22話 謎の女性
ラウンジで、私は一人、ボールを足元に止めて荒い息を吐いた。
パチ、パチ、パチ。
静まり返ったフロアに、乾いた拍手の音が響いた。
「いいイメージ。でも、ドイツのトップDFなら、今の重心の浮き方を見た瞬間に君の軸足を刈り取ってるよ」
私が誰をイメージして練習してたか、わかったわけ?
声のした方に振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
160センチにも満たない小柄な身体。胸の起伏もなく、少年のような細いシルエットにも見える。
深く被った帽子のせいで顔はよくわからなかった。
帽子の隙間から見える瞳だけは、からかいの目ではなく真剣そのものだった。
「……誰?」
「通りすがりの、ただのサッカー好き。……ねえ、その170センチの身体、飾りにしておくには勿体ないね。私が壁の壊し方を教えてあげようか?」
カチンときた。他のことはどうでもいい。
私のサッカーが大したことないって言われた……?
私は苛立ちを隠さず、問い返した。
「それになんで、ドイツのチームだってわかったの?」
「サッカーを真面目にやってる人なら、すぐにわかるよ。君が今、右足に溜めた待ちの姿勢……あれはドイツの巨漢相手にしかやらない誘いだ」
女は淡々と、しかし確信を持って続けた。
「でも、例えばバイルンの連中はそんなの通用しない。君がエラシコに入る前に、その立派なガタイを物理的に潰しに来るよ」
実際、言われた通りだった。
さっきから私が抜く動作をしようとするたび、イメージの中のバイルンの選手に動きを止められた感じがして、どうしてもエラシコへ移行できなかったのだ。
図星を突かれた私は、言葉を失って彼女を凝視した。160満たない身長で言うだけならだれでもできる。
言うのとやるのでは違うというのに、これが知ったかぶりというものだろうか?
私はその声を無視をして次の練習に移ろうとした。
無視する私に彼女が追い打ちをかけてきた。
「女を売るオーディションなら世界でも通用するんだろうね。そのルックスだったら見逃さないと思うしね。でもピッチの上じゃただの標的だよ。重すぎるんだよ、その身体のパーツが……」
「……っ!」
カチンときた。自分の身体がハンデになることくらい、自分が一番わかっている。無駄に大きい胸や尻。
サッカーには邪魔なだけだ。
だから私は、体操選手みたいに身体を折れるまで柔らかくした。
その不利を埋めようと必死に練習もした。
100メートルだって12秒前半で走れる。
この身体を抱えて、誰よりも速く走り、飛び、しなやかに動ける自負があった。
それを、アスリートとして重荷だと切り捨てられたのは初めてだった。
言い返そうとした私の唇を、彼女の言葉が遮る。
「あぁ、どうせ胸とかお尻とか思ってるんでしょうけど、関係ないから。……貴女はその体の動かし方を知らない。だから鈍重だと言ってるの」
鈍重?
サッカーでここまで言われたのは初めてだった。
実際男子サッカー部にも無双したこともある。
同じ女子サッカー部で本気を出したらサッカーにならないことはわかっている。
そんな私が身体の使い方も知らない素人だと言われた。
私はムッとして、足元のボールを彼女の足元へ強く蹴り出した。
地を這うような鋭い本気のパス。受け手に高い技術を要求する、私なりの挨拶であり、初対面では絶対に出さないパスだった。
「……口だけなら、誰でも言える。教えてくれるって言うなら、見せてよ。その『壁の壊し方』とやらを」
彼女は、少年のように細い足で、飛んできたボールをまるで磁石でもあるかのように吸い付くように止めた。
嘘でしょ?
あれほど激しく回転していた弾丸パスが、彼女の足元に触れた瞬間、まるで魔法にかけられたように死んだのだ。
子供の頃、ビデオで擦り切れるほど見たガウジーニョやロベルト・バッジーニ。
あの一切の衝撃を無に帰す、綿毛のような柔らかいトラップ。
私が何度練習しても手が届かなかった理想が、今、目の前の小さな女性によって、呼吸をするように当たり前に行われていた。
「いいパスだね。いいよ。数分だけ、遊んであげる」
彼女が帽子の隙間から不敵に口角を上げた。
その瞬間、ラウンジの空気が一変した。160センチにも満たない小柄なシルエットから、バイルンの巨人たちよりも遥かに重い威圧感が膨れ上がってくる。
「来なよ。その重い身体で、少しでもボールに触れたら君の勝ちでいいよ」
「……いく」
私が一歩、踏み出す。
私は本気を出して、一気に彼女の懐を食い破りにかかった。
パワープレイでふっ飛ばして取って見せる。
このスピードとパワーだったら受けきれないでしょ。
そして謝ってもらう。
私は本気で取り組んできた事を。
肩が彼女の肩に届く、そう確信した瞬間だった。
彼女の身体が、氷の上を滑るように横へズレた。
フェイントですらない。ただの重心移動だった。
小さな身体が、私の突進するエネルギーを吸い込むように、私の視界から消えた。
「……遅い」
背後から聞こえる、冷徹な声。
すぐさま彼女からボールを渡された。
「あなたはディフェンダーじゃないんでしょ。得意なのは前線でしょ。」
彼女は帽子の下で不敵に笑うと、手のひらをこちらへ向け、クイックイッと指を曲げて挑発してきた。
なんかカチンときた。
私はボールを拾うと、軽くリフティングを織り交ぜて立体的に彼女をかわそうと試みた。
「サッカーは曲芸じゃないよ」
惑わされる様子もなく、彼女は影のようにぴたりとついてくる。
エラシコは先ほどのイメトレで見破られているはずだ。
なら、シザースで揺さぶってから、この1体格を利用して、強引に彼女を背負って反転する。
得意の、ルーレットで置き去りにする。
この回転に巻き込めば、小柄な彼女なんて置き去りにできるはずだ。
そう確信して、自分の体幹に全神経を集中させ、彼女の重心をずらそうとした
その瞬間だった。
ガッ、と鈍い衝撃を感じた。
まるで鉄の扉にでもぶつかったかのようだった。
なっ……なぜ、動かない……!?
背中に当たった彼女の肩は、岩盤のように微動だにしなかった。
私より10センチ以上小さいはずの彼女の一点に、私の回転軸が完全に捕まっていた。
力で押し通そうにも、彼女の体幹は私のパワーを柳のようにいなし、逆に私のバランスを崩しにかかってきた。
「ルーレット? 遊びなら100点満点。入り方も素敵だね」
至近距離で、彼女の声が耳を打つ。
「でも、今の重心の浮き方じゃ、世界じゃ足首ごと持っていかれるよ」
それから、私たちは交互に一対一を繰り返した。
だが、結果は無残だった。私の仕掛けるエラシコも、スピードを活かした突破も、すべては彼女の手の平の上で転がされているに過ぎなかった。
私はいつの間にか汗だくで、ラウンジの冷房が効いているはずなのに全身が熱い。
対して、彼女は呼吸一つ乱さず、額に汗さえ浮かべていなかった。
「まだ……まだ、なんだから……っ」
荒い息を吐きながら、私は這いつくばるようにして立ち上がろうとした。
けれど、限界だった。
「ガクッ」と、身体を支える膝が、情けなく折れて床に沈む。
「ガッツはいいよね。その体力じゃ、もう動けないでしょ」
彼女は呆れたように肩をすくめると、端に置いていた荷物の中から、手早くメモを書き、私の目の前に差し出してきた。
「この日時に、ここに来て。……君が、本気ならね。なかなか面白かったよ」
差し出されたメモを受け取ることしかできない私を置いて、彼女は悠然と背を向けた。
去り際、振り返りもせずに片手をひらひらと振りかざし、少年のように軽やかな足取りで、彼女は夜の静寂の中に消えていった。
負けた……私が?
どんな選手が相手でも、たとえプロが相手でも、自分なら通用する。どこかでそう思っていた。
おごりなんてなかったと思う。
高校になって私が入った試合で負けたことが無かった。
でも、今日は完全に負けた。
あんなに小さくて、華奢な身体の女性に、一切ボールが触れられなかった。
私は這い上がるようにして立ち上がると、這うようにして台所に立った。
家政婦としての仕事を再開し、夕食の準備を始める。
けれど、何を作ったのかさえ何も覚えていない。
五感のすべてが、あのラウンジでの数分間に囚われていた。
そのまま自分の部屋に戻ると、暗闇の中で夕方のことを反芻した。
どんなアイデアも、どんな技術も、私が命を懸けて磨いてきたすべてが、彼女のに跳ね返された。
「……っ……」
熱いものが込み上げ、私は枕に顔を押し当てた。
声を殺して、泣き出した。
きっと、少しでも声を出せば、帰宅した栞が気付いてしまう。
もう栞にだけは、知られたくなかった。
こんな私を見たら多分心配すると思う。
脳裏に焼き付いているのは、あの少年のように軽やかな、彼女の足取りだけだった。
私は渡されたメモを見た。
震える指先で、受け取ったメモをもう一度見つめる。
『七月XX日 十時 私立陵北高校 サッカーグラウンド』
え? ここは、私が通っている学校?
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
陵北高校って私が通っている学校だ。
あんな圧倒的な力を持つ女を見た覚えはない。
もし彼女が関係者なら、私を知らないはずがないのに。
明日栞に、当日や住む旨を伝えよう。
私は赤く腫れた目に少しだけ涙を浮かべ、枕を強く握りしめた。
次は、絶対に負けない。認めさせてやる。
「転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~」をお楽しみいただけましたか?
もし「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!
皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!




