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【二部開始】 Liebe   作者:
2部 1章 共同生活

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24話S わがままなお姫様

 朝の陽光がカーテンの隙間から柔らかく差し込み、リビングのテーブルを淡く照らす。

 キッチンから漂う卵とご飯の温かな匂いが、部屋全体を包んでいる。

 綾さんが弁当箱を私の手にそっと渡す瞬間、指先がわずかに触れ合った。


 やっぱり真面目だなぁって思った。

 今日ぐらい朝休んでもいいんじゃないかとも思うし、それぐらいで、がみがみ怒るつもりもないのに。

 本当に、そういう仕草が可愛いと思う。

 銀髪を耳にかける仕草、弁当の蓋を閉める時の丁寧な指の動き、赤い瞳が一瞬だけ私を捉えてすぐに逸らすところ。

 全部が、胸の奥をくすぐる。


「彼女大丈夫ですか?」


 秋子さんがコーヒーカップを置いて、静かに言った。

 声は穏やかだけど、目が少し心配げに細まっている。


「秋子さんも気づいた?」


 私は小さく頷きながら、弁当箱をバッグにしまう。

 綾さんは一昨日から少し変だった。

 もちろん家事などは完璧なんだけど、なんだか心ここにあらずって感じだった。

 私が仕事に行くまでは普通だったし、何かあったのだろうか?

 もしかして家財とか、綾さんの家の物と違うから扱いにくいとか?

 でもそういうこだわりなさそうだしな。

 彼女が、時折遠くを見ているのが、なんだか寂しく感じる。


「栞は綾さんの部活を見に行くの?」


 秋子さんがカップを傾けながら、軽く笑みを浮かべて聞いてきた。


「そろそろ行こうかなって思ってる。あいつもいないと思うし」


 上野。

 綾さんをレイプしようとした、むかつく男。

 綾さんもスキが多いから仕方ないんだけどさ。

 あれは隙じゃないか、周囲を気にしてない。

 自他無関心なだけ。


 多分三年生の引退は夏でしょ。

 安全だと思うから、心配しなくてもいいけど。

 今日は、綾さんのサッカーを見れるから楽しみだ。


「綾さんの充実した顔、見れるかもしれないしね」


 私が言うと、秋子さんがくすっと笑った。


「栞、まるでファンね」


「そうかも。そういう秋子さんは?」

 

 私は、バッグの肩紐を直しながら、彼女を見上げる。


「私はこのまま事務所に行ってお仕事。明日迎えに来るからコンディション整えといてね」


 秋子さんが立ち上がり、カップをシンクに置く。

 スーツの袖を軽く払い、いつものマネージャーらしいきびきびした動きでバッグを肩にかける。


「はいは~い。もうここに住めばいいじゃん」


「そうしたら、私が邪魔になるでしょ」


「もう」


 少しだけじゃれ合って、玄関を出た。

 でも、心のどこかで、綾さんの変だった理由が気になって仕方ない。

 今日、部活に行ったら、何か分かるかな……。

 そのまま学校に向かったら、何であんたがいるの?


 引退した上野がいた。

 グラウンドの端、ベンチの近くにユニフォーム姿で立っている上野。

 三年生のはずなのに、汗で前髪を濡らし、いつもの自信たっぷりな笑みを浮かべてる。

 なんでいるの全く、本当に来てよかった。


 綾さんがここにいるなら、絶対に近づかせたくない。

 あの時の記憶が、頭の隅でチクチクと疼く。

 そしてその横には、ポニーテールの女性がいた。

 黒髪を高く後ろで結び、ユニフォームの袖をまくり上げて、ボールを足で軽く転がしている。


 見たことある……

 なんであの人が、ここにいるの?

 去年の12月にバラエティで仕事したことがある。

 スタジオの明るい照明の下では、笑顔が柔らかくて、トークも軽快で、カメラに向かって手を振る姿が可愛らしかった。


 女子サッカー日本代表キャプテン 長谷部唯さんがこの学校の練習を指導しに来ていた。

 どういういきさつで?

 確かここ彼女の母校でも何でもなかったはず。

 私は、昨年見せてもらった彼女のプロフィールを思い出していた。


 サッカー選手ってみんなそうなのだろうか?

 バラエティの時とサッカーで指導しているとき全然違うわ。

 今は表情が引き締まり、視線が鋭く選手たちを追っている。

 ポニーテールが風に揺れ、汗が首筋を伝う姿は、まるで別人。

 あの笑顔の裏に、こんな厳しい顔が隠れていたなんて。


 練習を見てたら、あの男が近づいてきた。

 足音が近づき、影が私の横に落ちる。

 上野の声が、軽く響く。


「見学かい、霧生さん」


 私は視線をグラウンドに固定したまま、冷たく返す。


「なんかようですか?私はあなたと話したくないんだけど」


 上野は少し肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。

 汗で濡れたユニフォームが肌に張り付き、息が少し上がっている。


「お礼を言っておこうと思ってね」


「お礼?」


 私はようやく顔を上げ、彼を睨む。

 多分アイドルがやってはいけない顔をしてると思う。 


「うん、あの件の事を言わないでくれて助かったよ」


「あ・綿津見さんがいいって言ったから、第三者の私が言うのも変でしょ」


 上野は小さく頷き、視線をグラウンドの中央。

 綾さんがいる方向へ移す。

 髪が風に揺れ、瞳がボールを追っている姿が、遠くからでもはっきり見える。


「もちろん、行動したことは悪いことだし反省もしてる」


 は~、欲望に襲われて事しようとした奴が反省で済むと思ってるの?

 胸の奥で、怒りがぐつぐつと沸き上がる。

 喉の奥まで熱いものが込み上げて、言葉が喉に詰まる。

 私は、文句の一つも言いたかったけど。

 イメージを崩すようなことはしてはいけないと思い。黙っていた。


 芸能人として、完璧な笑顔を保つ。

 指先がスカートの裾を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。

 綾さんの姿が視界に入るたび、心臓が速く鳴る。

 

 上野の視線が綾さんに注がれているのを見ているだけで、息が苦しくなる。

 私はただ、静かにグラウンドを見つめ続ける。

 練習の歓声が遠く響く中、胸の奥の棘が、深く刺さったままだった。


「その……な、お詫びで唯姉を呼んだんだ」


 上野の声が、軽く、でもどこか自慢げに響く。

 汗で濡れた前髪を指でかき上げ、ニヤリと笑う表情が、腹立たしい。


「は?唯姉?」


 私は思わず声を上げてしまった。

 ポニーテールの彼女を、もう一度見つめる。


「近所のお姉さんでね。外国に行くまでのサッカーの先生だよ。多分刺激になると思ってね……だけど何か様子がおかしいな?初対面なはずだけど」


 そう言ってあの男は、またグラウンドに戻っていった。

 背中が遠ざかるのを、睨むように見送る。

 唯さんが私に気づいたのか、一瞬目を大きくして私に軽い会釈をしてきた。

 ポニーテールが軽く揺れ、汗で濡れた頰が陽光にきらめく。

 多分、誰も気づいてない。

 彼女の視線はすぐにグラウンドに戻り、選手たちを鋭く追う。


「だから、私と一対一をしようか?そこの大木ちゃん」


 え?

 唯さん。綾さんのことを大木って。

 確かに170近くあるから背が高いけど、私の綾さんはすごいんだよ。

 銀髪が風に揺れ、綾さんの真紅の瞳が、唯さんをにらみつけていた。


 私の胸が、熱く疼く。

 多分どこかで会ったんだ

 多分一昨日だ。綾さんの様子が少しおかしくなった日。



「ご指名なら受けますよ」


 一瞬、怒りで我を忘れてプレイするのかなって思ったけど、普段通りに見えるから安心した。

 綾さんの動きは、いつも通り冷静で、足運びが滑らか。

 でも、それは束の間だった。


 唯さんが凄いのは知ってたけど、綾さんが何もできない?

 ドリブルが封じられ、ボールが奪われ、ターンする間もなく体勢を崩される。

 綾さんの息が上がり、銀髪が乱れ、赤い瞳に苛立ちが混じる。


「綿津見、今日調子悪いのか?」


「あれが実力なんじゃね」


「だったらそれに負けた男子サッカー部、それ以下じゃん」


「なら調子悪いのか?」


 周囲がいろいろ言っているけど、そうじゃない。

 それ以上に、唯さんが凄すぎて、綾さんが下手に見えるぐらいに。

 彼女の今までの経験則と視野の広さで、綾さんの動きを先読みするように封じてる。


 紅白戦になり、上野君がまたこちらにやってきた。

 汗でユニフォームが張り付き、息を少し切らしながら、私の横に立つ。

 何で当たり前にここに来るの。全く


「引退したんじゃないの先輩、受験に響きますよ」


「サッカー部の引退って十月なんだよな。キャプテンはもう俺じゃないけどな。まぁ内定はもうもらってるから大丈夫だよ。心配してくれてありがとうな」


「どう思ったら心配に見えるんですか?それにしても唯さん、綿津見さんに厳しくないです?」


「だな。ほかの子は指導だけど、綿津見に対しては本気で相手してる感じだ。綿津見もイライラして、周囲見えてないしな」


上野君が言った通り、独りよがりのサッカーが始まった。


 誰も取れないパス。孤立する動き。超個人主義で何とか突破しようとしてるけど、どんどん綾さんが孤立していく。


 足元でボールが奪われ、砂を巻き上げて倒れる姿が、何度も繰り返される。

 それに引き換え唯さんは、そんな綾さんを封じながら指示をして、綾さんを無効化している。

 

 私は、猟にも似ているのかもしれないと思った。

 強力な野獣を弱らせて対峙することに。

 唯さんの視線は冷静で、ただ淡々と綾さんを観察し、動きを封じる。


 綾さんは、それでも、何度倒されても、何度取られても。

 ユニフォームが砂だらけになっても。

 私は、彼女は美しいと思った。


 銀髪が汗で濡れ、赤い瞳が諦めを知らずに燃え、息を切らしながら立ち上がる姿。

 砂にまみれたユニフォームが、彼女の執念を物語っている。

 胸の奥が、熱く締め付けられる。

 絵に出てきたようなシーンで心が奪われそう。


「唯姉、やりすぎだ。つぶす気か?」


 試合が終わって、見ていた上野君がグラウンドに向かう時だった。


「……あんたさぁ、サッカー舐めてる」


 低く、抑揚のない響きがグラウンドに響いた。

 唯さんの声は静かで、でも空気を切り裂くように鋭い。

 汗で濡れたポニーテールが微かに揺れ、陽光が彼女の頰を照らす。

 グラウンドの喧騒が一瞬止まり、選手たちの息遣いが聞こえるほどに静かになる。


「独りよがりならやめた方がいいよ。サッカーは個人技も大事だけどチームスポーツだよ。いくら実力があっても向いてない。実際、私のパスの成功率は九〇%を超えてると思う。貴女は? サッカーは曲芸じゃないんだよ」


 唯さんがそう言い放った瞬間だった。

 言葉がグラウンド全体に落ち、砂埃が風に舞う。

 綾さんの背中が、わずかに震えるのが見えた。

 銀髪が汗で額に張り付き、瞳が一瞬だけ揺らぐ。


 次の瞬間、綾さんはすぐに立ち上がり、涙を流して走っていった。

 砂を蹴り上げ、ユニフォームの裾が翻り、背中が小さく遠ざかる。

 涙の軌跡が頰を伝い、陽光にきらめいて見えた。

 私は、その涙にあっけに取られて動けなかった。


 胸が締め付けられ、息が詰まる。

 綾さんの走る姿が、視界の端でぼやける。

 自他ともに無関心な綾さんが……。

 レイプされそうでも「されるがままの方が楽だから」っていって淡々と言っていた彼女が。

 こんなに脆く泣くなんて思わなかった。


 心臓が激しく鳴り、手が震える。

 綾さんが……こんなに傷ついてる。

 私ははっとなって、綾さんを探しに行かないとと思った。

 足を踏み出そうとしたその時、後ろから声をかけられた。


「お久しぶりです。栞ちゃん。サッカー好きだったんだね」


 振り返ると、唯さんがこちらを見ていた。

 ポニーテールが風に軽く揺れ、汗で濡れた頬が少し赤らんでいる。

 ユニフォームの袖をまくり上げた腕が、静かに下がる。

 彼女の瞳は穏やかで、人懐っこい感じが雰囲気がいい。

 あのように綾さんに向かって言った人と同一人物とは思えなかった。


「お久しぶりです。唯さん。日本に帰って来てるとは思いませんでした」


 私はすぐに、いつもの仮面をかぶるように軽く頭を下げた。

 芸能人の笑顔を浮かべ、声のトーンを柔らかく整える。

 この間一緒に仕事した時に名前で呼んでいいときかれたので、私も名前で呼びますねって言ったんだった。


「今日はお忍び? それを言ったら、私もそうなるのかな?」


 唯さんが軽く笑みを浮かべて、首を傾げる。

 ポニーテールが肩に落ち、汗の雫が一筋伝う。


「私この学校に通っていて、友達の見学に来ました」


「学校通ってるんだ。いいね。友達って誰? 紹介して」


「唯さんが泣かしちゃって、今いないんですよね」


 私がそう言うと、唯さんは少し気まずそうに指で頬をかいた。

 視線を一瞬グラウンドの端。

 綾さんが走り去った方向へ移し、すぐに戻す。

 汗で濡れた前髪を指で払い、苦笑いが浮かぶ。


「あはは、ちょっとやりすぎちゃったかな?」


 彼女の声は軽く、でもどこか後悔の色が混じっている。

 グラウンドの空気が、まだ重く残る。

 私はただ、静かに唯さんを見つめ返す。

 綾さんの涙が、頭から離れない。

 早く追いかけたい。

 でも、今はまだ、動けない。

 なぜあそこ迄したのかその真意を聞きたいと思ったから。


「唯姉、やりすぎってもんじゃねえだろ」


 横から上野君が口を挟む。

 彼の声が、グラウンドの重い空気を切り裂くように響く。

 汗で濡れたユニフォームの襟を軽く引っ張り、息を少し切らしながら、唯さんの横に立つ。

 いつの間にグラウンドから戻ってきたのやら、あっち行ったりこっち行ったり忙しいやつだ。

 上野の視線が唯さんに向けられ、眉を少し寄せている。


「やば、うるさいやつにつかまった」


 唯さんが小さくため息をつき、ポニーテールを軽く払う。

 汗で前髪が額に張り付き、頰が少し赤らんでいる。

 でも、表情は変わらず冷静で、視線を上野に返す。


「確かに綿津見のこと観てやってって言ったけど、あれはないだろ?」


「でも私は、間違ったことは言ってないよ。俊。いくら惚れてるからって、あれはだめだよ」


 私は思わず口を挟んでいた。

 私の瞳が唯さんをまっすぐ捉え、言葉が喉から滑り落ちる。


「綾さんは、サッカーに向いてないって言うんですか?」


 唯さんは少し首をかしげて、私を見た。

 彼女の瞳は穏やかで、でもどこか深いところで私を測っている。


「そうだね。栞ちゃんってドラマに歌手もやってるよね」


「やっていますが」


「あの子はすごいと思うよ。多分、同じ年齢の時には、あそこまで出来なかったと思う。それぐらい凄い。今の実力でも、プロでも目が出るんじゃないかな」


 なら、なんであんなことを言ったの?

 胸の奥で、疑問がぐるぐると渦を巻く。

 綾さんが涙で揺れる姿が、脳裏に焼き付いている。

 唯さんの言葉が、優しいのに、なぜか痛い。

 そう思った瞬間だった。


「栞ちゃんに質問だけど、いくら凄くても、一人で舞台はできる?」


 私は少しだけ考えて答えた。

 

「演者さんがいるから絶対に無理です。たとえ一人芝居でも、スタッフさんが黒子として行動してくださるので成り立ちます」


 そこで私は、やっと理解した。

 唯さんの視線が、私の言葉を待っていたように、静かに頷く。

 グラウンドの風が、砂埃を軽く舞い上げる。


「うん。余裕があったりしたら、周囲も見れるんだろうね。でも、あの子本人にプレッシャーとか少し意地悪したら、周囲が見れなくて自滅しちゃったよ。六対〇のうち四点は、あの子のミスだからね」


「だからって、あそこまで……」


 言葉が続かなかった。

 胸の奥が締め付けられ、息が詰まる。

 期待しているからこそ、あそこまでやった。

 唯さんの目が、そう語っている気がした。


 ポニーテールの先が風に揺れ、彼女の瞳の奥に、厳しさと優しさが混じり合う。

 彼女を成長させるために、あえて突き放した。

 きっと遅かれ早かれぶつかる問題だよって目で訴えていた。


 私は、少し昔のことを思い出していた。


 スタジオの照明が眩しく、セットの背景がキラキラと輝いている。

 物心つく前から芸能界にいた私は、結構なお姫様だったと思う。

 周りの大人たちはいつも笑顔で、私のわがままを許してくれる。


 おもちゃが欲しいと言えばすぐ届き、ジュースが欲しいと言えばすぐに冷えた缶が手元に。

 それが当たり前だった。

 あれは小学生の時だったかな。


 収録の合間に、散々スタッフの人たちを困らせて、わがまま放題だった。


「ジュース持ってきて!」


「照明暗いよ!」


「これじゃ可愛くない!」


 スタッフの顔が疲れで曇るのも、気にしなかった。

 ちょうど見学に来ていた社長さんと出会った。

 背の高いおじさんが、静かに近づいてきて、私の前にしゃがみ込んだ。


「なら、君一人でやってるの?」


「おじさん誰? 私の人気で成り立ってるんでしょ。なら私は今すぐジュースが飲みたいの」


 声が高く、生意気なトーンで言い返す。

 小さな手で腰に手を当て、胸を張る。


「うん、君の人気で成り立ってるかもしれないけどね」


「でしょでしょ。ならいいじゃん。それでみんなもお金もらってるんでしょ」


「なら君一人で番組をできるかな?」


「私すごいんだよ。当たり前じゃん」


 社長さんは、優しい笑みを浮かべたまま、私の目線に合わせるようにしゃがみ込んでそう言った。


「なら、僕と勝負しよう」


「うんいいよ。何もらえるの?」


「そうだね。勝ったら相手の言うことを何でも聞くっていうのはどうかな?」


「わかった。私が勝ったら毎日お菓子食べるんだから」


「勝負の方法はなに?」


「君は言ったよね。一人で番組を回せるって」


「うん、言ったよ。みんな言うもん栞ちゃんはすごいって」


「なら番組を回しているところを見せてほしい」


「うん。いいよ」


 まさか、カメラから全部自分でやることになるとは思わなかった。

 番組が始まる時間になっても、スタジオにはスタッフが一人もいなかった。

 カメラマンも、監督も、ADも。

 照明は点いているのに、誰もいない。

 セットのテーブルに置かれたマイクが、静かに私を待っている。


 スタジオの空気が、重く冷たい。

 そしてスタジオから声が響いた。

 社長さんの声が、スピーカー越しに静かに届く。


「栞ちゃん、なら始めてもらおう」


 出来るわけがない。

 カメラマンも監督もADも、誰もいないスタジオで私は立ち尽くしていた。


 足が震え、膝がガクガクする。

 何を話せばいいのかわからない。

 何をすればいいのかもわからない。


 マイクの前に立っても、言葉が出てこない。

 喉が乾き、胸が締め付けられる。

 カメラの赤いランプが、無情に点滅している。


 結局、私は泣くことしかできなかった。

 小さな肩が震え、涙がぽろぽろと頰を伝う。

 嗚咽がマイクに拾われ、スタジオに響き渡る。

 誰も助けてくれない。

 誰も来てくれない。

 ただ、一人で、カメラの前に立って泣くだけ。


 あの荒療治のおかげで、今でも芸能界で生きていられているんだけど。

 あの時の涙が、今の私を支えている。

 一人で立つことの怖さを知ったから、周りの人を大切にできるようになった。

 

 スタッフの笑顔、監督の指示、カメラマンの視線。

 すべてが、番組を成り立たせている。

 一人じゃ、何もできない。

 私にできることを一生懸命やって連携する。

 胸の奥で、あの日の記憶が静かに疼く。


 今、綾さんが味わっている痛みが、少しだけわかる気がした。

 私は、グラウンドの端で、拳を握りしめる。

 唯さんの言葉が、頭の中で反響する。


 綾さんも、今、一人で泣いているのかもしれない。

 早く、追いかけなきゃ。


「唯さん。今度お食事でも」


 私は、唯さんに声を掛けた。

 夕陽が低く傾き、グラウンドの芝生を赤く染めている。

 汗の匂いがまだ残る中、言葉を絞り出すように口を開く。

 胸の奥で、綾さんの涙がまだ疼いている。


「番号変わってないから行ってきな」


 唯さんは、私が何をするのかわかっているかのように、軽く背中を押してくれた。

 ポニーテールの先が風に揺れ、彼女の視線が優しく私を追う。

 汗で濡れた頰が、少しだけ柔らかく緩み、目尻に細かな皺が寄る。

 その一瞬の温かさが、胸に染み込む。


「はい」


 私は走り出した。

 でも、行く場所といってもどこなんだろう。

 綾さんの涙が頭から離れず、足が自然と動き出す。

 グラウンドの出口を抜け、校門を駆け抜け、住宅街の道へ。

 夕陽が建物の影を長く伸ばし、地面に赤い光を落とす。


 とりあえず秋子さんに電話をした。

 事情を話、少しして折り返しの電話が来たけど、マンションには戻っていないらしい。

 秋子さんの声が、電話越しに心配と小言を混ぜて届く。


 そうなると……綾さんの家かな。

 綾さん友人居ないし、本来は寂しいことだけど今回に至っては助かったと思う。

 私は急いで向かった。

 アパートの階段を駆け上がり、ドアをノックする。

 返事がない。

 鍵は閉まっていて、中の気配もない。

 息を切らしてドアを見つめ、胸の奥がざわつく。


 どうしよう。

 夕陽が沈みかけ、空が薄紫に変わり始める。

 アパートの反対側へ歩いていくと、小さな公園があった。

 街灯が点き始めたばかりの橙色の光が、地面に細長い影を落とす。


 芝生の向こうに、見覚えのあるシルエットが見えた。

 膝を抱え、肩を震わせた小さな背中。

 銀髪が夕風に乱れ、ユニフォームが砂と汗で汚れている。


 私はゆっくりと近づいていった。

 足音を忍ばせ、芝生の感触を踏みしめながら。

 風が葉ずれの音を運び、街灯の光が彼女の輪郭をぼんやり照らす。

 そして―― 芝生の上で、泣き崩れている彼女を見つけた。

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