26話 過去のお父さん
「秋ちゃん、なんか二人の顔が怖いんだけど」
長谷部さんの声が、部屋に静かに響く。
彼女の瞳が、私と栞を交互に見て、少しだけ柔らかくなる。
ポニーテールが肩に落ち、細い指が服の裾を軽く払っていた。
秋ちゃん?
私は水無月さんの顔を、多分ちょっと驚いた顔で見てると思う。
秋子さんを秋ちゃんと呼ぶさんの声が、耳に新鮮に響く。
いつも丁寧で距離のある呼び方なのに、今日は親しげで、幼い頃からの絆を感じさせる。
「散々いじめたらしいからでしょ。サッカーの事になると容赦ないですね。唯は」
水無月さんが、少し拗ねたように言う。
彼女の声は穏やかだけど、どこか苛立ちと親しみが混じり、唯さんを軽く睨むような視線を向ける。
スーツの袖を軽く払う仕草が、疲れを隠しながらも、幼馴染への遠慮ない態度を表している。
「あの秋子さん。唯さんとはどういう関係なの?」
栞が、私が聞きたいことをはっきり言ってくれた。
私は息を潜め、水無月さんの答えを待つ。
「ん~、秋ちゃんとは幼馴染だよ。高校まで一緒だったよね」
長谷部さんが軽く肩をすくめ、ポニーテールを指で払う。
汗の跡が残る服の袖が、部屋の灯りに照らされて光る。
彼女の声は軽やかで、昔の思い出を懐かしむように柔らかい。
「なら旧交を深めに来たのなら、そろそろ戻ろうと思うのだけど」
私は静かに言う。
胸の奥で、拒絶の気持ちが小さく燃える。
「ノッポの綿津見さん。逃げないで」
唯さんが私を見て、唇の端を上げる。
鋭い瞳が、私の髪と瞳を捉える。
グラウンドでの記憶が、頭の隅で疼いてくる。
「別に逃げてません」
私は静かに返す。
胸の奥で、悔しさが小さく燃える。
「ならね、ここに居よ」
長谷部さんの声が、部屋に静かに落ちる。
彼女の瞳が、私をまっすぐ捉え、唇の端がわずかに上がる。
ポニーテールが肩に落ち、細い指がジャケットの裾を軽く払う。
「何、唯さん?綾さんに用事なの?」
栞が疑問があるみたいで聴いてるみたいだった。
彼女の瞳が、長谷部さんを鋭く見つめていた。
黒髪が肩に落ち、声に警戒と苛立ちが混じる。
「一応ね。秋ちゃんに紹介されちゃったしね。まさか俊にも紹介されると思わなかったからびっくりだけど」
長谷部さんが肩をすくめ、軽くため息をつく。
彼女の声は軽やかで、昔の思い出を懐かしむように柔らかい。
「俊?唯、彼氏できたの?」
秋子さんの声が少し高くなる。瞳が長谷部さんを鋭く見つめる。
「違う違う。覚えてないかな。私の家の近所の上野さん」
「あの唯がサッカー教えてた男の子?」
「そうそう、うちの学校の女子にすげえのがいるから唯姉。少しだけ見てやってって」
長谷部さんの声は軽やかで、昔の思い出を語るように柔らかい。
「あの、私に何か用ですか?」
私は静かに尋ねる。
「私かなり嫌われてる?」
長谷部さんが小さく笑う。「
普段通りですけど」
私は淡々と返す。
胸の奥が、少し疼く。
「綿津見 隆之って知らない?」
その名前に、私は思わずドキッとした。
なぜならそれはわたしのお父さんの名前だったから。
胸の奥が激しく鳴り、息が止まりそうになった。
「ビンゴ!」
長谷部さんが、嬉しそうに手を銃の形にして私を打ってきた。
指先が私に向けられ、軽い音を立てるように「パン」と鳴る仕草。
彼女の瞳が輝き、唇の端が上がる。
部屋の灯りが、彼女のポニーテールを淡く照らす。
「わたしのお父さんを知ってるんですか?まさかお父さんの不倫相手?」
私は思わず口走る。
胸の奥がざわつき、過去の記憶が一瞬よぎる。
「違う違う。15年前だよ。私その時は、13歳だって。中学生だよ。無いって」
長谷部さんが慌てて手を振る。
ポニーテールが軽く揺れ、笑みが少し引きつる。
彼女の声は軽やかで、でもどこか照れくさそうに響く。
不倫に年齢って関係あるのか?
性欲なんて、生物の三大欲求だから年齢関係ないのでは?
13歳なら初潮も始まってるし。
頭の中で、そんな場違いな考えが巡る。
私がまだ、おぼつかない足取りで家の中を歩き回っていた頃だと思う。
父はサッカー場でで、泥にまみれたシューズに命を吹き込み、彼女のような選手の背中を押していたのだと思う。
「道具を大事にしない子が、整備中の靴を勝手に持っていっちゃったことがあったの。危ないからダメだよって、何度言っても聞かなくてさ。その時、綿津見さんは作業台の手を止めて、困ったように笑いながら私を呼んだんだよ」
『唯ちゃん』
長谷部さんが、慈しむようにその名をなぞる。
『あの子は、あと三回動いたら捻挫すると思う。……道具を雑に扱うあの子は無駄な力が入るから、スパイクの刃が食い込みすぎて外れやすいんだ。そうなったら多分、代わりの出番で呼ばれるのは、唯ちゃんだから』
身振り手振りを交えて、当時のピッチ脇の空気を再現している。
『……僕が推薦しておいたよ。道具を大事にして、誰より心からサッカーを楽しそうにしているからね。唯ちゃん、僕から一つアドバイスだ』
長谷部さんの視線が、当時のやり取りを思い出すように、ふと虚空に固定される。
私の知らない、若かりし頃の父が、彼女の記憶の中で再び口を開いたようだった。
「唯ちゃんは、目がいい。でも、目に見えるものだけに頼りすぎてはいけないよ。周囲の動きを、もっと大きな流れで捉えるんだ。難しいけれど、君ならきっと出来るようになる」
彼女の瞳には、ピッチの全景を捉えたあの瞬間の光景が、今も鮮やかに映っているようだった。
「最初は、変な人だと思った。でも本当にチャンスが来て試してみたら……本当に、俯瞰で物事が見えるようになっちゃって、あの時はびっくりしちゃったなぁ」
そんなことが、あったんだ。
私の知らないところで、お父さんは誰かの人生を変えていた。
「それから数回かな。そのたびに、色んなことを教わったよ」
長谷部さんは、私の胸の内を見透かすような、悪戯っぽい笑みを浮かべて覗き込んできた。
目が合った瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられる。
自分でも理由のわからない独占欲や、置いてけぼりにされたような寂しさが込み上げて、私はたまらず視線を逸らした。
「……お話は、それだけですか?」
わざと冷たく言い放つ。自分の声に、隠しきれない棘が混じっているのが分かった。
長谷部さんは気を悪くするどころか、「ふふっ」と軽やかに笑う。
「秋ちゃん。この子、なかなか難しいね」
水無月さんへ向けられたその言葉に、自分が品定めされているような居心地の悪さを感じる。
「唯、ちゃんと招待したって言ってたよね?」
水無月さんの呆れたような声に、長谷部さんは事もなげに頷いた。
「うん、したよ。一度、実力を測るつもりで完膚なきまでに叩きのめしてからね。『気になるなら、今日この学校においで』って」
水無月さんが大袈裟に頭を抱える。
その光景を眺めながら、私は惨めさと悔しさで指先を硬く握りしめた。
「……それで、今日も実力差をはっきり見せつけて、泣かしちゃったわけね」
水無月さんの指摘に、長谷部さんは「てへっ」と舌を出して笑う。
世界を相手に戦う「魔術師」の、底知れない余裕。
怒る隙さえ与えてもらえない感覚が、嫌になってくる。
「まぁ、いいんじゃない? このまま負け犬みたいに、みんなに守られながら尻尾を巻いて逃げ出すのも、一つの選択だよ」
「……別に、逃げるわけじゃないです」
静かな挑発が、私の胸の奥に火をつけた。
言葉に力がこもる。父の教えを授かったこの人から負け犬なんて言われるのは、なんかとても嫌だった。
「もう、唯さんは一体何をしに来たんですか。喧嘩を売りに来たわけじゃないんでしょ」
見かねた栞が、膠着した空気を切り裂くように本題を切り出した。
「あはは、そうだね。……あんたさ、一週間イングランドに来ない? 費用は私持ち。住む場所もタダ。どうかな?」
何を、言っているんだろう。
一瞬、思考が真っ白に染まった。パスポートこそ持っているけれど、イングランド? 日本の裏側にある、あのサッカーの聖地へ?
私が固まっている間に、栞と水無月さんまでもが「えっ」と声を漏らし、目を丸くして驚いていた。
「だって秋ちゃん、言ってたでしょ。栞ちゃんが一週間ちょっと仕事でいないって」
「……言ってたけど。あのね唯、近所の遊園地に行こうってノリで行ける距離じゃないんだよ」
水無月さんのツッコミを聞きながら、私は栞のスケジュールを思い出した。確か『無人島で一週間生活』という過酷なバラエティ企画があったはずだ。
「さすがに、こんな広いところで一人きりって寂しいじゃん。それに――私に、挑戦したいでしょ?」
心臓が跳ねた。挑戦。その言葉が、今の私にどれほどの重さで響くか、彼女は分かって言っているのだろうか。
「……あの、私。あなたに『サッカーをやめろ』とはっきり言われたはずですが」
私の脳裏には、あの時の冷徹な声がこびりついている。
『サッカー舐めてる?』
芝生を掴む指の感触、喉の渇き。銀髪越しに射抜かれた、あの氷のような視線。
『サッカーは曲芸じゃないんだよ』
私の積み上げてきたものを「独りよがり」だと切り捨てた、あの言葉を忘れるはずがない。
「ええっ、言ってないってば」
「言いました。『独りよがりなら、やめた方がいい』って」
「そんなひどい言い方したかなぁ? 実力はあるんだから、独りよがりなプレーで潰れるくらいなら、一度休んで頭を冷やした方がいいってアドバイスしたつもりなんだけど」
長谷部さんは首を傾げ、記憶を書き換えるようにあっけらかんと言ってのける。
ふざけないで。
あの時、あんなに息ができないほど追い詰められたのは、一体何だったのか。
目の前のこの人は、私の人生を否定したかと思えば、今度はイングランドへ来いと無邪気に手を差し伸べてくる。
「もういいです。このままじゃ、言った言わないの堂々巡りになりますから」
「……」
「お返事、明日でもいいですか?」
これ以上、彼女のペースに巻き込まれたら、自分がどうにかなってしまいそうだった。
無理やり呼吸を整え、私は席を立つ。
「今日は……特訓してくださって、ありがとうございました」
嫌味を込めたつもりだったのに、声は情けないほど震えていた。
一礼して背を向けた私を、栞や水無月さんが、何か言いたげな沈黙で見送っているのがわかる。
部屋へ戻る廊下。窓から吹き込む風が、まだ熱を持ったままの頬を撫でる。
お父さんの話で心を揺さぶられた直後に、イングランドへの誘い。
あの冷たい言葉を吐いた張本人が、何を考えて私に構うのか。
心臓の音がうるさすぎて、自分が地面を踏みしめている感覚さえ、現実味がなかった。
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