表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【二部開始】 Liebe   作者:
2章 誘いと過去のモノローグ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/49

25話A 暖かい人たち

 今回の話は、性的被害・児童虐待に関する描写が含まれています。

 性的暴力やトラウマの表現が苦手な方、または現在そういった経験で傷ついている方は、読み進める前にご注意ください。

ご自身の心の状態を優先して、無理のない範囲でお読みください。


 

 気づけば、世界は夜の色に染まっていた。

 公園の街灯がひとつだけ。

 橙色の光を弱く落とし、芝生を淡く照らしている。

 空は深い紺に変わり、遠くの街の灯りがぼんやり瞬いていた。

 夜風が冷たく頰を撫で、銀髪を軽く乱す。


 膝を抱えたままの私の体は、震えが止まらない。

 ユニフォームが汗と夜露で重く張り付き、肌に冷たい感触を残す。

 瞳から溢れる涙が、まつ毛を濡らし、頬を伝って顎からぽたりと落ちる。


 いつ以来だろう。こんな風に、人目もはばからず泣いたのは。

 誰もいない公園で、声を殺さず、肩を震わせて泣くなんて。

 胸の奥が空っぽだと思っていた自分の中に、まだ流せる水分が残っていたなんて、びっくりしてる。

 涙が止まらない。


 喉が焼けるように痛く、息を吸うたびに嗚咽が漏れる。

 手の平で顔を覆っても、指の間から涙が溢れ、地面に染みを作る。

 泣いて状況が良くなったことなんて、この13年間、ただの一度もなかった。

 

 最後に泣いたのは4歳の時。親戚の家に荷物や、世間体が悪いからという感じで、預けられた日だったと思う。

 小さな手でドアの取っ手を握りしめ、知らない匂いのする家に連れ込まれた。

 薄暗い廊下、冷たい畳の感触、遠くから聞こえる大人の声。


 それからは、ただ生かされてるだけの毎日だった。

 家事全般の手伝いは当たり前。

 朝から晩まで、床を拭き、洗濯をし、食事の支度をする。

 誰も感謝の言葉をかけてくれない。

 ただ「やって当然」の空気が、家全体を覆っていた。


 食事は全員が終わった残り物。

 冷めたご飯、固くなったおかず、味の抜けた汁。

 皿に残ったものを黙って口に運ぶ。

 味なんて感じない。ただ、食欲を満たすだけ。


 寝る場所は寝袋だった。

 冷たいフローリングの上に敷いた寝袋の中で、体を丸めて眠る。

 夜中、寒さで目が覚めても、誰も気づかない。

 誰も、暖めてくれない。


 ストレス発散のサンドバッグにされたこともある。

 言葉の暴力をずっと聞かされたこともある。


 大人の声が、子供の声が、家族の声が、重なり合って耳の奥に染み込んでいく。

 薄暗いリビングで、食事の残りを片付けながら聞く。

 廊下で掃除をしているときに背後から投げかけられる。

 

 夜、寝袋の中で目を閉じても、頭の中でエコーする。

 言葉は刃のように鋭く、胸に突き刺さり、抜けない。

 そうやって親戚中をたらいまわしされた。

 一軒、また一軒と、家を変えられるたび、同じ言葉が形を変えて追いかけてくる。

 新しい顔、新しい匂い、新しい冷たい視線。

 でも、言葉はいつも同じだった。


 最後は、いとこに組み伏せられ、抵抗もできずに陵辱された夜もある。

 暗い部屋で、体を押さえつけられ、息が詰まる恐怖。

 重い体重がのしかかり、腕を掴まれ、口を塞がれ、逃げ場がない。

 痛みが下腹部から全身に広がり、熱いものが込み上げる。

 恥ずかしさが胸を締め付け、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。

 声を出せば、もっと酷いことになる。

 だから、黙って耐えた。


 体が震え、指先が冷たくなるまで、ただ耐えた。

 終わったあと、床に残る湿った感触と、部屋に残る息苦しい空気。

 けれど、それも代償だと思えば割り切れた。

 私にはそれぐらいしか価値が無いのだからと言い聞かせた。


 体を差し出すことで、屋根を得る。

 痛みを飲み込むことで、居場所を維持する。

 それが、私の存在意義だった。

 涙を流す価値すら、自分にはないと思っていた。


 今も、芝生の上で膝を抱え、震える体を抱きしめながら、

 あの頃と同じように、自分に言い聞かせる。

 価値がないから、泣いても意味がない。

 それなのに、涙は止まらない。


 今回だって別にただのサッカーだ。

 なのにどうしてこんなに、胸の奥が熱くて、痛くて、ぐちゃぐちゃなんだろう。

 もちろんサッカーは、私に大事だけど、ここまで悔しくならなくてもいいではないか。


 唯の言葉が頭の中で繰り返され、胸を締め付ける。


「サッカーを舐めてる?」

「独りよがりなら、やめた方がいいよ」

「サッカーは曲芸じゃない」


 一つ一つが棘のように刺さり、抜けない。

 体が震え、息が浅くなる。

 涙がまた溢れ、頬を伝ってくる。


 夜風が冷たく銀髪を乱し、芝生の冷たい湿りがユニフォーム越しに肌を刺す。

 ふと、栞の顔が浮かんだ。

 今日練習を見に来ていたのは見えてたから知ってる。


 茶色の瞳が、グラウンドの端から私を追っていたと思う。

 細い指がスカートの裾を握りしめていた姿が見えてた。

 あの子、今頃心配してるかな。


 胸の奥が熱い。

 彼女の小さな背中が、マンションで笑う顔が、頭に焼き付いて離れない。

 彼女が私の生活に強引に割り込んできてから、どうにも計算が狂う。

 静かだったはずの日常が、騒がしく、温かく、ざわつくようになった。


 数か月前まで考えたことないのに。

 まさか朝の挨拶を交わす状況になるなんて思わなかった。

 もちろん仕事で来てるから、報酬はもらってるのだけど。

 それ以上の何かをたくさんもらっている。


 すべてが、代償なしで与えられるもののように感じる。

 これが何を意味するのか分からなくて怖い反面。

 心地いいと感じていた。

 なんでこんな時にまで、あの子のことを思い出すんだろう。


 その時、背後から巨大な影が私を覆った。

 夜の暗がりで、街灯の光が私の影を長く伸ばし、そこに別の影が重なる。

 あぁ、襲われるのか。

 こんな人気のない場所で女子高生が泣いていれば、絶好の獲物だろう。

 それも仕方ない。

 泣き崩れていた私の不注意だ。


 体が一瞬固まり、息を止める。

 背後から覆いかぶさる影が、夜の暗がりで私の視界を狭める。

 心臓が激しく鳴り、喉が乾く。


 過去の記憶がフラッシュバックし、恐怖が胸を締め付ける。

 暗い部屋の匂い、重い体重、押さえつけられる腕の痛み、息苦しい息遣い。

 相手のものが吐き出せば終わるそれだけの時間我慢すればいいだけ。

 体を硬くして、耐えれば済む。

 涙がまた溢れ、頬を伝う。

 髪が夜風に乱れ、瞳がぼやける。


 先ほどまで、泥まみれでサッカーをしていたから。

 できればシャワーくらい浴びてからにしてもらいたかったな。

 ユニフォームにこびりついた土と汗の匂いが、まだ体に残っている。


 シャワーで流してからなら、少しは清潔な体で受け入れられるのに。

 なんて最悪な状況で場違いな思考が巡る。

 頭の片隅で、そんな馬鹿げた考えが浮かぶ。


 恐怖の中でさえ、日常の習慣が顔を出す。

 涙が止まらず、肩が震える。

 芝生の冷たさが膝に染み込み、夜風が頰を刺す。

 私はただ、目を閉じて、耐える準備をする。

 胸の奥の熱い塊が、恐怖と混じって、ぐちゃぐちゃに溶けていく。


「ぱふ」


 不意に、柔らかな感触が背中に重なった。

 壊れ物を扱うような、ひどく優しい抱擁。

 私の腰に回されたその手は、白くて、小さくて。

 ひどく温かい、女の子の手だった。

 体温がユニフォーム越しに伝わり、胸の奥の冷たい塊が、少しだけ溶け出す。

 息が止まり、涙がまた溢れる。

 背中から伝わる温もりが、震えを静かに受け止める。


 誰のものか、なぜかわかってしまった。

 この小さな手、この柔らかな感触、この優しく包み込むような感じ

 栞だ。

 私の涙が、彼女の腕に落ちる。

 夜風が二人の髪を軽く揺らし、街灯の光が影を一つに重なった。


「……やっと、見つけた」


 震える声。耳元で響いたのは、予想通り栞の声だった。

 小さな吐息が、私の銀髪を軽く揺らす。

 背中に重なる柔らかな感触が、温かく、優しく、私の震えを静かに受け止めてくれてる。


 栞の胸が、私の背中に密着し、心臓の鼓動が伝わってくる。

 細い腕が腰に回され、白い指がユニフォームの布地を優しく握る。

 

「なんで……どうしてここに……っ」


 私の声はどもり、喉が詰まって言葉にならなかった。

 彼女がここに来るなんて思わなかったから。

 過去の記憶が頭の隅でちらつき、恐怖が残るのに、栞の温もりがそれを薄く溶かしていく。


「なんでって言わないでよ」


 反論を許さない響き。

 栞の声は少し震えていて、でも強く、優しく、私の耳を包む。

 彼女の息が首筋にかかり、温かい。


 私の口は、酸素を求める魚のようにパクパクと動くだけで、言葉にならない。

 涙が止まらず、肩が細かく震える。


 どうしてここにいるの?

 どうして私を追いかけてきたの?

 いつも、私が一番ボロボロで、一番見られたくない時に。

 どうして貴女は、そこにいるの?

 聞きたいことは山ほどあった。

 夜風が冷たいのに、栞の体温だけが熱く感じる。


「……栞、ありがとう」


 声が震えてるのがわかる

 自分でも驚くほど、素直な言葉が口から零れた。

 いつもは「ありがとう」なんて言わないのに。

 今は、ただそれしか言えなかった。


「……うん。家にもいないし、すごく心配したんだからね」


 彼女の指が、私の腰を軽く撫でる。

 小さな背中が、私の背中に寄り添うように密着する。


「……理由は、聞かないの?」


 私は、ようやく言葉を紡ぐ。

 涙がまた溢れ、頬を伝う。


「綾さんは、聞いてほしいの?」


 栞の返事は、静かで、優しい。

 私の耳元で、温かい息が混じる。


「……質問を質問で返すのは、性格悪いよ」


 私は小さく笑おうとしたけど、涙で声が震えて、笑いにならない。

 栞の腕が、少し強く私を抱きしめる。

 温かさが、胸の奥まで染み込んでいく。


 栞は少しだけ腕の力を強めて、静かに、けれど断固として言った。

 彼女の細い腕が、私の腰を優しく、でもしっかり抱きしめる。

 温もりが、ユニフォーム越しに伝わり、震えていた体が少しずつ落ち着いていく。


 彼女の胸が私の背中に密着し、小さな心臓の鼓動が響いてくる。

 夜風が二人の髪を軽く絡め、街灯の橙色の光が芝生に長い影を落とす。


「サッカーが、綾さんにとってどれだけ本気か知ってるから。本気で悔しくて、本気で戦ってるからこそ、涙が出るんだよ。それは、ちっともおかしいことじゃない」


 栞の声は耳元で優しく響き、言葉の一つ一つが胸の奥に染み込んでいく。

 本気で悔しい。

 本気で戦ってる。

 それが、涙の理由だと、栞は教えてくれた。

 誰もそんな風に言ってくれたことなんてなかったのに。

 たいてい泣くと、泣けば許されると思ってるのというのが定番だった。


「……たまに思うけど。栞って、時々すごく大人びて、いい事を言うよね」


「そりゃあ。物心つく前から、芸能界っていう化け物だらけの世界で生きてますから」


 栞は小さく笑いながら、顔を覗き込んでくる。

 瞳が、街灯の光を映して優しく輝く。

 顔を覗き込むと、栞はひどく綺麗な、それでいてどこか寂しげな笑顔を浮かべていた。


 国民的女優であり、歌手でもある霧生栞。

 黒髪が夜風に揺れ、細い指が私の腰を優しく撫でる。

 あの笑顔の裏に、どれだけの痛みを隠してきたのか、ふと想像してしまう。


 何を考えているか分からない時もあるけれど、彼女は私を友達だと呼ぶ。

 対償なんて、一度も求められたことはない。

 反対に、いつも迷惑をかけてるのは私の方だった。

 それなのに、笑顔でこのように対応してくれる。

 本当に暖かくて変な奴だと思う。

 そこがうれしいけど、怖くもあった。


「まだ7月だけど。夜風に当たって風邪引く前に、マンションに戻ろ?」


 栞の声は優しく、でも少し急かすように響く。

 彼女の腕が、私をそっと引き上げる。


「……うん」


 私は小さく頷き、震える手で彼女の手を取った。

 栞は私を絶望の淵から引き上げてくれた。

 白くて小さな手が、私の指を優しく絡め、温かさが伝わる。


 私たちは手を繋ぎ、夜道をゆっくりと歩き出す。

 まるで、放課後の帰り道を楽しむように。

 芝生の感触からアスファルトへ、街灯の光が二人の影を長く伸ばす。

 夜風が頬を撫で、涙の跡を乾かす。

 

「ねえ、いつ唯さんと知り合ったの? 今日じゃないよね」


 栞の声が、静かな夜道に響く。

 彼女の指が、私の手を軽く握りしめる。


「うん。栞にマンションの中に運動ができる広場を教えてもらった翌日かな。その人が長谷部唯だって知ったのは、今日だけど」

 

 栞が誰かを名前で呼ぶのは珍しい。

 基本、誰に対しても『さん』付けの苗字呼びで私に対しても、誰かいるときは綿津見さんなのに。

 どのように言おうが、栞の自由なのになぜか楽しくない。


「友達なの?」


 私は、ぽつりと尋ねた。


「んー、どうかな。共演した時に『名前で呼んで』って言われたから、つい。プライベートで遊んだことはないよ」


 栞は小さく首を傾げ、茶色の瞳を細めて笑う。

 髪が夜風に揺れ、細い指が私の手を少し強く握る。

 

 マンションの灯りが近づいてくる中、栞はサッカーの核心には触れず、他愛のない話で私の心を解してくれた。

 最近の事、明日の予定のこと、マンションの近くのコンビニで売ってるアイスのこと。

 言葉の一つ一つが、優しく、私の胸の棘をそっと抜いていく。

 こういう時の彼女は、本当に、ずるいくらいに優しい。

 ただ手を繋いで歩くだけで、心が少しずつ軽くなる。


 部屋に入った瞬間、待ち構えていた秋子さんに雷を落とされた。

 玄関のドアを開けると、秋子さんがリビングの灯りの下に立っていた。

 いつも穏やかなマネージャーの表情が、今は心配と苛立ちで引きつっている。


「栞! 見つけたならすぐに連絡しなさいって言ったでしょう!」


 秋子さんの声が、部屋に響く。

 栞の肩が少し縮こまり、私の手を握ったまま小さく頷く。


「あ、……忘れてた。でも今から帰るってメールはしたでしょ」


「綾さんが……綾さんが帰ってないとか言ってた人が。全く行方不明とか言われたら心配するでしょ」


 秋子さんの視線が、私に向けられる。

 心配の色が濃く、目尻に細かな皺が寄る。

 私は髪を軽く払い、瞳を伏せる。


「秋子さん、それは言わない約束でしょー」


 栞が少し拗ねたように、秋子さんの袖を引っ張る。

 小さな背中が、私の横で揺れる。


「綾さんもです! 夏の夜だからって油断しすぎです。女子高生が夜を一人で外にいたら、どんな事件に巻き込まれるか……」


 秋子さんの声が、少し震える。

 心配が本気で伝わってくる。

 私はただ、静かに頷く。


「……ごめんなさい」


 私がまじまじと秋子さんの顔を見つめると、彼女は不思議そうに首をかしげた。


「どうしたんですか、綾さん」


 秋子さんの声が、部屋の灯りの下で優しく響く。

 彼女の目が、私の顔をまじまじと見つめてくる。

 いつもは「綿津見さん」と苗字で呼ぶのに、今日は「綾さん」だったから。

 

「あ……いえ、『綾さん』って呼ばれたのが、びっくりして」


 水無月さんが私のことを名前で呼ぶことってあった?

 そのことにびっくりしてしまった。


「嫌でしたか?」


 秋子さんの声が、少し心配げに低くなる。

 彼女の目が、私の表情を優しく探る。


「……いえ。嫌じゃないです」


 私は小さく首を振る。

 名前で呼ばれる温かさが、胸に染み込んでいく。

 涙の跡がまだ残る頰が、くすぐったく感じる。


「それなら良かったです。あと、心配するのは当たり前ですよ。無事でよかった」


 秋子さんが私の肩を優しく撫でる。

 その手のひらの温かさが、くすぐったくて、鼻の奥がツンとした。

 肩に伝わる優しい圧力が、凍えていた体を静かに溶かす。

 秋子さんの指先が、ユニフォームの布地を軽く滑る。

 

 すると、隣にいた栞が私の腰に抱き着いて、これ見よがしに独占欲をアピールしてくる。

 小さな体が私の腰にぴたりと寄り添い、綺麗な髪が私のユニフォームに触れる。

 細い腕が腰を回し、温かい体温が伝わる。

 栞の瞳が、上目遣いに私を見上げてくる。


「な、なに?、これは」


 私は慌てて声を上げる。

 声が上擦り、頬が熱くなる。

 

「ふふ。みんな、綾さんのことが大好きなんですよ」


 水無月さんの大人の優しい笑顔でそう伝えてくる。

 彼女の目尻に細かな皺が寄り、穏やかな笑みが広がる。

 部屋の灯りが、顔を柔らかく照らす。


「そうそう。もっと愛されてる自覚を持ってよね」


 栞はよくこんな歯が、浮くセリフをすらすらと言えるな。

 流石女優。

 二人は、そんな照れくさいセリフを、呼吸をするようにさらりと言う。

 照れもせず、自然に。


「こういう時なんて言っていいかわからない」


 私がぽつりと呟くと、二人して笑い合っていた。

 秋子さんの笑い声が部屋に響き、栞の小さな肩が揺れる。

 なんか居心地が悪くなて来たから、仕事に移ろうと思う。


「そうだ、ご飯作らないと」


 私は慌てて立ち上がろうとする。

 ユニフォームの裾を払い、キッチンへ向かおうとする。


「今日は私が作りました。シャワーでも浴びて着替えてください。その間に準備が終わりますから」


 秋子さんが優しく制し、私に着替えに向かわせた。

 彼女の声は穏やかで、手を軽く私の背中に当てて、バスルームの方へ導く。

 

「綾さん、早くシャワー浴びてね。私待ってるから」



 私は頷いた。


 バスルームへ向かうと、ドアを開けた瞬間、湯気の香りと石鹸の匂いが迎える。

 ユニフォームを脱ぐと、泥と汗の塊が床に落ちる。

 髪をほどき、鏡に映る自分の顔を見る。


 眼が腫れ、頬に涙の跡が残っている。

 体中に残る土の感触、汗の匂い、唯の言葉の痛み。

 すべてを洗い流すように、シャワーの蛇口を捻る。


 熱いお湯が頭から降り注ぎ、銀髪を濡らし、肩を伝い、泥を溶かしていく。

 お湯の音が耳を塞ぎ、胸の奥の熱い塊を少しずつ薄める。

 体を洗う指先が震え、涙がまた混じって頬を伝う。


 シャワーを終え、タオルで体を拭き、着替える。

 シンプルなTシャツとショートパンツ。


 濡れた髪を軽く拭いて、部屋に戻る。

 髪から滴る水滴が肩を伝い、肌に冷たい感触を残す。


 リビングの灯りが優しく、私を迎える。

 ダイニングへ向かうと、暴力的なまでに食欲をそそる香りが広がっていた。


 豚キムチの辛い匂い、わかめスープの優しい海の香り、冷奴の豆腐の清々しさ。

 テーブルには、湯気が立ち上る丼と小鉢が並んでいる。

 お店でもなく、親戚の家での残飯でもなく、誰かが私のために用意してくれた料理がそこにはあった。


 箸を取る手が、少し震える。

 秋子さんが「どうぞ、座って」と椅子を引いてくれる。

 栞が隣に座り、私の肩に軽く寄りかかる。

 一口運ぶと、喉の奥が震えた。


「……おいしい」


 ご飯ってこんなにおいしかったっけ?

 豚キムチの辛さが舌を刺激し、温かいご飯が体に染み込む。

 味が、胸の奥まで届く。

 箸を持つ手が止まらず、口に運ぶたび、温かさが広がる。


「口に合ってよかったです」


 秋子さんが静かに微笑みながら、箸を置いて私を見る。

 彼女の目尻に細かな皺が寄り、穏やかな光が灯る。

 テーブルの上の丼から立ち上る湯気が、部屋の灯りを柔らかく反射している。


「前も言ったけど。秋子さん、料理上手だからね」


 栞がなぜか水無月さんの事を自慢している。

 なぜ?

 栞の茶色の瞳が輝き、黒髪が肩に落ち、隣で私の腕に軽く寄りかかる。


 彼女の声は少し得意げで、まるで自分のことのように秋子さんを褒めている。

 小さな指が私の袖を軽く摘まみ、独占欲を隠さない。


「最近は忙しくて、主食がビスケット一枚なんて日もありましたからね……」


 秋子さんが小さく息を吐き、苦笑いを浮かべる。

 スーツの袖を軽く払い、疲れた肩を回す仕草が、日常の重さを物語る。


「芸能界が時間に無頓着なのは聞いたことあります。きちんと作るので安心してください」


 私は静かに、でもはっきりと言った。

 秋子さんの視線が私に向けられ、温かい。

 部屋の灯りが秋子さんの顔を柔らかく照らし、彼女の瞳に静かな強さが宿っている。

 私は箸を止めて、秋子さんを見つめる。


「綾さんが来てくれて、本当に助かってますよ」


 水無月さんがそう言ってくれて、少し嬉しいと思った。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 名前で呼ばれ、感謝され、存在を肯定される。

 そんな感覚が、初めてのように新鮮で、怖いくらいに心地いい。


「……っていうことは。ずっとここに、いてくれるの?」


 栞の声が、急に甘く響く。

 彼女の瞳が私をまっすぐ捉え、細い指が私の袖を強く握る。


「栞、そういう意味で言ったわけじゃないでしょ」


 私は苦笑しながら、栞の頭を軽く叩く。

 部屋の灯りが、三人の影を優しく重ねる。

 なんだろう。この、胸の奥が痒くなるような感覚。

 対価も払わず、ただそこにいるだけで許される場所が、この世にあるなんて。


 そんな平穏を切り裂くように、部屋のチャイムが鳴った。

 こんな時間に、誰?

 それにこのマンションにはコンコルジュがいるので部外者は入れないはず。

 胸の奥が小さくざわつく。

 夜の静けさが、一瞬で張り詰める。


「私が出ます」


 水無月さんが立ち上がり、インターホン越しに応対する。

 彼女の背中が、少し緊張しているのがわかる。


「……はい。どうぞ、お入りください」


 客? 栞の関係者だろうか。


「私、部屋に戻ったほうがいいかな」


 私は小さく呟く。

 立ち上がろうとする。


「うーん、私に来客予定はないし、秋子さんの知り合いが、ここに来るはずないし……」


 二人で首を傾げていると、リビングのドアが勢いよく開いた。

 数時間前、グラウンドで私を完膚なきまでに叩きのめした女性が入ってきた。

 

「こんばんは。栞ちゃんに……綿津見さん、だっけ」


 なでしこジャパンのキャプテン。

 イングランドリーグ、ムーンシティWFC所属。

 華麗なる魔術師の異名がある。

 ポニーテールが軽く揺れながら、長谷部唯選手がそこに立っていた。

「 Liebe」をお楽しみいただけましたか?


もし「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!


皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
綾の長編シリーズ!
【4部連載中】転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~
~!
※R15・残酷描写あり。苦手な方はご注意!

他の長編もチェックしてね(現在4本!)
2. 白雪様と二人暮らし
女子高生と仏様とのほのぼの百合小説
3. 【完】紫微綾の事件簿
(百合×探偵×バイオレンス)

※R15・基本性的描写・残酷描写あり。苦手な方はご注意!

もっと知りたい人はTwitterで更新待ってるよ~
@VTuberAya_Nanjo
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ