじわと白く霞んでいく♡
友人たちの笑顔も、通り過ぎる制服の群れも、すべてが淡い光の粒子となって溶け合い、現実と夢の境界が曖昧になっていく♡♡
音と光と鼓動だけが、私を包み込む♡♡♡
頭の中は、とろり、とろり……どろり……と粘度を持ちながら溶けていく♡
言葉も、理性も、構築された思考の枠組みも、みんな甘く溶解していく♡♡
ただ、世界が心の奥に沈み込み、静かに蕩けていく感覚だけが残る♡♡♡
脳内を駆け抜ける恍惚の奔流が、神経を焼き尽くすように全身を走り抜けた♡
背骨の奥でビリビリとした痺れが灯り、それが心臓の鼓動と重なってリズムを刻む♡♡
それは痛みではなく、悦びに似た生の震えだった♡♡♡
好き……好き……っ♡女の子は……みんな……大好き……♡
ねえ……もっと見て……私を……♡もっと……もっと……♡
愛してる……♡その気持ち、全部受け止めるから……お願い……♡
靴箱の前に立ち、いつものように扉を開ける。
乾いた蝶番の音と同時に、ひらりと白い封筒が視界に落ちた。
上靴の上に、まるで小さな贈り物のように、封筒が一枚ちょこんと乗っている。
差出人の名前はない。
胸の奥が、ひゅっと冷たくなった。
外の世界が一瞬だけ遠のき、鼓動の音だけがはっきりと聞こえる。
視線を周囲に走らせながら、素早く封を切る。
中から出てきたのは、一枚の便箋。
『昼休み、体育館裏で待ってます』
たった一行。
それ以上の情報も、装飾も、名前さえもない。
手紙を封筒の中に戻しながら、心の中で大きく息を吐いた。
考えるまでもなく、告白のためのラブレター。
今どき、こんな直球なやり方、珍しいにもほどがある。
LINEもSNSもある時代に、あえて“手紙”という手段を選ぶなんて。
その古めかしさに、少しだけ笑いたくなった。
いまの学校生活で、こういうやり取りをしている子なんてほとんど見ない。
みんなスマホひとつで、言葉も気持ちも簡単にやり取りできる。
それなのに、こんな手の込んだ方法で伝えようとするなんて——。
「……危なっかしいというか、なんというか」
自嘲気味に呟いて、カバンの中に手紙を仕舞い込む。
たとえば、誰かがこの瞬間を見ていたら。
私の下駄箱を開ける姿を、遠くから見ていたら。
封筒を拾い上げる仕草を、目で追っていたら——。
それだけで、あっという間に“噂”になる。
そんなこと、書いた本人は考えなかったのだろうか。
誰かに見つかったらどうするつもりだったんだろう。
現物を残すなんて、男からしたらリスクでしかないのに。
確かに、私は男と深く関わる気はない。
LINEを交換することもほとんどないし、連絡を取り合う関係もない。
だから、連絡手段として手紙を選ぶのも、理屈としては分かる。
でもそれでも、やりようはいくらでもあるはずだ。
友達づてに連絡先を聞けばいいし、インスタを辿ればメッセージも送れる。
フォローもしてもらえない相手に告白しても、答えは見えているのに。
……どうして、わざわざこの方法を選んだんだろう。
名前は書かれていない。一方的な誘い。時間も場所も、全部向こうの都合。
まるでこちらの気持ちや予定なんて存在しないかのような、押しつけがましい書き方。
……こんな手紙、普通に考えたら不審以外の何ものでもない。
知らない相手に呼び出されることが恐ろしいなんて、少しでも考えたら分かることだ。
そんな配慮があるとは、とても思えない。
昼休みは、結菜ちゃんとの約束がある。
けれど、手紙に返信する手段はない。
断りようも、確かめようもない。
放っておけば、妙な噂を立てられる可能性だってある。
そう思えば、行かないという選択肢はないのかもしれない。
カバンのチャックを閉めながら、ひとつ大きく溜め息をつく。
──お昼ご飯は、抜きになっちゃうかも。本当にお願いだから、いきなりの告白とかやめてほしい。
……いや、待って。
もしかしたら——女の子からの手紙、かもしれない。
いやいや、そんなことあるわけない。
でも、もしそうだったら……いや、待って、そんな期待していいの?
そんな考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で何かが“ぽんっ”と弾けた♡
喉がきゅっと詰まって、呼吸が浅くなる♡♡
心臓が、リズムを忘れたみたいに早鐘を打ち始める♡♡♡
だめだ、期待したら負け、でも期待しないってどうすれば良いの?
いやいやいや、落ち着け、これはただの手紙、ただの紙、ただの文字……文字だって? 文字なのに心がこんなにざわつくの?
期待してもいいの? いや、でも期待したら、外れたときの失望は絶対に大きい。
……でも、外れたときのこと考えなきゃいいんじゃないの? いや、それも無理、考えちゃう、どうしたって考えちゃう。
だって、もし本当にそうだったら。
名前を書けなかったのは、きっと恥ずかしかったから。
でも、それでも直接、自分の言葉で伝えたかったから。
——そう思った途端、頬の奥からじわじわと熱が上がってきた♡
耳の裏がくすぐったい♡♡
笑いたいのか、逃げ出したいのか、自分でも分からない♡♡♡
封筒を握る手のひらが、かすかに汗ばんでいた♡
心の奥に、誰かに見られたくない甘い期待が芽を出して、
その小さな花が胸の中で音もなく開いていく♡♡
ちょっと待って、冷静に、落ち着け……いや、もう落ち着けない! だってもし本当に女の子からの手紙だったら、どうしよう、どう反応すればいいの!?
どう考えれば正解!? いや正解なんてあるの!? そんなのない、ない、ないのに、なんでこんなに止まらないの!?
ああ、どうしよう、どうしよう……でも、ほんの少し、ほんの少しだけ、もしそうなら……期待してもいいよね?
乱れた思考のまま、なんとかスマホを取り出して、結菜ちゃんにメッセージを送る。
『昼休み、少し遅れるかも。お昼食べてから来てね』
そう打ち込んで送信ボタンを押した瞬間、
胸の中のざわめきが、ほんの少しだけ静まった。
期待はしたい。でも、したくない。そんな感じ。
いや、もしそうだとしたら……違う、やっぱりダメかも……いや、でも少しくらいなら……いや、でも……
教室の扉に手をかける。
冷たい金属の感触が、ひどく現実的で。
その瞬間、浮ついた気持ちを一瞬だけ引き戻してくれる。
けれど、扉を開けた途端、また世界が一気に眩しくなる。
「おはよー」
私が声をかけると、すぐにいくつもの声が重なる。
「白鳥さん、おはよー!」
「沙織、おはー!」
ぱっと教室の空気が明るく広がる。
窓際から射し込む光が髪を照らし、制服の白がきらりと反射する。
そのたびに、心の奥の不安や緊張が、
泡のようにふわふわと浮かび上がって消えていった。
誰かの笑い声。机の上を叩く音。
そのひとつひとつが心臓の鼓動にシンクロして、
身体の内側からテンポをつけてくるみたいだった。
肩の力が抜けて、頬が自然と緩む。
唇の端に小さな笑みが宿る。
——やっぱり、女の子の声っていい。
透明で、柔らかくて、
その響きが鼓膜に触れるたびに、胸の奥が甘く震える。
教室という小さな世界の中で、
光と声と笑いに包まれて、私はまた、少しずつ浮き上がっていく。
「沙織、おはよー」
「うん、恵美もおはよー」
机に鞄を置きながら、いつものように微笑みを返す。
朝の光を受けて、恵美の茶色がかった髪が柔らかく揺れた。その瞳の奥の、まっすぐで強い光に一瞬だけ目を細める。
「あれ、沙織、いつもより元気なくない?」
「そう? 別にいつも通りよ」
「……もしかして、また誰か男からの告白のご予定でも?」
冗談めかした声。
それが本気ではないと分かっているのに、心臓がぴくりと反応する。
――そんなに顔に出てたんだ。
本当に恵美は、面白い匂いを嗅ぎつける天才だ。
その勘の鋭さが少し怖くて、でも嫌いじゃない。
「……そうよ、嫌になっちゃう」
「いつ?」
「昼休みに体育館裏」
「相手は?」
「分かんない」
「ユーザーネームぐらいは分かるでしょ」
「それがね、今どき珍しく手紙なの。名前もなし。用件だけ。……見せないけどね」
私がわざとらしく溜め息を吐くと、恵美も「ご愁傷様」と肩をすくめて笑った。
その何気ない仕草に、つい頬の力が抜けてしまう。
モテ自慢だと思われても仕方ないような話なのに、この愚痴をちゃんと笑って受け止めてくれる恵美には、本当に頭が上がらない。
その温度に包まれるたび、胸の奥のこわばりがほどけていく♡
まるで冷えていた体が陽だまりの中に引き戻されるみたいに、体の芯がじんわりと緩む♡♡
肩にかかっていた見えない力が抜けて、呼吸が深くなる♡
息を吸うたびに、恵美の笑い声が空気の中をふわりと漂って、肺の奥まで染みていくようだった♡♡
笑っているうちに、頬の内側がほんのりと熱を持つ♡
血が指先に戻ってくる感覚がして、指の一本一本まで柔らかくなっていく♡♡
ふざけた中に、確かな優しさがある♡
その軽やかさと、温かさと、どこまでも自然な笑顔に、私はつい溺れてしまう♡♡
心が溶けていくのに、抗う気も起きない♡♡♡
ふふ……恵美のこと……大好きなの……♡もっと……もっと愛させて……♡
可愛すぎて……息が甘く絡まって……呼吸まで蕩けちゃう……♡
蕩け過ぎて……私、壊れちゃうかも……♡




