第32話 ※ 由梨視点 あなただけ見詰めてるの♡
ピピーッ──。
体育館に高く響き渡るホイッスルの音。
その瞬間、張り詰めていた全身の力がふっと抜けて、私は膝に手をついて荒い呼吸を繰り返した。
胸の奥が焼けつくように熱く、喉は乾ききって、吸う息も吐く息もざらついている。
心臓が暴れるようにドクドクと鳴り、耳の奥まで響いていた。
ここまで必死に走ったのなんて、いつ以来だろう。
足は鉛みたいに重くて、汗で髪が頬に貼りついて、視界は霞んでいるのに。
なぜか不思議と、胸の奥はじんわりと温かい。
試合は負けちゃった。
後半から相手のバスケ部の子が本気を出してきて、あの沙織ちゃんでさえ止められなくなって。
最初につけた点差なんてあっという間になくなって、最後はギリギリで逆転負け。
でも、勝ち負けなんてどうでも良かった。
だって──。
コートの上で全力で駆け回る沙織ちゃんが、あまりに綺麗で、カッコよくて。
その姿を同じ場所で追いかけられることが、ただただ幸せで仕方なかったから。
私も必死に食らいついて、自分なりにできることを精一杯やった。
そのたびに沙織ちゃんが「ナイス!」って声をかけてくれて、笑顔を向けてくれて。
それだけで、胸がきゅっと熱くなって──疲れなんて吹き飛ぶくらい嬉しかった。
もちろん、力不足は痛感した。
もっと上手く動けたら、もっと上手く頑張れたらって思う場面もたくさんあった。
それでも──。
「私も少しは役に立てたのかな」って思える瞬間があった。それが、何よりも大きな喜びだった。
「ありがとうございました!」
試合を終えたみんなの声が、体育館に重なって響く。
整列の声が響いて、私たちは一列に並んだ。
みんなで一緒に頭を下げて礼をし、順番に握手を交わしていく。
手と手が触れるたび、さっきまでの張りつめた空気がふっとほどけて、体育館の熱気がやわらかいものに変わっていく。
息の合った挨拶の声、あちこちからもれる笑い声、まだ残っている心拍の速さ。
さっきまでコートを駆け回っていた身体の奥に、独特の緊張の緩和と安心感がじわりと広がっていた。
汗に濡れた肌も、ぐしゃぐしゃになった髪も、今はどこか心地よい。
少し離れたところで、沙織ちゃんがバスケ部の子と笑顔で握手していた。
その笑顔は、まるで太陽みたいにあたたかくて、吸い寄せられるように目で追ってしまう。
「いやぁ、やっぱり本職のバスケ部に本気出されたらキツイね。全然止められなかった。凄い」
「こっちこそマジになっちゃった。あのパス回しとか授業でやるやつじゃないって。動ける人少ないのに、ちゃんとその子に合ったパスするじゃん? しかもどんどん勢い良くなってくるし」
その言葉が、胸の奥にチクリと刺さる。
分かっていたことだ。沙織ちゃんが、みんなに合わせてやっていたことくらい。
私にはふんわりとしたパスが飛んできたし、他の子にはもっと強くて速いボールをパスしていた。
コートの中にいると、沙織ちゃんの“期待値”みたいなものが、なんとなく見えてしまう。
それに気づかないわけがない。
──それでも。
沙織ちゃんのパスに少しずつ付いていけるようになって、ちょっとずつ強くなるボールの勢いに、胸の奥が跳ねるように躍っていた。
その感覚だけで、私は「嬉しい」と思い込もうとしていた。
本当はもっと認められたくて、もっと同じ場所に立ちたくて、喉の奥が苦いのに。
「それはみんなが頑張ってくれたからかな。恵美も私の無茶苦茶に付き合ってくれたし、本当に楽しかった」
「白鳥さん、一緒にバスケ部入ってよ。私達の代、個人プレイヤー多くて、白鳥さんみたいな全体見てくれる人がいると、凄く助かるの。もっともっと白鳥さんの力が活きると思う」
「……うーん、申し出は嬉しいんだけど。部活入ると、勉強まで手を回せる自信ないし、私は私でやりたいことあるしなぁ」
沙織ちゃんの声は、どこか申し訳なさそうで、でも芯の強さを滲ませていた。
「……そうだよね、ごめん。白鳥さん、いつも忙しそうだもんね。ちょっと調子乗った。ごめんなさい」
「いーの、いーの。そんな気を使わないで。気持ちは嬉しかったから。お気持ちだけ受け取ります」
「……うん、そう言って貰えると助かります。次の授業の時もよろしくね」
「うん、こちらこそよろしく」
胸の奥に、針のように細い感情が刺さる。
ああ、私はこの人に、活かされていただけなんだ、と。
試合中のことが頭の中にフラッシュバックする。
何度もミスをした。受け取ったボールを零し、出したボールを相手に奪われた。
点差を思い返せば、あのミスがなければ結果は違っていたかもしれない。
そんな当たり前のことが、今になって骨の奥まで冷たく広がっていく。
それでも、沙織ちゃんは笑っていた。
「ドンマイ。ミスは絶対起きるから。由梨ちゃんがちゃんと私のこと見ててくれることが嬉しいの」
そう言ってくれた声が、まだ耳に残っている。
でも、それは──沙織ちゃんだから言える言葉だ。
私は知っている。私には何の力も、何の価値もないことを。気付いていたけれど、見て見ぬふりをしていただけ。
沙織ちゃんは「可愛い」とか「好き」とか言ってくれるけど、それを心から信じることなんて出来はしない。
そんな言葉を受け取って良いかも分からない。
でも、もし本当にそう思っててくれたとして、それは沙織ちゃんという人のフィルターを通した世界だからこその言葉。
沙織ちゃんは、誰の魅力も引き出せる。
誰のことも可愛いって言える。
誰よりも輝いて、綺麗で、可愛い沙織ちゃんだからこそ拾えるもの。
そんなもの、沙織ちゃん以外には意味がないじゃない。
──私なんて、何の役にも立たない。
胸の奥で、どす黒いものが渦を巻いている。
嫉妬、羨望、無力感……言葉にした瞬間にこぼれ落ちそうな感情たちが、体の中心にぎゅっと詰め込まれている感じ。
息を吸うたびに、胸の奥の重たい泥がざわついて、ゆっくり回転していくような感覚がある。
今朝、沙織ちゃんに教室でメイクをしてもらった。
「ここはもう少し明るい色がいいよ」と笑いながら、指先で頬に色を乗せてくれる沙織ちゃん。
その指が触れるたび、胸がどきどきして、自分が少しずつ変わっていくのが楽しくて、心がふわふわしていた。
みんなの視線が集まって、頬が熱くなった。注目されて、見られて、心が満たされていくようなあの感覚。
……でも、心の中にはぽっかりと小さな穴が空いていた。
……本当は何も変わってなんかいない。沙織ちゃんがそれっぽく見せてくれてるだけ。
黒い水がじわじわ染み出していく。嫉妬や羨望が渦を巻く。
沙織ちゃんがこんなにも気を遣ってくれているのに、こんなに幸せなことってないのに、本当はこんなこと思っちゃいけないのに。
直樹の前で、わざとらしく沙織ちゃんに身体を預けた。
私が目の前にいるのに、また沙織ちゃんにばかり見惚れてて、私のことなんて全く視界に入らない。
メイクした顔見て、可愛いって言ってくれたのに。いや、それはあまり心籠もってなかったけど。
ちょっとムカつく。
もっと私のこと気に掛けてよ、と言葉にできない気持ちを演じるみたいに身体で伝えた。
でも、沙織ちゃんは何も言わずに受け入れてくれた。その温もりに蕩けていく自分がいた。
周りの女の子たちの視線を背中に感じて、それがどこか気持ちよくて、呆然とする直樹の表情に、ほんの少しだけ優越感と罪悪感が入り混じっていった。
……でも、全部私のものじゃない。
この注目も、この視線も、この舞台も、沙織ちゃんが作ったもの。
誰も本当は私のことなんて見ていない。みんなが見ているのは沙織ちゃんだけ。
沙織ちゃんの輝きが羨ましい。
その光があまりに眩しくて、何も持っていない私の心は陰っていく。
嫉妬の炎がチリチリと心を灼く。
強い光は、私という存在ごと掻き消してしまうみたい。
「沙織ちゃんの役に立ちたい」なんて、嘘っぱちだ。本当は、沙織ちゃんに見離されたくないだけ。
沙織ちゃんの言葉を心から信じられないのに、私のことは気に掛けてほしいなんて、ずるい願いを抱えている。
さっきのバスケのときもそうだった。
「役に立ちたい」と思いながらも、心の奥では見離される恐怖に震えていた。何もできない私を許して、どうか見捨てないで、ただそれだけの思いで走っていた。
その黒いものが、今も胸の奥で渦を巻いている。
沙織ちゃんの光に手を伸ばしながら、その光が怖くて、なのに離れられなくて──。
だって、私は本当に何も持っていない。
沙織ちゃんみたいな、周りを一瞬で振り向かせる美しさもない。
誰かの視線を自然に惹きつけるあの圧倒的な存在感もない。
走っても息がすぐに切れて、勉強だっていつも平均点。胸を張って「これが私の得意なこと」と言えるものなんて、ひとつもない。
なのに──なのに沙織ちゃんは、相談に乗ってくれたあの日から、ほんの少しだけ私を特別に扱ってくれている気がした。
その視線、その笑顔、その声の温かさが、私の中で特別に変換されていった。
憧れているだけのはずだったのに、いつのまにか「私だけのもの」という妄想にすり替えて、勝手に心を慰めていた。
沙織ちゃんが皆の注目を集める姿が、胸を締めつけるほど眩しくて、同時に憎らしい。
何も返せない自分が、惨めで恨めしくて、そんな自分を見下すようにもう一人の自分が笑っている。
妄想の中でだけ沙織ちゃんに「私は私でいい」と許させて、でもそれはただの都合のいい逃げ場所でしかないって、わかってる。
沙織ちゃんは、きっといつか私を見離すだろう。
こんなに嫉妬して、汚い感情を抱えている私を、きっと失望するだろう。
素直に憧れているだけで良かったのに、ちょっと優しくされただけで「特別」だと勘違いして、何も出来ないくせに「力になりたい」なんて言ってしまう、厚かましい私を──。
──いや、いずれ見離すのは私の方かもしれない。沙織ちゃんの輝きが眩し過ぎて、自分を嫌いになる私に耐えられなくなる。
いやだ、いやだ、いやだ。
こわい、こわい、こわい。
少しでいい、ほんの少しでいいから、その瞳に私を写して。
また由梨ちゃんって名前を呼んで。
その微笑みを、ほんの欠片だけでも分けて。
だって、こんなに沙織ちゃんに救われて、守られているのに。
なんでも持っている沙織ちゃんが羨ましくて、妬ましくて。
私にもその光を少しだけ分けてよって、心の奥で叫びながら、表面では「頑張ってるフリ」をすることしか出来ない。
無力で、どうしようもない私を──どうか、どうか、許して。
……お願い。




