25話S 七月の夜風と、解けない抱擁
ぱふ
迷いなんてなかった。震えるその背中に、後ろから勢いよく抱きつく。
腕の中に収まった綾さんの体は、驚くほど細くて、小さかった。
ユニフォーム越しに伝わる小刻みな震えが、ダイレクトに私の胸に響く。
「……やっと、見つけた」
安堵のせいか、自分の声が少し震えた。
腰に回した私の手に、綾さんの涙が熱くこぼれ落ちる。
その熱が、まるで私の心臓を直接触っているみたいで、もっと強く、もっと深く、この人を守りたくなった。
「なんで……どうしてここに……っ」
掠れた声で、綾さんが問いかけてくる。
なんで、なんて。
私が、綾さんを一人で泣かせておけるわけないじゃん。
「なんでって言わないでよ」
少しだけ、拗ねたような声が出た。
私の胸に、綾さんの背中がぴたりと密着して、心臓の鼓動が伝わってくる。
怖かったし、苦しかったってそんな彼女の悲鳴が、肌を通して私の中に流れ込んでくるみたいだ。
でも、今はその全部を私が受け止める。
「……栞、ありがとう」
不意に零れた、しずかな声。
いつもは、感情の抑揚もない綾さんが見せた、剥き出しの素顔かもしれない。
その響きがあまりに愛おしくて、私は宥めるように彼女の腰を優しく撫でた。
「……うん。家にもいないし、すごく心配したんだからね」
本当は、マンションに戻ってくれてたら楽だったのに、叫びたいくらいだった。
けれど今は、この静かな夜の温もりを壊さないように、ただ後ろから寄り添うことしかできなかった。
「……理由は、聞かないの?」
震えながら紡がれた、その問い。
理由なんて、あってもなくても、私がここにいる理由は変わらないのに。
「綾さんは、聞いてほしいの?」
私は耳元で、囁くように問い返した。
彼女の心が少しでも軽くなるなら、夜が明けるまでだって、こうして彼女を包んでいようと思った。
「……質問を質問で返すのは、性格悪いよ」
耳元で、綾さんの震える声がした。
無理に笑おうとして、結局涙に負けてしまったような、不器用で愛おしい響き。
私は何も言わず、回した腕に少しだけ力を込めた。
細い腰から伝わる震えを、私の体温で全部塗りつぶしてしまいたかった。
ユニフォーム越しの熱が胸に染み込んで、切なくなる。
夜風が私たちの髪を悪戯に絡ませて、街灯のオレンジ色が芝生の上に一つの長い影を作っている。
「サッカーが、綾さんにとってどれだけ本気か知ってるから。本気で悔しくて、本気で戦ってるからこそ、涙が出るんだよ。それは、ちっともおかしいことじゃない」
本心だった。泣けば済むと思っている人たちの涙とは、温度が違う。
泥にまみれて、プライドを削り取られて、それでもボールを追いかけ続ける彼女の「本気」を、私は知ってる。
「……たまに思うけど。栞って、時々すごく大人びて、いい事を言うよね」
少し落ち着いたのか、綾さんがポツリとこぼす。
「そりゃあ。物心つく前から、芸能界っていう化け物だらけの世界で生きてますから」
おどけて見せながら、私は彼女の背中から顔を離し、横からその横顔を覗き込んだ。
涙で濡れた頬が街灯を反射して、痛いくらいに綺麗だ。
綾さんは私を見て、何を思っているんだろう。
時々、こうして優しくされるのが「怖い」なんて顔をするけれど。
見返りなんていらない。ただ、私が私でいられる唯一の場所が、綾さんの隣なだけなのに。
寂しさを隠すように笑みを深めて、私は彼女の腰を優しく撫でた。
「まだ7月だけど。夜風に当たって風邪引く前に、マンションに戻ろ?」
私は努めて優しく、でも少しだけ強引に、綾さんの細い腕を引き上げた。
「……うん」
小さく頷いた彼女の手が、震えながら私の指を求めてくる。
絡み合う指先から、彼女の抱えていた絶望の冷たさが伝わってきて、胸が締め付けられた。
私の体温が、少しでも彼女の救いになればいい。
祈るような気持ちで、その手を握りしめる。
芝生を抜け、アスファルトの夜道をゆっくりと歩き出す。
街灯の下、二人の影が重なりながら長く伸びていく。
放課後の帰り道みたいに、このままどこまでも歩いていけたらいいのに。
「ねえ、いつ唯さんと知り合ったの? 今日じゃないよね」
静かな夜の空気に、自分の声が溶けていく。
気になっていたことを、何気なさを装って聞いてみた。
「うん。栞にマンションの中に運動ができる広場を教えてもらった翌日かな。その人が長谷部唯だって知ったのは、今日だけど」
綾さんの答えに、私は少しだけ自分の指に力を込めた。
「唯さんと呼んだのが意外だったのか、彼女は少しだけ不機嫌そうに、私を試すような視線を向けてくる。
「友達なの?」
ぽつりとこぼれたその一言が、なんだか独占欲が滲んでいるみたいで、可笑しくて愛おしい。
普段の綾さんではありえない反応ですごく嬉しい。
「んー、どうかな。共演した時に『名前で呼んで』って言われたから、つい。プライベートで遊んだことはないよ」
本当のこと。仕事上の付き合いと、こうして手を繋いで歩く特別な時間は、比べるまでもない。
私は小さく首を傾げて、彼女にだけ見せる笑顔を浮かべた。
マンションの明かりが見えてくるまで、私はあえてサッカーの話は避けた。
最近のこと、明日の予定、コンビニのアイスのこと……。
私のくだらない話を聞きながら、綾さんの表情が少しずつ解けていくのがわかる。
言葉の一つ一つが彼女の棘を抜いていく感触に、私の方が救われるような気がした。
けれど、安らぎは玄関のドアを開けた瞬間に吹き飛んだ。
「ちょっと! 二人とも!!」
リビングの灯りの下、仁王立ちで待ち構えていたのは、般若のような形相の秋子さんだった。
いつもはあんなに穏やかなマネージャーが、今は心配と怒りで顔を引きつらせている。
繋いでいた手に、思わずぎゅっと力が入る。
……あちゃ、これは本気で落とされるやつだ。
覚悟を決めて、私は一歩、綾さんの前に出た。
「栞! 見つけたならすぐに連絡しなさいって言ったでしょう!」
玄関を潜るなり、秋子さんの怒声がリビングに突き刺さった。
私は思わず肩をすくめて、繋いでいた綾さんの手を無意識にぎゅっと握りしめる。
「あ、……忘れてた。でも今から帰るってメールはしたでしょ」
精一杯の言い訳をしてみたけれど、秋子さんの怒りは収まらない。
「綾さんが……綾さんが帰ってないとか言ってた人が。全く行方不明とか言われたら心配するでしょ」
秋子さんの目尻に寄った細かな皺。それは、心からの心配が刻んだものだ。
「秋子さん、それは言わない約束でしょー」
これ以上綾さんを責めないでほしくて、私は少し子供っぽく拗ねたふりをして、秋子さんの袖をくいっと引っ張った。
私の横で、綾さんの小さな背中が揺れているのがわかる。
「綾さんもです! 女子高生が夜に一人で外にいたら、どんな事件に巻き込まれるか……」
震える秋子さんの声。それはマネージャーとしての責任感以上に、一人の大人として、彼女を大切に想っている証拠だった。
綾さんが静かに「ごめんなさい」と謝る。
その直後、彼女が何かに打たれたように秋子さんの顔をまじまじと見つめた。
「どうしたんですか、綾さん」
秋子さんが不思議そうに首をかしげる。
……あ、そうか。
いつもは「綿津見さん」って呼んでる秋子さんが、今日は取り乱した勢いで、自然に「綾さん」って呼んでいたんだ。
「あ……いえ、『綾さん』って呼ばれたのが、びっくりして」
戸惑う綾さんの様子に、秋子さんは少しだけ不安そうに「嫌でしたか?」と声を低くした。
相手の反応を真っ直ぐに探るその眼差しは、本当に優しい。
「……いえ。嫌じゃないです」
綾さんが小さく首を振る。
その瞬間、部屋を支配していた刺々しい空気が、ふっと解けたのがわかった。
名前で呼ばれる。
ただそれだけのことが、今の彼女にとっては、凍えた心を溶かす一番の特効薬だったのかもしれない。
「それなら良かったです。あと、心配するのは当たり前ですよ。無事でよかった」
秋子さんのその言葉に、私はようやく繋いでいた手の力を緩めた。
良かった。綾さんはもう、一人じゃない。
私の隣には、彼女を名前で呼んで、本気で心配してくれる人が、ちゃんといる。
秋子さんが、優しく綾さんの肩を撫でた。その手のひらの温もりに、綾さんの鼻の奥がツンと赤くなる。
あ、ダメ。そんな顔、反則。
秋子さんの優しさに絆されている彼女を見ていたら、なんだか猛烈に「私の綾さん」だって主張したくなった。
「ちょっと、秋子さんばっかりずるいですよ」
私は我慢できずに、横から綾さんの腰にぎゅっと抱きついた。
これ見よがしな独占欲アピール。
私の小さな体が彼女にぴたりと寄り添うと、サラサラの銀髪が私の頬をくすぐる。
細い腕でその腰をしっかり回して、私の体温を全部あげるみたいに密着した。
驚いて固まる彼女を、わざと上目遣いでじっと見つめてみる。
「な、なに? これ……っ」
上擦った声を出して、綾さんの頬が林檎みたいに真っ赤に染まる。
その動揺が手に取るように伝わってきて、私は内心ガッツポーズを決めた。
「ふふ。みんな、綾さんのことが大好きなんですよ」
秋子さんが、目尻に優しい皺を寄せて笑う。
本当、その通り。この不器用で真っ直ぐな人を、放っておけるわけがない。
「そうそう。もっと愛されてる自覚を持ってよね」
私は抱きついたまま、追い打ちをかけるように言った。
綾さんは「よくそんな歯の浮くようなセリフを……」なんて呆れた顔をしてるけど、本心なんだからしょうがない。
「……こういう時、なんて言っていいかわからない」
ぽつりと零れた彼女の本音に、私と秋子さんは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
居心地が悪くなったのか、綾さんが「ご飯作らないと」なんて言って慌てて立ち上がろうとする。
「今日は私が作りました。シャワーでも浴びて着替えてください。その間に準備が終わりますから」
秋子さんが優しく制して、彼女の背中をバスルームの方へ促す。
私は離れるのが名残惜しくて、最後にもう一度、彼女の背中に声をかけた。
「綾さん、早くシャワー浴びてね。私、待ってるから!」
素直に頷いて歩き出す彼女の背中を見送りながら、私はふう、と小さく息を吐いた。
さっきまでの絶望的な空気は、もうどこにもない。
あとは温かいご飯を食べて、彼女が前を向くのを待つだけだ。
シャワーを浴びて戻ってきた綾さんは、湯気に包まれて少しだけ小さく見えた。
濡れた銀髪から滴る水滴が、彼女の白い肩に細い筋を作っている。
「どうぞ、座って」
秋子さんが引いた椅子に、綾さんがおずおずと腰を下ろす。
私はすかさずその隣に陣取って、彼女の腕に自分の体を預けた。
テーブルに並ぶのは、秋子さんお手製の豚キムチにわかめスープ。
暴力的なまでに食欲をそそる香りが、リビングいっぱいに広がっている。
「……おいしい」
一口食べた綾さんの声が、微かに震えた。
箸を動かすたびに、彼女の瞳に少しずつ生気が戻っていく。
その様子を横で見ているだけで、私の胸の奥もじわじわと熱くなった。
「前も言ったけど。秋子さん、料理上手だからね」
私は自分のことみたいに胸を張って自慢した。
そうなの、私の自慢のマネージャーなの。
でもね、それを今、一番食べさせてあげたかったのは綾さんなんだよ。
私は彼女の袖を指先でぎゅっと摘まんだ。
「最近は忙しくて、主食がビスケット一枚なんて日もありましたからね……」
秋子さんの苦笑混じりの言葉に、綾さんが箸を止めて、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「芸能界が時間に無頓着なのは聞いたことあります。きちんと作るので安心してください」
静かだけど、決意のこもった声。
私と秋子さんの生活に、綾さんが自分の居場所を見つけようとしてくれている。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「綾さんが来てくれて、本当に助かってますよ」
秋子さんの優しい言葉に、綾さんの頬がほんのり赤らむ。
名前を呼ばれて、必要とされて。
戸惑いながらもそれを受け入れようとする彼女の横顔は、街灯の下で泣いていた時よりずっと綺麗だった。
今だ。
この温もりを、絶対に逃したくない。
私は腕への力を少しだけ強めて、上目遣いに彼女を覗き込んだ。
「……っていうことは。ずっとここに、いてくれるの?」
彼女の瞳が私をまっすぐ捉え、細い指が私の袖を強く握る。
あ、ちょっとやりすぎちゃったかな。
「栞、そういう意味で言ったわけじゃないでしょ」
綾さんが苦笑いしながら、私の頭をポンと軽く叩いた。
その手のひらの重みと温かさが心地よくて、私はもっと彼女に甘えたくなる。
部屋の灯りが私たちの影を優しく重ねて、世界から切り離されたみたいな、くすぐったいほど幸せな時間が流れていた。
対価なんていらない。ただ、こうして一緒にご飯を食べて、笑い合えるだけでいいのに。
そんな平穏を切り裂くように、鋭いチャイムの音が響いた。
こんな時間に、誰?
ここはコンシェルジュが厳重に管理しているマンション。
部外者がいきなり部屋まで来られるはずがない。
一瞬で空気が張り詰め、私の胸の奥が小さくざわついた。
「私が出ます」
秋子さんが立ち上がり、インターホンに向かう。
その背中がわずかに強張っているのを見て、私も無意識に背筋を伸ばした。
「……はい。どうぞ、お入りください」
秋子さんの応対に、私は首を傾げる。
私に来客の予定なんてないし、秋子さんの知り合いがこんな時間に押しかけてくるなんて、もっと考えられない。
「私、部屋に戻ったほうがいいかな」
綾さんが不安そうに呟いて、立ち上がろうとした。
それを引き留める間もなく、リビングのドアが勢いよく開け放たれた。
「こんばんは。栞ちゃんに……綿津見さん、だっけ」
夜の静寂を置き去りにしたような、屈託のない声。
ポニーテールを揺らしながら入ってきたのは、数時間前、グラウンドで圧倒的な「個」を見せつけたあの人だった。
なでしこジャパンのキャプテン。
イングランド、ムーンシティWFC所属。
世界が恐れる「華麗なる魔術師」――長谷部唯。
秋子さんがインターホンで確認し、自ら招き入れたはずなのに。
彼女がリビングに足を踏み入れた瞬間、そこはもう私たちのプライベートな食卓ではなく、彼女の独壇場になったみたいだ。
そのあまりに堂々とした立ち振る舞いに、私は繋いでいた綾さんの手に、無意識に力を込めた。
どうして、唯さんがここに?ゆったりした夜はまだ訪れようとはしなかった。
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