28話S それでも綾さんの手助けをしたい
いつも通り秋子さんにマンションまで送ってもらったけれど、彼女はエレベーターを一緒に降りなかった。
「今日は遠慮しておくわね。久しぶりに唯の部屋に行くから、二人でしっかり話し合って」
その言葉に背中を押されるように、私は一人で部屋のドアを開ける。
帰宅すると、食欲をそそる濃厚なトマトの香りがふわりと漂ってきた。
今日のご飯は何かなと思いながらリビングへ向かうと、綾さんが鍋の前に立ち、トマトを使った何かを丁寧に煮込んでいた。
キッチンの台にはスパゲティの袋が置いてある。たぶん、パスタなんだろう。
私が帰ってきたのに気付いたのか、彼女がふと顔だけをこちらに向けてくれた。
朝のような感じはなく、少しだけ柔らかい表情に見えて、私は胸をなでおろした。
「……栞?」
私は吸い寄せられるように、いつもの席へ座った。
けれど綾さんは、いつも座る私の隣ではなく、あえて正面の席を選んで腰を下ろした。
鍋から、ガーリックとソースの香りが優しく立ちのぼり、私たちを包み込む。
よし、最初に決めていたことをしよう。私は意を決して口を開いた。
「「ごめんなさい」」
完璧に重なった声。同時に頭を下げたのがおかしくて、私たちは思わず顔を見合わせた。
「あはは……。もう、綾さん、何謝ってるの?」
「……それは栞もでしょ」
少しだけ、いつもの空気が戻った気がした。
綾さんは立ち上がり、冷蔵庫から冷えたミルクティーを取り出すと、私の分も合わせてグラスに注いでくれた。
カラン、と氷が鳴る。その小さな音が、しんと静まり返った部屋に響いた。
冷たい液体が満ちていくのを眺めながら、私は核心に触れるタイミングを計る。
「……本当なら、これは綾さんの個人的なことだから、私に聞く権利はないんだと思う。でも……」
謝ることはできた。次は、どうしても聞きたかった。
もちろんプライベートなことだから、関係がないと言われたらそれまでだ。
私はゆっくりとミルクティーを口に含み、喉を潤してから、綾さんを真っ直ぐに見つめた。
心臓の音がうるさい。本当に踏み込んでいいのか?
でも、そのために秋子さんはわざと私たちを二人きりにしてくれたはずだ。
「もし、私を信用してくれるなら、話してほしい。……卑怯な聞き方なのは分かってるけど」
このセリフは本当に卑怯だと思う。
相手の善意に付け入るような言い方だ。
信用していないのなら、今頃ここに綾さんはいないはずなのだから。
だけど、それでも。私はどうしても彼女の背中を押してあげたかった。
「……栞のことは、信用してる」
綾さんは視線を落とし、消え入るような声で答えてくれた。
言葉を一つひとつ確かめるような、精一杯の返事。それがたまらなく嬉しかった。
けれど、彼女の影を落とした横顔を見ればわかる。これは、想像以上に根の深い話なのだ。
「……話したら、栞も私に『出て行け』って言うかもしれない。もしそうなっても、私は従うつもり」
その弱気な言葉に、私は即座に反応していた。
ここまで聞いておいて手放すなんてあり得ないし、もし手を放すのなら、それは友達ではないよ。
「綾さんは綾さんじゃん。何があったかは知らないけど、私は気にしないよ」
「……栞が言った通り、サッカーが好きなら、イングランドのフィールドを見てみたいと思う。あそこは、母国だから……」
その言葉に、彼女の本当の望みが透けて見えた。私だって、チャンスがあれば、ブロードウェイやロスに憧れる。
焦がれるような気持ちは痛いほどわかる。
……もしかして、綾さんが負けず嫌いだから、それゆえの葛藤なのだろうか?
「なら、なんで? 唯さんに負けて自信がなくなったとか?」
私は、綾さんの瞳の奥を覗き込むように、しっかり目を見て問いかけた。
「長谷部さんは、女子サッカー界の世界最高峰の選手だよ。そこまで自惚れてはいないと思う」
フィールドの上では火花を散らしても、一歩外に出れば冷静に相手をリスペクトしている。
仕事の事は言ったから違うと思うし……。
「私も一週間くらい仕事でいないし、いいかなって思うんだけど」
なら、物理的な問題は何もない。
何が彼女の足を止めているのか、まだ見えない。
やはり過去……家族のことなんだろうか。
唯さんが来た時、綾さんのお父さんの話が出て空気が変わった。
私は、彼女は両親と死別して、それでも一人で自立して生きているのだと思っていた。
けれど、どうやらそんな単純な話ではないらしい。
「……向こうにいるのは、たぶん五日間くらいだと思う」
「行ってくればいいじゃない。……唯さんも、向こうへ一緒に行けると思って誘ってるんだし」
唯さんは、実力のない人間には声をかけない。
綾さんには、世界に通じる確かな力がある。…
「だから……できない」
絞り出すようなその一言に、私はついに堪忍袋の緒が切れた。
「あああああああああん、もう! 理由を教えて、行きたいんでしょ。お金も何も問題ないじゃない。理由がわからないんですけど。そこは『わかった、行く』って流れだと思うんだけど!」
「だから……」
言葉を濁す彼女に、私はさらにもう一歩、距離を詰める。
「たぶんね、私、それを聞いても驚かないと思うよ。流石に『実は綾さんがサイコパスで、何十人も殺してきました』……とかだったら別だけど」
極端な例えだけど、本気だった。
芸能界という荒波で生きてきた私には、人を見る目があるという自負がある。
この人は、決してそんな人間じゃない。
「……それなら、今ここにいないよ。もし本当なら、事情を知っている水無月さんが真っ先に通報しているはずだし」
「そりゃそうだよね。じゃあ何? 何が綾さんの鎖になってるの?」
「……もしかしたら、これでサヨナラかもしれないよ。それでも知りたい?」
不意に、綾さんが顔を上げた。少し潤んだ瞳で、すがるように上目遣いに私を捉える。
……卑怯だ。クールな彼女にそんな表情をされたら、私の鼓動は一気に跳ね上がり、顔がどんどん熱くなっていく。
「……栞、顔赤いよ。この話、ここまでにしない?」
ヤバい。このままだと綾さんの天然ハニートラップに絆されて、肝心の話が頭に入ってこなくなる。
私は衝動的に、ゴツンとテーブルに自分の頭をぶつけてみた。
鈍い痛みのおかげで、ようやく頭が冷える。綾さんの無自覚な破壊力は本当に心臓に悪い。
「はぁ!? 顔が赤いのはそういうのじゃないから! ほら、教えてよ」
私は乱れた呼吸を整え、あえて視線を逸らして間を置いた。
「……たぶん秋子さんは、それを聞いちゃったら、立場上止めなきゃいけないから、『本人から聞かなければいい』って思ってるんだと思う。全くもう、知ってるなら教えてくれてもいいのに」
秋子さんも、唯さんも、きっと全部知っている。
そして、それはマネージャという「公人」の立場にある秋子さんが、知ってしまったら無視できない種類のことなのだろう。
だからこそ、あえて口を閉ざして、私と二人で話し合いなさいと場を譲ったのだ。
その意図を、私はようやく理解した。
「……たぶんね。栞が思っている『斜め上』の内容だからだよ」
「うん、私は覚悟を決めた。私がどう判断するかは、綾さんが気にすることじゃない。それは私の気持ちだから、配慮は無用。いいね?」
…それなのに、この胸のざわつきは何だろう。
私自身、得体の知れない気持ちが拭えない。
覚悟を決めたはずなのに、心のどこかが警鐘を鳴らしている。
彼女を思うのなら押した方が良い気持ちと。
それをすると私がダメになる気持ちがわいてくる
だけどもう迷わない。
私はこの人が好きで、この人の力になりたいと思ったんだ。
そのためには、どんな重い過去でも受け止める。
私は残りのミルクティーを飲み干し、グラスを置いた。
そして、綾さんはぽつぽつと静かに語り出した。
彼女の人生を根底から変えてしまった、十二年前のあの出来事を。
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