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【二部開始】 Liebe   作者:
2章 誘いと過去のモノローグ

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27話A 行きたい理由と行かない理由

 みんなが談笑するリビングの賑やかさを背に、私は逃げるように自室へ戻った。

 ドアを閉めた瞬間、部屋の空気が急に静かになる。

 廊下から漏れ聞こえる三人の笑い声が、ドア越しに遠く小さく響くだけ。


 部屋の灯りは薄暗く、ベッドのシーツが少し乱れたまま。

 ユニフォームを脱ぎ捨てたままの床に、汗の匂いがまだ残っている。

 私はベッドの端に腰を下ろし、膝を抱える。

 銀髪が前髪として額に落ち、赤い瞳がぼんやりと床を見つめる。


 イングランド。サッカーの母国。

 プロになれるなんて大それた野望があるわけじゃない。

 けれど、本場の芝の匂いや、地を揺らすような熱狂を、この肌で感じてみたいという抑えきれない渇望が、胸の奥でくすぶっている


 息を吐くと、胸の奥が熱く疼く。

 グラウンドの土の感触、ボールの重み、世界の視線――すべてが頭の中で渦を巻く。

 イングランドで、唯の隣で練習する自分を想像すると、胸が締め付けられるように痛い。

 でも、同時に、胸の奥に小さな火が灯る。


「……でも、私にそんな資格、あるのかな」


 夏休みの宿題を広げても、文字が滑って頭に入らない。

 ノートの上に置いたペンが、指先で転がる。

 ふと、栞の顔が脳裏をよぎる。

 なぜ今、彼女を思い出すのか。

 私が行くと言えば、彼女は喜んでくれるだろうか?

 それとも――。


 自分でも驚くほど、私の判断基準の中に「栞」という存在が深く根を張っていた。

 胸の奥が、熱く、ざわつく。

 

 翌朝。朝食のテーブルには、賞味期限の間近な食パンを使ったハムエッグトーストを並べた。

 半熟の黄身がとろりと溢れ、香ばしいパンの匂いが部屋に広がる。

 トーストの表面が黄金色に焼け、ベーコンの脂が軽く染み、卵の黄身がゆっくりと流れ出す。

 コーヒーの苦い香りが混じり、朝の静けさを優しく満たす。

 私はテーブルに座り、フォークを手に取る。

 黄身を刺すと、とろりと溢れ、トーストに染みていく。

 一口噛むと、温かさが口いっぱいに広がる。


「あのさ、綾さんはどうするの? 昨日の唯さんの話」


 唐突な栞の問いに、私は視線を落としたまま答える。


「……行くつもりはないよ。私はハウスキーパーとしてここに来てるんだ。あなたが不在の間、この部屋を放り出すわけにはいかない」


 思う事はあるけど、言葉ははっきり伝えた。

 朝の光がテーブルに差し込み、トーストの黄身が冷めていくのをぼんやり見つめる。

 フォークを握った手が、わずかに震える。


「なんで? 行きたいんでしょ。顔に書いてあるよ」


 栞の声が、少し甘えを含んで響く。

 彼女の瞳が、私の顔をまっすぐ見つめてくる。

 髪が肩に落ち、細い指がテーブルの端を軽く叩く。


「別に。……そんなんじゃない」


 嘘だ。

 自分でもわかるほど声が震えた。

 胸の奥で、熱いものがぐちゃぐちゃに渦を巻く。

 サッカーをしているのならイングランドでプレーができるなんてあこがれるのは当たり前だ。

 

 栞がいないのが何だか嫌だと思う。

 この子の世話をするのは、もう私にとっての日常だった。

 彼女と交わす何気ない挨拶も、食事のあとの穏やかな時間も、私にとってはかけがえのない居場所になっていた。

 なんだかよくわからないけど、彼女の事を思うと心が温かくなってくる。

 

 それに問題もある。

 渡航費はどうする?

 長谷部さんに迷惑をかけないか。

 イングランドの生活は?

 急に言ってクラブに迷惑をかけるのではないか?

 そんな想像が、胸を締め付ける。


「――ッ、いい加減にして!」


 激しくテーブルが叩かれたのと同時に、部屋のドアが勢いよく開いた。

 音が部屋に響き、トーストの皿が小さく震える。


「朝食の時間なので勝手に入ってきましたが……どうかしたの?」


 現れたのは水無月さんだった。

 ビシっとしたスーツ姿で、部屋の中を見回していた。

 彼女の瞳が、私と栞を交互に捉え、すぐに心配の色を濃くする。


 栞は肩を上下させ、怒りに瞳を燃やしている。

 彼女の茶色の瞳が、普段の柔らかさとは裏腹に鋭く光り、黒髪が肩に乱れて落ちる。

 細い指がテーブルを叩いた余韻で、皿が小さく震える。

 息を荒げ、頬がわずかに赤らむ。


「秋子さん、聞いてよ! 綾さんが、自分の気持ちに蓋をしてる!」


 栞の声が、部屋に鋭く響く。

 言葉の端に苛立ちと心配が混じり、喉が詰まったような震えを帯びている。

 彼女の小さな背中が、怒りで少し前かがみになる。


「……栞、なぜあなたが怒るのか意味がわからない。私は行かないと言っただけだし。気持ちもふたをしてない」


 私は視線を落としたまま、静かに返す。

 フォークを握った手が、わずかに震える。

 テーブルの上のトーストの黄身が、冷めて固まり始めている。


 水無月さんは穏やかに私達をなだめて、私に「あとでお話ししましょう」と告げた。

 彼女の声は、いつも通り落ち着いていて、スーツの袖を軽く払う仕草が、大人の雰囲気で止めていた。


 仕事に出かける栞に、私は手早く作ったサンドイッチの包みを差し出す。

 ささみと野菜を挟んだシンプルなもの。

 包み紙が指先に触れ、温もりが伝わる。


「……お腹が空いたら食べて。ささみと野菜中心だから、体型管理も大丈夫だから。それと心配してくれて、ありがとう」


 声が、少しだけ落ちる。

 栞の瞳が、一瞬揺れるのがわかった。


「……納得してないからね。でも、いただきます」


 少しだけ頬を染めて、顔を背ける彼女の後ろ姿を見送った。

 私は、言いようのないこそばゆさを胸に感じていた。

 栞の小さな背中がドアの向こうに消える。

 部屋に残る彼女の香りと、包みの温かさが、胸の奥にじんわりと広がる。


 昼下がり。掃除と洗濯を終えた頃、水無月さんが一人で戻ってきた。

 スーツのジャケットを脱ぎ、ソファに腰を下ろす。

 コーヒーカップをテーブルに置き、静かに私を見る。


「綾ちゃん、少しお話ししましょうか」


 お互いに席につき、コーヒーの香りが漂う中で彼女は切り出した。

 カップから立ち上る湯気が、部屋の空気を柔らかく満たす。

 水無月さんの瞳が、穏やかで、でも真剣に私を捉える。


「栞、仕事に行ってもずっと怒ってましたよ。それだけ、あなたのことを真剣に考えているんでしょうね」


「そうですか」


 彼女の指先が、カップの縁を軽く撫でる。

 部屋の静けさが、二人の言葉を優しく包む。

 胸の奥で、熱いものがゆっくりと溶けていく。

 水無月さんの視線が、私の心をそっと見透かすようだった。


「綾ちゃんは、こういう場合でも冷静ですね」


「どういうことですか?」



「栞は、あれからも荒れてましたから、仕事になればスイッチはいるので安心してますけど」


 なぜ彼女はあそこまで怒るのか意味が解らない。 

 でも栞が悲しそうな顔をするのはなんか嫌な気持ちになる。

 いつも笑顔でいて欲しいとは思う。


「綿津見さんが、色々考えてるのはわかってます。こちらの都合の事、唯の事も気にかけてますよね」


「はい」


 私は素直にうなづいた。


「唯は、思いついたら即行動ですから。高校の時もそう。日本語しか話せないのに、誘われたから行ってくるねって。……それが今では、あんな風でしょう?」


 秋子さんの言葉を聞きながら、私は唯さんの横顔を思い出した。

 確か彼女は今、日本語以外に、英語、イタリア語、スペイン語、フランス語、オランダ語、ポルトガル語まで操るはずだ。


 サッカーでは、華麗なる魔術師という異名は、天性の才能だけで得たものじゃない。

言葉の壁すら力技で叩き壊してきた、圧倒的な努力の積み重ねをしているんだ。


 よく言葉の壁で挑戦失敗の話を聴くけど、唯さんはイタリアからイングランドだけど現在の主要リーグ全部の言語を話せるのはすごいと思う。


 それに引き換え、私はどうだ。

 行きたい理由よりも、行かない理由を探して逃げているだけじゃないのか。

 胸の奥で、熱いものが静かにくすぶる。

 いけない理由はたくさん出てくる。

 行く理由は?

 行きたい、見たいそれだけ。

 これはわがままではないのだろうか?

 私はまだ踏み込めないでいた。


「……今回も、何か思ってあなたを誘ったんだと思いますよ。あの子の心配はしなくていいですから」


 水無月さんは、私の目を見つめ、最後の一押しをするように微笑んだ。

 彼女の瞳が優しく微笑んでくれた。 

 

 部屋の灯りが、コーヒーカップの縁を淡く照らす。

 湯気がゆっくり立ち上り、香りが鼻をくすぐる。


「もう少し、大人を頼ってもいいんですよ。しがらみも仕事も全部抜きにして。綾ちゃん……あなたは、サッカーが好き?」


「……はい。それだけは、嘘偽りなく」


 それだけははっきり自信を持って言える。

 胸の奥で、何かがぱちりと音を立てるように、火が灯る。

 いつも一緒にあるサッカーボール。

 きっと、これが無かったら私は生きてなかったかもしれない。 


「なら、自分の心に素直になっていいんですよ」


 水無月さんが去ったあと、私はたまらず外へ出た。

 マンションのグラウンドの隅でボールを蹴る。

 リフティングの規則正しいリズムが、乱れた思考を整えていく。

 ボールが足裏に吸い付く感触、膝の反動、軸足の踏み込み。

 吸い付くようなトラップ。鋭い軸足の踏み込み。

 

 そうだ、一度ちゃんと栞と話そう。

 行くにしても残るにしても、自分の言葉を、本当の気持ちを、彼女にぶつけなきゃいけない。

 きっと話せば、彼女も私も納得できる。


 高く蹴り上げたボールが、青空に吸い込まれていくのを私はじっと見つめていた。

 ボールの軌道が、青空に溶け込むように消える。

 風が銀髪を軽く揺らし、胸の奥の熱いものが、静かに、でも確実に形を成していく。


 私はボールを地面に落とし、ゆっくりと息を吐いた。

 決めた。

 栞に、ちゃんと伝えよう。

「Liebe」をお楽しみいただけましたか?


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