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第36話 ※由梨視点 好きってなんだろう?♡

「……そっか。好きって難しいよな」

「……うん」


 直樹の声がかすれていた。

 喉の奥でひび割れたようなその響きに、胸がぎゅっと掴まれたみたいに痛くなる。

 息を吸おうとしても肺に入ってこなくて、肩だけが小さく上下する。


 ……言うべきじゃなかった。

 頭では分かってるのに、どうしても止められなかった。

 沙織ちゃんへの気持ちを隠していたら、それはそれで直樹に嘘をつくことになる。

 正直に言ったって、きっと直樹を苦しめる。

 どっちを選んでも間違いにしかならない。


 『でも……直樹なら、受け止めてくれるんじゃないか……』

 そんな甘えが、心の奥に潜んでいたのかもしれない。

 信じたくて、すがりたくて、気づいたら口から言葉が零れ落ちていた。


 ……直樹は今、どう思ってるんだろう。

 怒ってる? 悲しんでる?

 どちらにしても、私のせいで傷ついてるのは間違いない。


 だったら……いっそ『別れよう』って言ってくれた方が楽かもしれない。

 そう思う自分が怖い。

 だって本当は、絶対に直樹を失いたくなんてないのに。


 ただ──怒って欲しかった。

 悲しんで欲しかった。

 直樹の「好き」が本物だって証拠が欲しかった。

 本気でぶつかってきてくれたら、本気で泣いてくれたら、私はやっと信じられると思ってしまった。


 ……なんて卑怯なんだろう。

 そんな自分を心の奥で見つけてしまって、全身に嫌悪感が広がっていく。


 胃がきゅうっと縮んで、吐き気がこみ上げる。

 心臓が早鐘を打つのに、手足は氷みたいに冷えていく。

 脳がじんじん熱くて、視界の端が霞んでいく。


 胸の奥から黒い泥みたいな絶望感がせり上がってきて、喉まで満たしてくる。

 こんな自分、大嫌いだ。

 それでも直樹の顔を見ずにはいられない。


「……ねえ、直樹」

「……なに」

「……ごめんなさい」

「……いいよ、別に」


 直樹の声は、砂を踏んだみたいに乾いていた。

 水分を失った空気が喉の奥をかすめるみたいで、その響きが胸の奥に刺さる。


 ──良くないでしょ。

 何が「いい」の。

 私が他の誰かを好きって言っても「いい」の?

 沙織ちゃんなら好きになっても「いい」の?

 それとも直樹の「好き」ってその程度なの?

 私のこと、本当に好きなの?


 尊重してるつもり? 優しいつもり?

 それなら、そんな厚意いらない。

 もっと好きって言って、私を信じさせて。

 私だって、直樹のこと好きだから──。


 胸の奥でそんな声が暴れて、喉まで上がってくるのに、言葉にならない。


「……手、繋いでいい?」

 私は、自分の声がかすれていることに気づいた。喉の奥に詰まった罪悪感を、吐き出すように絞り出した言葉。そんなので贖罪になるわけないのに。


 直樹が黙ったまま、ゆっくりと手を伸ばしてきた。指先がわずかに震えている。ためらいが、その温度の中に混ざっている。

 私も、そっと手を伸ばす。触れる直前、心臓が一度だけ強く跳ねた。


 指先と指先が触れ合った瞬間、微かな電流が走るような感覚。指の間に、相手の熱が流れ込んでくる。掌の中央に溜まる温もりは、じんわりと広がって、私の手首から腕、胸の奥までを満たしていく。


 ──心が跳ねる。鼓動が早くなる。

 胸の奥で、罪悪感と安堵が入り混じって、熱のように立ちのぼっていく。頬がじわりと熱くなり、視界の端がにじむ。


 さっきまであんなに落ち込んでいたのに、今はこんなにも幸福感に包まれていく。

 私って本当に都合が良い。直樹を散々苦しめたくせに、今こうして隣にいられるだけで救われてしまう。身勝手すぎるのに、それでも温かさに縋ってしまう。変でおかしくて、不思議な感じだ。


 そして、不意に遠い昔の記憶が胸の奥から浮かび上がってくる。

 一緒に通った学校の登下校。ランドセルを背負って小さな歩幅で必死に並んだ道。

 公園でブランコを取り合って笑い合ったこと。転んで泣いて、直樹に袖を引っ張られて立ち上がったこと。

 お互いの家を行き来して、夕飯をごちそうになったこと。

 夏には一緒にキャンプに行って、焚き火を前にふたりで虫除けスプレーの匂いをぷんぷんさせて眠った夜。

 どれもこれも、柔らかいフィルムに焼き付けられたみたいに鮮やかだ。


 このまま子供の時みたく、腕を大きく振って歩きたくなる。直樹を傷付けたことを思えば、そんな気持ちになる資格なんてないのに……不思議と、今はそうしたくてたまらなかった。


「……なんか、こうしてると懐かしいね?」

 ぽつりと漏らす声は、自分でも驚くほど優しくて、震えていた。


「……そうかもな」

 直樹も目を細めて遠くを見ていた。


「そうそう、あの時はさ、あちこち寄り道ばかりしたがる直樹と一緒に帰るの大変だったなぁ」


「それは由梨も変わらんだろ。泣き虫なお前をどれだけ付き添ってやったと思ってんだよ」


「そうだっけ?」


「そうだよ。公園の隅っこで膝抱えて泣いてたお前を、俺がどれだけ長いこと隣で見てたか。何時間もな」


「懐かしいなぁ。そんなこともあったかも」


「“かも”じゃねえよ。あったんだよ」


「……そうだね。うん、ありがと」


 言葉にした瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。ありがとうなんて、あの頃は素直に言えなかったのに。

 今ようやく言えた「ありがと」が、これまで積み上げてきた全部を肯定してくれるような気がした。


 暗い影を落としていた直樹の顔が、少しずつほどけていくように和らいでいく。眉間の皺が消え、口元がわずかに緩んで、たまに笑い、たまに呆れる。その表情は、私の記憶の中にある「あの頃の直樹」と何も変わらなくて、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。


 でも、その温かさは沙織ちゃんといる時に感じるものとは違う。沙織ちゃんからもらう温かさは、眩しくて、手を伸ばしても完全には掴めない光のようで、「こうなりたい」と思わせてくれる導きの温かさ。追いかけることに意味があって、触れようとするだけで心が震える。


 一方で、直樹から伝わってくる温かさは、もっと地に足のついたもの。ずっとそこにあって、寄りかかればちゃんと支えてくれる。懐かしい匂いのする布団みたいに、安心と居場所を思い出させてくれる温かさ。私の欠けている部分を補うように、静かに満たしてくれる。


 どちらが良いとか悪いとかじゃない。どちらも違う形で、本物の「大切さ」を私にくれる。


 だけど──私は幼馴染としての直樹だけじゃなく、ちゃんと恋人として扱ってほしい。心のどこかで、そう思っていた。


 それなのに、今の私は直樹を幼馴染として扱っている。思い出を懐かしむように接している。けれどそれが全部じゃない。胸の奥には、恋人として直樹を好きだという気持ちがちゃんと同居している。


 矛盾してるように見えるけど、嘘じゃない。どっちも本当。幼馴染としての直樹も、恋人としての直樹も、どちらも私にとってはかけがえのない存在。比べることなんてできないし、比べる必要もない。


「……直樹、好きって難しいね」


 ふと、心に浮かんだ言葉が口から零れた。


 直樹は一瞬目を細めてから、小さく頷いた。

「……そうだな。好きって、本当に難しい」


 沙織ちゃんへの気持ちと、直樹への気持ち。恋人としての気持ちと、幼馴染としての気持ち。どちらも似ているようで、でも違う。恋とか愛とか、いろんな言葉で考えてみるけれど、どれも決め手にはならない。どれも正解な気もするし、どれも間違ってる気もする。


 言葉に迷って、答えが出なくて、それでも胸の奥に灯るものを見つめ続けていると、やっぱり最後に辿り着くのは──「好き」という一言だった。


 複雑で、曖昧で、掴みきれないようでいて、それ以上に相応しい言葉なんてない。


「好き」。


 ただそれだけで、全部伝えられる気がした。

 ただそれだけで、心は救われる。


 結局のところ、理由なんてなくていい。正解や間違いなんて、どっちでもいい。


 この胸の奥に燃えている灯火を言葉にするなら──やっぱり、それは「好き」なんだ。


 それしかない。

 それだけで、充分だった。

 それだけが、全てだった。

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