第39話 ※莉里視点 白鳥沙織という光に焼かれちゃう♡
「……だめ、だめぇ……っ」
「……き、きもちい……っ。……あっ……もっと、そこ来て……っ」
「だめぇ……っ、も、もう……我慢できない……っ……イクッ……っ」
声が漏れる。止めようとしても、呼吸と一緒に零れてしまう。
彼の影が覆いかぶさり、世界の輪郭がゆっくりと滲んでいく。
指先から力が抜けて、床の感触だけが確かに残る。
荒い息づかいが首筋をなぞるたびに、心の奥で眠っていた何かが目を覚ました。
それは恐怖でも恥でもなく、「抗えない自分」という名の静かな覚醒。
理性がほどけていく。
自分であることを手放したその瞬間、胸の奥で弾けたのは、安堵に似た快さだった。
支配ではない。
差し出すという行為の中に、奇妙な自由を見出してしまう。
世界が反転し、重力が心を地面へと引きずり込む。
彼の存在に飲み込まれていく感覚の中で、ふと浮かんだのは、ただ美しく輝いてさえ見える白鳥沙織の顔だった。
あの子は、きっとこんな感覚を知らない。
誰かの意志に呑まれ、形を失っていくような、この恐ろしくも甘い沈み方を。
力に包まれながら、自分が女であるという現実を突きつけられるような、この圧倒的な快楽を。
白鳥沙織。
なんでも持っているくせに、それを当然のように受け入れている。
与えられた光を誇示することもなく、ただそこに在るだけで他人を照らしてしまう。
誰よりも輝いているのに、誰の輝きも否定しない。
──そんな神聖さが、たまらなく気に食わない。
私は、あんな風にはなれない。
誰かの上に立つわけでもなく、誰かを傷つけるわけでもなく、それでも中心で在り続けるなんて。
私がどれだけ足掻いても、笑っても、泣いても、あの子には届かない。
その現実を突きつけられるたびに、心の奥で煮詰まっていく。
濃く、黒く、熱く──嫉妬という名の感情が。
私は負けたくない。
誰よりも目立ちたい。
「凄いね」って言われたい。
「幸せそうだね」って羨ましがられたい。
それなのに、沙織はそんな欲を一つも持たず、ただ“善”のように笑う。
あの微笑みが嫌いだ。
見透かすような瞳が嫌いだ。
何もかもを許してしまうその清らかさが、気持ち悪い。
理解出来ない。
──許すことなんて、出来るはずがない。
学校では、どんな彼氏を作ろうが、白鳥沙織は決して表立って干渉してこない。
ただ、笑うだけだ。
「良かったね」と、あの穏やかな声で言うだけ。
でも、その一言を境に、教室の空気が変わる。
周囲の目つきが、わずかに鋭くなる。
女だけじゃない、気づけば、男たちのあいだでも妙な連帯が生まれている。
「お前ら付き合い出したんだろ? ちゃんと彼女のこと大事にしろよ」
「おう、お前もちゃんと優しくしてやれよ」
そんなやり取りがあちこちで交わされ、
“彼女を雑に扱うと周りの評価ごと下がる”
そんな雰囲気が、暗黙の了解みたいに広まっていく。
まるでどこかにいる彼女の笑顔が「私がちゃんと見てるから」とでも言っているように。
ふざけるな──この男が選んだのは、私だ。
お前の思い通りになんて、させるもんか。
そう思えば思うほど、私は自分の中で彼女の存在に絡め取られていく。
反発しているはずなのに、彼女の空気に、言葉に、仕草に、縛られていく。
気づけば、私の行動の基準はいつも“あの子”だった。
私が欲しいのは、何にも縛られない強い男。
存在するだけで周囲を圧倒し、誰の顔色も伺わないような、そんな“本物”だ。
でも、沙織がひとこと声を掛ければ、どんな男でも優しくなる。
彼らは、恐れている。彼女の視線に、周囲の圧力に。
いや、惹かれているのかもしれない。無意識のうちに。
そうして、私の世界は次第に温くなっていった。
男たちは誰もが、周りの目に怯えていく。
白鳥沙織に気に入られたい、周囲から嫌われたくない、女子の視線が恐ろしい──そんな臆病な優しさばかりを私に向けてくる。
それが優しさの仮面だと分かっているからこそ、息が詰まる。
つまらない。
そう言って別れた。
そして、上の学年の男と付き合ってみた。
だけど結果は同じ。
白鳥沙織の影は、学年を越えて、校舎の隅々にまで張り巡らされていた。
誰も、彼女に逆らわない。
教師でさえ、彼女の話をする時には少し声が柔らかくなる。
彼女は何もしていない。けれど、すべてを支配している。
だから私は、逃げた。
学外に、世界を広げようとした。
知らない街で、知らない人の中で、新しい彼氏を作ってみた。
けれど、どこかからその情報が伝わる。
彼がふとした拍子に言うのだ。
「お前の学校のダチから言われたよ。莉里をよろしくって」
その言葉を聞いた時、背筋が凍った。
まるで、見えない糸で繋がれているみたいだった。
逃げても逃げても、あの子の影が追ってくる。
気づけば、彼女はこの学校の外にまで、存在を浸食させていた。
気持ち悪い。
異質だ。
異常だ。
私は縋るような気持ちで、今の彼氏と付き合った。
行為のあと、ベッドの上で並んで横たわる。
男は煙草を咥え、紫煙の向こうを見つめている。
何を見ているのか分からない。ただ、その瞳の焦点がどこにも定まらないことだけが分かる。
その横顔を盗み見るたびに、胸の奥で何かがざらつく。
この距離で、触れられるほど近くにいるのに、手を伸ばしても掴めない。
息を吸えば、煙草と汗と体温が混じった匂いが胸を満たす。
その匂いが脳の奥にじわりと滲み、思考を曖昧に溶かしていく。
無意識のうちに、彼の腕に指を這わせる。
硬い皮膚の下で筋肉がゆっくりと動くたび、心臓の鼓動が早まる。
包まれる感覚が、恐ろしく心地いい。
求めてはいけないと分かっているのに、身体の奥がそれを欲している。
“強い”というのは、こういうことなのだろう。
ただ存在するだけで周囲を支配し、言葉を使わずとも人を従わせる。
彼の沈黙には、暴力よりも深い説得力があった。
その沈黙に触れているだけで、自分の輪郭がぼやけていく。
心が静かに沸騰していく感覚。
息が浅くなり、胸が熱を持つ。
快感ではない。けれど、確かに“生きている”と感じる熱だ。
思えば、白鳥沙織の周りにも、似たような空気があった。
彼女の前に立つだけで、誰もが言葉を選ぶ。
その優しさが、支配にすり替わっていることに、誰も気づかない。
彼の腕に頬を寄せながら、私は思う。
この男は、あの女よりも上だ。
誰も逆らえない力を、目の前のこの存在は持っている。
あの日、沙織が自ら視線を振り切って帰って行ったときの、あの胸の高鳴り。
それを思い出すだけで、口の端が自然に上がった。
あの完璧な女の“外”に、自分は立てたのだと。
この男の隣にいるという事実が、それを証明している気がした。
熱を帯びた呼吸の中で、笑いが零れる。
それは、勝利のようでもあり、錯覚のようでもあった。
それが、学校では恵美まで取り巻きのようにして──ムカつく、ムカつく、ムカつく。
あんなに外では弱々しく逃げ出したくせに、学校の中では女王様みたいな顔をして笑っている。
取り巻きに囲まれて、声を潜めて、でも確かに“中心”にいる。
それが、たまらなく癪だった。
もっと、この強い男の力を借りれば。
もっと、この男を自分のものに出来れば。
白鳥沙織だって、あの偽りの微笑を保てなくなる。
きっと悔いて、うつむいて、私を見上げるしかなくなる。
そう思うと、胸の奥に熱が灯る。
それは怒りとも嫉妬とも違う、もっと濃い色をした欲望。
彼に求められるたび、自分の中で何かが満たされていく。
“強い男の女”という鎧が、心の傷口を覆っていく。
──もっと。
もっと彼に求められたい。
もっと彼を、自分なしでは立てなくしてしまいたい。
そうすれば、もう誰にも奪われない。
そう信じたいのに、信じ切れない。
「……なあ、莉里、もっと女引っ張って来れねーのか? 先輩がもっと女寄越せって言ってんだよ」
いつもの調子で、彼は言った。
何気ない一言のように聞こえたのに、胸の奥を鋭くえぐられた。
「……ウチの学校、思ったより、みんな真面目ちゃんで」
「ほら、昨日会った女がいんだろ。あんな上玉いたら俺の顔も立つのよ」
その言葉が耳に届いた瞬間、息が詰まった。
──沙織のことだ。
「……あの子は難しいと思う。男が集まるとこ避けてるし」
「そんなこと言わずに頼むよ、な。俺にはお前しかいないんだから」
その言葉。
ほんの一秒前まで冷えていた血が、一気に沸騰する。
胸を鷲掴みにされたように息が詰まり、視界が揺れた。
“俺にはお前しかいない”──その響きが、脳の奥で何度も反響する。
嬉しさと、疑いと、渇きが同時に押し寄せる。
信じたい。
信じたいのに、指の隙間から零れ落ちていく。
スマホの画面の中。
ふとした通知に映る、見知らぬ女の名前。
スクロールの奥に、やたら鮮やかに発光するハートマーク。
それを見るたび、心臓の奥で何かが軋む。
そんなわけない。
彼が必要としているのは、私だけのはず。
“俺にはお前しかいない”って、確かに言った。
その言葉を信じたい。
信じたくて、縋りたくて、考えることすら投げ出したくなる。
思考が止まる。
代わりに、胸の奥で脈打つ音だけが響く。
彼のために、もっと何かを捧げたい。
彼が笑うなら、どんな役でも演じられる。
そうやって、自分を保っている。
「……分かった。出来るだけ誘ってみる」
「おお、頼むわ。流石は俺の女だわ」
その一言に、心の奥で何かが弾けた。
彼の太い腕が私を引き寄せる。その体温が、皮膚を通して胸の奥へと流れ込んでくる。
触れられた瞬間、心臓が跳ねる。
呼吸が浅くなる。
自分でもどうにもならないほど、身体が勝手に反応していく。
──俺の女。
その言葉を信じるしかない。
けど、信じた瞬間に裏切られるような気もする。
不安と安堵が絡み合って、足場がぐらつく。
けれど、彼の存在はそれ以上の言葉を許さない。
聞きたいのに、聞けない。
信じたいのに、信じられない。
分かりたいのに、分からない。
でも、それでもいい──そう思い始めている。
「信じる」って、こんなにも楽なことなんだ。
疑いを手放した瞬間、世界が柔らかくなる。
彼の言葉を真実にしてしまえばいい。
彼を好きでいればいい。
彼に好きだと言わせることが、私の存在理由であっていい。
そうやって、心の奥に絡みついた不安が、少しずつ形を変えていく。
理性の糸がほどけていく音が、静かに響く。
体の奥に、熱がじわりと広がる。
心臓が胸の内側から何度も叩いて、今生きていることを主張している。
彼の存在に包まれるたびに、世界が遠のいていく。
境界が滲んで、輪郭が曖昧になっていく。
その曖昧さが心地よくて、
このまま沈んでしまっても構わないとすら思えてしまう。
現実が遠くなる。
時間の流れが、緩やかに歪んでいく。
──この瞬間が永遠に続けばいい。
そんな願いを、誰にも聞こえない場所で静かに呟いていた。




