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第35話 ※直樹視点(由梨の彼氏) 由梨に好きと言われたが、それすら怒りに変わってく。

 俺は下駄箱の端で、由梨を待っていた。昇降口は放課後のざわめきで満ちていて、靴音や笑い声が交じり合い、俺ひとり取り残されたような気分になる。人混みのなかでじっと待つのは、どうにも落ち着かない。

 けれど、それ以上に胸を締めつけるのは、昼休みに見てしまった光景だった。


 ——白鳥さんの肩に頭を預け、髪を撫でられていた由梨。

 そのときの由梨は、俺の知っている由梨じゃなかった。頬がほんのり赤く染まり、目尻が緩んで、まるで安心しきった子どものような顔をしていた。

 ただ蕩けるように幸福そうに身を委ねていた、あの表情が脳裏から離れない。俺に見せたことのない顔を、彼女は白鳥さんに向けていた。


 それを思い出すたびに、胸の奥がねじれるように痛む。しかし、ふわりと漂った白鳥さんの香水の甘ったるい匂いも未だに鼻に残っている。

 花のように華やかで、同時に甘いその匂いを思い出すと、股関節の奥が熱く渦を巻いて、喉が詰まり、吐き気すらこみ上げてくる。 

 嫌悪感と嫉妬と性欲が入り混じって、呼吸が乱れるのを抑えるのに必死だった。


「ごめん、直樹。お待たせ」

 声に振り向くと、由梨が小さく手を振って近づいてきた。


「いや、そんなに待ってない。こっちのクラスのが少し早かったな」

「そうだね、ウチの担任、話し長いから」


 二人並んで歩き出す。由梨は笑っていた。何も変わらないように見える、穏やかな笑顔。だけど俺の頭には、白鳥さんに身を委ねていた表情がちらつき、まるで幻を追い払うみたいに目を伏せるしかなかった。


 ——やっぱりあれは夢だったんじゃないか。そう思いたくなる。


 けれど、由梨の顔を改めて見て、現実に引き戻される。

 いつもはほとんどしないはずのメイクが、今日はうっすら残っていて、光を受けてきらめいている。だが、近くで見ると、その化粧は昼よりも崩れていた。目元のラインは少し滲み、唇に塗られた色は淡く剥がれ、肌の艶もどこか不均一に見える。


「……どうしたの?」

由梨が小首を傾げて、俺を覗き込む。


「いや、昼休みとなんか違うなって」

「ああ……体育の授業でメイク崩れちゃって。沙織ちゃんも、さすがに直しまではしてくれないよ。依怙贔屓に思われちゃダメだから難しいって」

「……そうなのか」


 その名前を出した瞬間、由梨の瞳がふわりと潤んだ。

 まるで心の奥に甘い記憶を思い返しているみたいに。頬がほんのり熱を帯び、目元がやわらかにほどけて、恋する乙女の表情を浮かべていた。歩調まで軽やかになり、胸の奥で大切な何かを抱きしめているように見える。


 ——俺は由梨の彼氏のはずだ。

 なのに、その顔は俺には向けられたことがない。白鳥さんの名を口にしただけで、こんなふうに揺れて、蕩けて、夢みたいに微笑む由梨を目の前で見せつけられる。


 胸がぎゅっと掴まれたように痛み、喉の奥が焼け付いた。胃のあたりが沈んで、呼吸が浅くなる。身体の奥からせり上がってくるのは嫌悪と敗北感。頭の芯がぐらぐら揺れ、足下がふらつくような感覚さえ混じっていた。


「……ねえ、直樹。昨日の一緒に遊びに行く約束なんだけど……」

「ああ、急用で行けなくなったって」

「……うん。あれ、実は沙織ちゃんにお出掛けに誘われたんだ」

「そっか。まあ今日の様子見てたら、なんかそんな気はしてた」

「……怒らないの?」

「俺と白鳥さんだろ? そりゃ白鳥さんを選ぶだろ、普通」


 わざと軽く答えたつもりだった。自分の胸に渦巻くざらついた気持ちをごまかすように、あえて自然体を装った。


 すると由梨が、ふっと口元をほころばせた。

 その笑みは、俺がよく知る由梨そのものだった。無邪気さを含んだ、柔らかで人懐っこい笑顔。ほんのわずかに視線を伏せて、頬が緩んで、肩の力が抜けていく。


 ——それを見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 張りつめていた何かが解けて、血が静かに全身を巡っていく。視界が広がり、呼吸も深くなる。心臓の鼓動がやわらかに跳ねて、全身がそのリズムに揺れているように感じた。

 言葉にできない心地よさが胸いっぱいに満ちていく。彼女の笑みひとつで、こんなにも自分が報われてしまうことが信じられなかった。


 だが——。


「……ぷっ、や……そ、そうなんだけど……っ」


 由梨の肩が小さく震え始めた。最初は小さな笑い声だったのに、次第に抑えきれなくなっていく。とうとうお腹を抱え、身体を折り曲げて静かに笑い続けていた。


 何がそんなに可笑しいのか分からない。俺には、理由がひとつも見当たらない。


 笑い声が耳の奥で響くたび、さっきまでの温もりが引き剥がされていくようだった。胸の中にこびりついた安堵は一瞬で冷め、代わりにざらりとした怒りと不快感が広がる。胃のあたりが重く沈み、視界がじわりと濁っていく。


「何で笑ってんだよ?」

「いやぁ、ごめんごめん。ちょっと思い出し笑い。直樹は直樹だなぁって」

「意味分からん」

「……直樹はさ、私が沙織ちゃんから抱き寄せられたって聞いたら、信じる?」


 由梨はさっきまでの笑みをすっと消し、まるで別人のような真剣な眼差しを俺に向けてきた。瞳の奥に映る光が揺れずにまっすぐで、その圧に、思わず息を詰めた。


 頭の奥で、白鳥さんに言われた言葉が反芻される。

 ——『大事にしてね』

 ——『甘えちゃダメ』

 その意味をきちんと理解は出来なかった。けれど、ただ一つ、由梨を傷付けてはいけないということだけは、痛いほど分かる。


 だが、同時に。

 「抱き寄せられた」という言葉が、残酷なまでに鮮明な情景を脳裏に焼きつけていく。


 白鳥沙織が、あの白い腕をすっと伸ばし、由梨の身体を自分の胸元へ引き寄せる。

 由梨は抵抗もせず、むしろその腕の中で安心したように目を細め、力を抜いている。頬を白鳥さんの肩に預け、撫でられる髪がわずかに揺れる。息を呑むようなほど近い距離で、由梨の吐息が白鳥さんの首筋に触れて……。


 ——俺の頭の中で、ありもしない映像が勝手に再生される。


 その瞬間、胸の奥で何かがざらついた。

 喉が渇く。呼吸がうまく出来ない。

 心臓が、まるで外に飛び出そうとでもするみたいに荒く打つ。


 頭の中では「違う」と叫んでいるのに、

 どうしようもなくその光景に縋りつこうとしていた。

 怒りと嫉妬と、説明のつかない熱が、下腹部で渦を巻く。


 何かが脈打つような感覚が、意識の奥を支配していく。

 敗北感なのに、抗いようのないほど甘く、

 屈辱の中に微かに混じる陶酔のようなものが、自分でも気づかぬうちに快楽と共に身体を支配していった。


 由梨が嘘をつく性格じゃないことは分かっている。だからこそ、そのイメージを「本当のこと」として受け入れざるを得ない。

 認めれば認めるほど、胸の奥が締め上げられていく。心臓が拳で殴られたみたいに鈍く痛み、胃の底がひっくり返るように気持ち悪くなる。


 ——俺だって、由梨を抱き締めたいのに。

 付き合って何度か手は繋いだけれど、それ以上の進展はない。今も、目の前にいる彼女を思い切り抱き寄せてしまいたい衝動でいっぱいだ。

 けれど、その願いは既に白鳥さんに奪われたのだという。


 胸の奥が焼け付くように熱くなり、同時に喉の奥は冷たい鉄を押し込まれたように塞がる。呼吸は浅く途切れ、額からはじっとりと冷たい汗が滲み落ちた。膝がわずかに震え、手のひらは強く握り込んで爪が食い込む。


 屈辱感。

 敗北感。

 あの昼休みに見た、白鳥さんに蕩ける由梨の表情が頭に重なり、視界の端が暗く揺れる。

 その絶望が、血の味を伴って喉奥に込み上げてくるようだった。


「……信じるよ。由梨がそんな嘘を吐けないのは知ってるし」


「……そっか、嬉しい。

 じゃあさ、直樹は私のこと、好き……?」

由梨の瞳が、深い夜の水面みたいに揺れていた。


「……っ。……好きだよ」

自分でも驚くほどの早さで言葉が出た。


「……そっか。……私も、直樹のこと好き」


 その一言で、心臓がぎゅっと掴まれる。血が全身を一気に駆け巡って、耳の奥で鼓動が鳴る。けれど同時に、背筋を冷たいものがすっと撫で下ろした。

 あの昼休み、白鳥さんに蕩けるような笑みを浮かべていた由梨の姿が、何度も何度もフラッシュバックする。


 俺は、由梨のことを信じたい。由梨の「好き」という言葉を信じたい。

それなのに、由梨の口から出て来るのは、白鳥さんの話題ばかり。

 自分の「好き」という言葉が、どこか薄っぺらくなっていくような気がした。


「……でも、少し分からなくなった。……好きってなんなんだろうなって」

「…………」

「……直樹と居ると落ち着く。でも、そうやって好きって言ってくれると、ドキドキもする」

「…………」

「……私、沙織ちゃんのことも好きなの。でも、それって直樹への好きとはまた違ってて、沙織ちゃんと一緒にいるとただ幸せで……」


 由梨の声は、まるで深夜のテレビから流れてくる他人事の告白みたいに遠く感じた。


 ……何を言ってんだ、こいつは。

 今の俺に、そんなこと聞かせてどうする。どう思うと思ってんだ。


 白鳥さんが好き? 一緒にいるだけで幸せ?

 ふざけんなよ。そんなの俺だってそうだ。男はみんなそうなんだよ。

 あの人が笑い掛けてくれただけで、胸が高鳴って、視線が外せなくなった。

 下腹部が熱くなって、頭の奥で「全部吐き出せ」って声が響く。欲望が理性を食い破りそうになる。

でもそれを必死で抑えてんだよ、俺は。


 男がそう思うのは性欲だからダメで、女同士なら許されるのか?

 彼氏の俺にそんなこと平気で告げて、何になるんだ。

 白鳥さんに少し視線をやっただけで俺を責めたくせに……お前は何様なんだ。


 気持ち悪い。心底、気持ち悪い。

 胸の奥で黒い塊が膨らみ、胃の底を押し上げるような怒りと吐き気がこみあげる。

 指先がじっとりと汗ばんで、膝の奥が抜けるみたいに震えた。顎の奥がピリピリとしびれ、呼吸の音が耳の中で大きく響く。


 共感して欲しいのか? そうなんだろうな。

 友達にも「女の子には共感してあげろ」ってよく言われるよ。

 共感してやるよ。共感してやろうじゃんか。


 ……そう、共感してしまう。理解できてしまうからこそ、余計にムカつくんだ。

 白鳥さんなら、仕方ない。俺なんかじゃ、彼女の魅力には敵わない。

 そうやってどこかで認めて、諦めてしまっている自分に、一番腹が立つ。


 胸の奥がぐしゃりと握り潰されるように痛む。視界がぼやけて、足元から力が抜ける。

 呼吸をするたびに、喉の奥が熱くなり、涙とも汗とも分からないものが滲んできた。なのに、胸の奥を熱く焼き焦がす。

 自分の中の「男」と「弱さ」が、同時に剥き出しになっていく。


 体の奥底から、何かが音もなくひび割れていくような感覚だけが、確かにそこにあった。

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