27話S 納得はできない。それでも
リビングから漏れる秋子さんと唯さんの楽しげな笑い声が、今の私には少しだけ遠く感じられた。
テーブル越しに、二人の声が響く。
秋子さんの穏やかな笑い、唯さんの軽やかな返事。
幼馴染同士の懐かしいやり取りが、部屋全体を温かく満たす。
でも、その温かさが、私の胸に届く前に、少しだけ冷たく薄まる。
綾さんの背中が、廊下へ向かう。
銀色の髪が、部屋の灯りに照らされて微かに揺れる。
彼女は、いつもそう。
無関心を装って、自分の心に鍵をかけてしまう。
足音が遠ざかり、廊下のドアが静かに閉まる音が響く。
その音が、胸の奥でチリりと痛む。
テーブルに置いたカップの縁を、指先で軽く撫でる。
自室へ逃げるように戻った綾さんの背中が私の胸の奥がチリりと痛む。
彼女はきっと、今、自室で膝を抱えて考え込んでると思う。
瞳を伏せて、イングランドの話、唯さんの招待、すべてを頭の中でぐるぐる回してる。
私は知ってる。
綾さんは、いつも自分の気持ちを一番後回しにする。
行きたいと思ってるのに、行かない理由を探して、自分を納得させようとする。
それが、綾さんのやり方なんだ。
胸の奥が、チクチクと痛む。
彼女の銀髪が揺れる姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
きっと自分の部屋で悩んでいるとは思う。
私には、綾さんがどのような答えを出すのかなんとなくわかってしまう。
『行かない』
――そう言って、また自分の心に鍵をかけるんでしょ?
できることなら、もっと素直な気持ちを言葉にしてほしい。
ずっとは、さすがに私も嫌だけど、1週間お互い部屋を開けるだけならいいんじゃないかなって思う。
そもそも、私が綾さんにこの家での仕事を頼んだのは、家事をしてほしかったからじゃない。
彼女はいつも、自分自身のことを後回しにしてしまう。
だからこそ――ちゃんと大事にしてほしかった。
指先が、テーブルの端を軽く叩く。
心臓の音が、耳に響く。
「……お休み。秋子さん、唯さん」
私も話をそこそこで切り上げ、席を立った。
明日も仕事があるし、それに……たまにはお邪魔虫なしで、あの二人――幼馴染同士の、本当の意味での交流があってもいいんじゃないかなって思ったから。
秋子さんが「おやすみ。明日迎えに来るから」と優しく声をかけてくれる。
唯さんが軽く手を振る。
リビングの灯りが、背中に温かく当たる。
廊下を歩きながら、綾さんの部屋のドアを見つめる。
明かりが漏れている。
彼女はまだ、起きているみたいだった。
明日聴いてみようと思った。
翌朝、テーブルに並んだのは、香ばしい匂いのハムエッグトーストだった。
黄金色の黄身がとろりと溢れて、いつもなら私の食欲をそそるはずのその光景が、今はなぜか悲しく見えた。
トーストの表面がカリッと焼け、ベーコンの脂が軽く染み、卵の温かさが湯気を立てる。
でも、綾さんの視線は皿に落ちたまま。
フォークを握る手が、わずかに震えているのが見える。
部屋の空気が、重く淀んでいる。
「あのさ、綾さんはどうするの? 昨日の唯さんの話」
唐突な私の問いに、綾さんは視線を落としたまま答える。
「……行くつもりはないよ。私は、ハウスキーパーとしてここに来てるんだ」
嘘つき。
綾さんのフォークを持つ手が震えている。
視線は皿に落とされたまま。
黄身が冷めていくのを、ぼんやり見つめている。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
胸の奥が、焼けるように熱くなる。
息が詰まり、指先が震える。
「なんで? 行きたいんでしょ。顔に書いてあるよ」
「……行くつもりはないよ。私はハウスキーパーとしてここに来てるんだ。あなたが不在の間、この部屋を放り出すわけにはいかない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
甘えるような声が出たのは、私の精一杯の抵抗だった。
綾さんの真紅の瞳が、一瞬だけ揺れる。
銀髪が前髪として額に落ち、唇がわずかに震える。
彼女はいつもそう。自分の気持ちを押し殺して、鍵をかける。
でも、その鍵の隙間から漏れる震えが、私にははっきり見える。
「なんで? 行きたいんでしょ。顔に書いてあるよ」
私のために残るなんて言わないで。
私のせいで夢を諦めるなんて、そんなの、私が私を許せなくなる。
それに、私が仕事で部屋にいない間なら、綾さんは自由になれるじゃない。
それこそ「お休み」にだってできるはずでしょ。
――何で、そんなに遠慮をするの?
友達じゃないの?
意味わかんないんですけど。
胸の奥が、熱く、痛く、締め付けられる。
指先がテーブルを強く握り、爪が掌に食い込む。
「別に。……そんなんじゃない」
その震えた声に、私の我慢は限界を超えた。
ガタンッ!!
自分でも驚くほどの力でテーブルを叩く。
皿が小さく跳ね、黄身がさらに溢れる。
部屋の空気が、一瞬で凍りつくのがはっきりわかる。
「――ッ、いい加減にして!」
叫びと同時にドアが開き、秋子さんが入ってきたけれど、もう止まれない。
私の肩が激しく上下し、視線が燃えるように綾さんを捉える。
息が荒く、頬が赤く染まってくる。
胸の奥で、怒りと心配と愛しさがぐちゃぐちゃに混じり合う。
綾さんが、驚きでわずかに見開かれる。
部屋の灯りが、私たちの影を長く伸ばす。
秋子さんが近づく中、私の叫びが、まだ部屋に残響している。
「秋子さん、聞いてよ! 綾さんが、自分の気持ちに蓋をしてる!」
私は怒っていた。
でも、一体何に対して?
綾さん自身が、嘘をついてまで残ろうとしていること?
状況を並べて、行かない自分を正当化しようとしていること?
プロになりたいくせに、チャンスが目の前にあるのに、それを自分からぶった斬ろうとしていること?
ふざけないでよ。
私は、貴女の重荷になんてなりたくない。
私は、貴女の手助けをしたいだけなのに、どうしてわかってくれないの。
……わかってる。大きなお世話だってことは。
言いたいことは山ほどあるのに、喉の奥が詰まって、これ以上言葉が出てこなかった。
胸の奥が、熱く締め付けられる。
テーブルに置いたカップの縁が、指で冷たく感じる。
「……栞、なぜあなたが怒るのか意味がわからない」
静かに返す綾さんの横顔。
冷めて固まり始めたトーストの黄身が、彼女の心そのものに見えて、たまらなく悔しい。
彼女はいつもそう。自分の気持ちを押し殺して、鍵をかける。
でも、その鍵の隙間から漏れる震えが、私にははっきり見える。
胸の奥が、チリチリと痛む。
私では、彼女の氷の心を溶かせないの?
最近のやり取りで、少しずつ心を開いてくれてるって思ってたのは、私の勝手な思い込みだったの……?
喉の奥が熱くなり、息が詰まる。
結局、話は平行線のまま、私は仕事へ向かう時間になった。
玄関で渡されたのは、丁寧に包まれたサンドイッチ。
ささみと野菜を挟んだシンプルなもの。
包み紙が指先に触れ、温もりが伝わる。
「……お腹が空いたら食べて。ささみと野菜中心だから、体型管理も大丈夫だから。それと――心配してくれて、ありがとう」
綾さんの声が少しだけ優しくなって、私の心を見透かしたように揺らした。
ずるい。そんな風に私のことばっかり考えて、自分のことは後回しにするなんて。
胸の奥が、熱く疼く。
その笑顔が、胸に刺さる。
「……納得してないからね。でも、いただきます」
わざと顔を背けて受け取った。
車に乗り込み、 助手席のシートに座り、膝の上に置いた包み紙をじっと見下ろす。
包み紙の端が少し皺になり、指先で触れると、まだ温かい。
綾さんの指の感触が、紙越しに残っている気がする。
ささみと野菜のシンプルなサンドイッチ。
体型管理を気遣って、丁寧に作ってくれたもの。
彼女は私の「日常」を守ろうとしてくれている。
でも、私の本当の願いは、彼女が彼女自身の「夢」を抱きしめることなんだって、どうすれば伝わるんだろう。
胸の奥が、チクチクと痛む。
包みを握った手が、わずかに震える。
窓の外を流れる街並みが、ぼんやりと滲む。
私は、秋子さんが運転する車の中でかなり怒っていた。
シートベルトが肩に食い込み、胸の苛立ちをさらに煽る。
助手席の窓から見える景色が、通り過ぎるたび、悔しさが募る。
秋子さんの横顔が、運転に集中しながらも、時折私を気遣うようにチラチラと見える。
「栞、仕事場に行ったらその不細工な顔はやめてね」
秋子さんの声が、軽く響く。
ハンドルを握る手が、優しいくて力強い感じに見える。
「う~不細工ですみませんね」
私はわざと拗ねた声で返す。
でも、胸のうちは収まらない。
綾さんの震える手、伏せられた視線、冷めたトーストの黄身。
すべてが頭の中で回り、怒りがぐつぐつと沸き上がる。
「でも最後に決めるのは彼女よ。私たちができるのはきっかけを渡すだけ」
秋子さんの声が、穏やかで、でもどこか遠くを思うように響く。
車窓から差し込む朝の光が、彼女の横顔を優しく照らす。
「唯さんがこのマンションに来たのだって、秋子さんが仕組んだんでしょ」
私は秋子さんを睨むように見つめる。
声が少し上擦り、喉の奥が熱くなる。
「諸悪の根源みたいに言わないで。ただ、きっかけになればいいなと思っただけよ。まさか他の方からも同じ話があったのは、私にとっても予想外だったけれど」
秋子さんがハンドルを握りながら、どこか楽しそうに笑う。
でも、どうして?
秋子さんはどうして、そこまでして綾さんの面倒を見ようとするんだろう。
彼女が優しいのは知っている。
でも今回は、長いイングランドのシーズンを終えて帰国したばかりの唯さんまで引っ張り出してきている。
その手際の良さが、なんだか引っかかる。
それに会社としては実のところ損益しか出てなくて利益は全く無いのだから。
胸の奥で、何かがざわつく。
「ねえ、秋子さん。綾さんのことで、何か隠してない?」
となりで運転している秋子さんに、視線をぶつけてみる。
彼女の指先が、ハンドルを軽く叩く。
車内の空気が、一瞬だけ重くなる。
秋子さんの瞳が、フロントガラス越しに私を映し、優しく、でもどこか遠くを見るように細まる。
胸の奥で、期待と不安が混じり合う。
秋子さんの答えを、息を詰めて待つ。
「プライベートなことだから、おいそれとは言えないわよ。聞きたかったら本人に聞いてね」
秋子さんの言葉が、車内の空気に静かに落ちる。
彼女の声は穏やかで、でもどこか線を引くような響きがある。
助手席の私には、秋子さんの横顔しか見えない。
スーツの襟が朝の光に照らされ、疲れを隠した笑みが浮かんでいる。
こっそりスマホで、綿津見 13年前と検索してみたけれど、ヒットするのは日本の神様のことばかり。
画面に映る検索結果が、次々とスクロールしていく。
神社、祭り、神話。
どれも関係ない。
綿津見隆之という名前は、ネットの海に沈んだまま。
指先が画面を強く押し、スクロールが止まる。
胸の奥が、ざわついたままだった。
窓の外を流れる街並みが、ぼんやりと滲む。
車が信号で止まるたび、エンジンの低い振動が体に伝わる。
包み紙の温もりが、まだ膝の上に残っている。
けれど、車がスタジオの前に滑り込むと、私の中のスイッチがカチリと音を立てて切り替わる。
助手席のドアを開け、ハイヒールの音がアスファルトに響く。
朝の陽光が眩しく、スタジオのガラス扉が鏡のように反射する。
……今の私は、女優・霧生栞。
胸の中のモヤモヤを完璧な笑顔の下に隠して、私は車を降りた。
肩に掛けたバッグのストラップを軽く直し、背筋を伸ばす。
マネージャーの秋子さんが、運転席から軽く手を振る。
「頑張ってね、栞」
ハイヒールの音を響かせながら、私は光の溢れるスタジオへと足を踏み入れた。
ガラス扉が自動で開き、冷たい空調の風が頰を撫でる。
スタッフの「おはようございます、栞さん」の声が、笑顔とともに響く。
私は完璧な笑顔を浮かべて、応える。
肩に掛けたバッグのストラップを軽く直し、背筋を伸ばす。
スタジオの照明が眩しく、床に私の影を長く伸ばす。
ハイヒールの音が、廊下にカツカツと響き続ける。
今日も、私は「霧生栞」として、笑顔を貼り付ける。
胸のモヤモヤは、仕事の間だけ、押し込めておく。
途中で秋子さんは現場を離れたみたいだった。
多分綾さんの所に言ったんだと思う。
仕事が終わったら、綾さんとしっかり話し合おう。
このまま、うやむやにして逃げるのは良くない。
私の自己満足かもしれない。それでも、私は自分の想いをぶつけてみる。
もし、その上で綾さんが、残ると決めたのなら、それはもう仕方ない。
本当の気持ちを言ってほしいと願うのは、私のわがままだ。
だって、これは私の人生じゃない。綾さんの人生なんだから。
そう自分に言い聞かせて、無理やり納得させた。
そうして私は、仕事をしっかりとこなしていった。
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