23話 サプライズ
次の日。
夏の陽射しがカーテンの隙間から容赦なく差し込み、マンションのリビングを淡く白く染め上げている。
エアコンの低い唸りが部屋に満ち、湿った空気を冷たく切り裂くように回っている。
私はキッチンのカウンターに立って、昼食用の鶏胸肉を丁寧に下処理していた。
包丁の刃が柔らかな肉に沈み込む感触が、指先に心地よい反響を伝えてくる。
珍しく、私のスマホが震えた。
テーブルの上に置いてあったそれは、先月契約した新しい機種だ。
あのカラオケの事件以来、最低限の連絡用に必要だと判断して急いで契約した。
登録してあるアドレスは、雇い主である栞と水無月さん、担任の教師、バイト先、そしてサッカー部のグループアドレスだけ。通知音が鳴ることはほとんどない。
だから、この音は、間違いなく緊急の用件。
画面を覗き込むと、メールアプリが開き、件名サッカー部キャプテンの短い文が目に飛び込んできた。
「浅香。女子サッカー部のキャプテン。
私は一瞬、包丁を持つ手を止めた。胸の奥で、何かが小さく軋むような感覚がした。
何の用だろう。
このような事は初めてだった。
どのみち、昨日誘われていたから、行くつもりではあった。でも……。
私はスマホをそっと置いて、再び包丁を動かし始めた。鶏肉の表面に薄く塩を擦り込みながら、ふと朝の栞の顔を思い出す。
昨日コテンパンにやられて、普段通り顔を出せる自信がなかったから。
仕事だけをしてそそくさに部屋に戻ったから、私の事をかなり心配していた顔をしていた。
私はいつも通り、家の仕事を淡々とこなしていく。洗濯物を畳み、床を拭き、夕食の下ごしらえを済ませ、宿題と予習復習を終わらせる。
頭の片隅で、キャプテンのメールが小さく疼いているけれど、それを無視するのは簡単だった。
お金をもらっている以上仕事のことが、先だったから。
しばらくすると、玄関のドアが開く音がした。
玄関のドアが開く音がした瞬間、湿った夏の空気が一瞬だけ室内に流れ込み、エアコンの冷気がそれをかき消すように渦を巻いた。
「おかえりなさい、栞、水無月さん」
私はキッチンから顔を上げ、声を掛けた。エプロンの裾がまだ少し湿っている。
「ただいま~……疲れたぁ」
栞の声は、いつもの甘えた響きを帯びながらも、今日はひどく力が抜けていた。
彼女は玄関からリビングへよろよろと進み、ソファのクッションにそのまま倒れ込もうとする。
髪が乱れて顔にかかり、肩が重そうに落ち、細い腕がだらりと伸びる。
Tシャツの裾が少しまくれ上がり、腰の白い肌が一瞬だけ覗いた。
「着替えてきて。晩御飯にするから」
私は静かに、でもはっきりと言った。
包丁を置いて手を拭きながら、彼女の様子を横目で追う。
「うん……」
栞は小さく頷き、クッションから、ゆっくりと体を起こした。
足を引きずるようにして、自分の部屋へと消えていった。
ドアが閉まる音が、静かに響く。
「水無月さんも、席に座ってください。今準備しますから」
私は視線を移し、リビングに入ってきた秋子に向かって言った。
彼女はバッグを肩に掛けたまま、疲れた笑みを浮かべている。
スーツのジャケットが少し皺になり、髪が肩に乱れて落ちていた。
「……いつもありがとう」
秋子の声は低く、感謝の色が濃く滲んでいる。
「水無月さんも料理をするからわかると思います。二人作るのも三人作るのも、そんなに変わりませんから」
私は淡々と答えながら、鍋の火を弱めた。湯気が立ち上る匂いが、リビングに広がっていく。
「それでもよ」
秋子は小さく息を吐き、ソファの端に腰を下ろした。
肩を回す仕草で疲れをほぐし、首を軽く傾けて深呼吸する。
スーツの袖口から覗く手首が、わずかに汗ばんでいる。
栞が戻る頃には、食卓の準備は整っていた。
白い皿に盛り付けられたハンバーグからは、デミグラスソースの濃厚な香りが立ち上り、熱々の湯気がゆらゆらと揺れている。
ご飯はふっくらと炊き上がり、みそ汁の表面にはねぎの輪切りが浮かび、サラダの葉は水滴を纏って鮮やかだ。
今日の献立は、ご飯、みそ汁、デミグラスソースのハンバーグにサラダ。
相変わらず二人とも美味しそうに食べてくれる。
栞はフォークを握ったまま、目を細めてハンバーグを頰張り、頰が小さく膨らむ。
秋子は静かに、でも丁寧に一口ずつ味わい、時折満足げに息を吐く。
その様子を見ていると、胸の奥に温かなものが広がる。
作った甲斐があると思えた。
私一人の時とは違う達成感があった。
「栞、水無月さん」
食事の途中、私は静かに切り出した。
フォークを皿に置き、二人の視線を集める。
「明日、お休みをもらえませんか。部活からメールが来て、参加してほしいって……終わったら、いつも通り仕事はしますので」
一瞬、テーブルに静けさが落ちる。
「それ、お休みじゃないですよね」
水無月さんが小さく笑った。目尻に柔らかな皺が寄り、茶目が優しく光る。
「それに空き時間は自由って契約でしたよ」
彼女の声は穏やかで、からかうような響きが混じっている。
「明日オフだし。私も見に行っていい?」
栞がぱっと顔を上げ、茶色の瞳を輝かせて言った。
彼女が、そう言って来てびっくりした。
彼女の茶色の瞳が、ぱっと輝きを増して、私をまっすぐに見つめてくる。
頬が少し上気し、フォークを持った手がテーブルに軽く触れる音がした。
全くせっかくのオフなんだから部屋でゆっくりしていればいいのに、そう思った。
栞はいつも、撮影や収録で体を酷使している。
オフの日くらい、ベッドに埋もれてのんびり休めばいいのに。
なのに、なぜか私の部活を見に来たいと言う。
本当に変わった子だ。
「別に……」
一瞬、断ろうかと思った。
言葉が口の中で止まり、喉の奥で固くなる。
視線を皿に落とし、ハンバーグのソースが冷めていくのをぼんやり見つめる。
昨日のあの人と会って、練習したらきっと、無様なところを見せてしまう。
今日やって分かった。今の私ではあの人に届かない。
そんな姿を、栞の前で晒したくない。
なぜ私は、栞を気にしているんだろう。
別に、構わないはずなのに。
私よりうまい人なんて山ほどいるのに何を気にしているのか?
心のどこかがざわつき、視線が栞の顔に吸い寄せられる。
笑顔が、胸の奥を静かに掻き乱す。
「やったー! また綾さんのスーパープレイ見れるかも!」
その瞬間だった。
胸の奥に、どさりと重いものが落ちた気がした。
スーパープレイという言葉が、耳の奥でゆっくり反響する。
私はそのまま食事を食べ終えて、片づけをしてから部屋に戻った。
翌朝。
朝の陽光がカーテンの隙間から細く差し込み、キッチンのカウンターを淡く照らす。
私はいつものように、静かに朝食を整えていた。
トーストの香ばしい匂いが部屋に広がり、卵の黄身がフライパンでゆっくりと溶けていく。
栞はまだ眠たげな目をこすりながらリビングに出てきて、私の姿を見ると小さく息を吐いた。
弁当箱を彼女の手に渡す。
「行ってきます」
私は短く言い、玄関のドアを閉めた。
背後で栞の小さな「いってらっしゃい」が、かすかに聞こえた気がした。
学校へ向かう道は、夏休み明けの空気がまだ少し重く、蝉の声が遠くに響いている。
グラウンドに近づくと、突然、歓声が聞こえてくる。
複数の声が重なり、興奮したような、驚きの混じった叫び。
どうしたんだろう?
胸の奥で、何かが小さくざわつく。足取りが自然と速くなる。
部室で着替え、ユニフォームの生地が肌に張り付く感触を確かめながら、グラウンドへ出た瞬間。
私は足を止めた。
そこにいたのは、小柄な選手。
後ろに高く結んだポニーテールが、朝の風に軽く揺れている。
黒髪が陽光を浴びて艶やかに光り、動きに合わせてしなやかに跳ねる。
なでしこジャパンのキャプテン。
イングランドリーグ、ムーンシティWFC所属。
中盤の心臓。華麗なる魔術師の異名がある長谷部唯選手だった。
彼女はランニングしながらリフティングをしていた。
足元でボールが絶え間なく跳ね上がり、右足、左足、膝、胸、頭。
一切落とさず、完璧なリズムで繋いでいる。
走りながら、ボールを落とさない。
その姿は、まるで重力から解放されたかのように軽やかで、でも確かな力強さがあった。
通称唯チャレンジというので、サッカーファンでは結構有名になってる。
彼女の独自のウォーミングアップで、自分のコンディションを確かめるためにやってるって聞いたことがあった。
今、目の前でそれが繰り広げられている。
ボールが足に吸い付くように跳ね返る音が、グラウンドに小さく響き渡る。
周りの選手たちが息を呑み、視線を彼女に釘付けにしている。
私が呆然と立ち尽くしていると、上野君が手を振った。
彼の声が、グラウンドの空気を切り裂くように届く。
「綿津見! 何ぼさっとしてるんだよ! 早く来い!」
あの件から一切話しかけてこなかったし、3年生は引退したのになぜか上野君がグラウンドに来ていた。
多分後輩の面倒でも来たと思ったけど、何やら様子が違うようだった。
「俊。何? 私はあんたの恋愛沙汰のせいで、せっかくのオフ潰して来たって言うの?」
長谷部さんの声が、軽やかに響く。
ポニーテールが汗で少し湿り、首筋に張り付いている。
彼女はリフティングを止めず、右足でボールを軽く蹴り上げながら、視線を上野君に向けている。
「違うって、結姉! ガチで凄いから!」
上野の声が少し焦ったように跳ねる。
ユニフォームの袖をまくり上げ、額の汗を拭う仕草が忙しない。
「それに帰国したら練習見てくれるって言ったじゃん」
唯はボールを膝で受け止め、胸に当ててから再び足元に戻す。
息一つ乱れず、言葉を続ける。
「それはあんた一人だと思ったから。まさか男女サッカー部両方とは思わないでしょ」
リフティングしながら会話してる。
しかもボールをほとんど見ていなかった。
どれだけ技術あるのよ。
ボールが足に吸い付くように跳ね返る音が、規則正しくグラウンドに響き渡る。
彼女の動きは流れるように自然で、まるでボールが自分の一部であるかのようだった。
汗が頬を伝い、陽光にきらめくのに、息遣い一つ変わらない。
私を呼んだのはあの人ってことは、先日対戦したのは、長谷部選手だったってこと?
私がグラウンドに入ると、彼女がこちらを見た。
ボールを足で弾きながら、軽く笑う。唇の端がわずかに上がりっていた。
「君だったんだ」
声は穏やかで、でもどこか試すような響きがある。
「俊が面白いやつがいるって言ってたの。なるほどね」
私は一礼した。
銀髪が肩に落ち、私は、彼女の視線を受け止める。
背筋を伸ばし、深く頭を下げる。芝生の感触がスパイクの底から伝わってくる。
そうして長谷部 唯さんが今日部活を見ることになった。
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