19話S完 返事と回鍋肉の夜
今朝は朝から、落ち着かなかった。
カーテンのすき間から入る光が、床に細い線を作ってる。
時計の針の音がやけに耳についた。
昨日の返事を、綾さんが持ってくるからだ。
リビングのテーブルには、秋子さんが淹れたお茶の湯気がまだ残っている。
ソファの背に指を置いたまま、私は立ったり座ったりを繰り返していた。
「栞ちゃん、今からそんなに気を張ってたら、本人が来るまでに倒れてしまいますよ」
秋子さんはキッチン側に立って、いつもの落ち着いた声で言う。
水の音が止まって、蛇口の最後の一滴がコツンと鳴った。
「秋子さん。気になるのは仕方ないでしょ。秋子さんの予想ではどうなの?」
「私の予想ですが、確かに難しい子ではあります。でも栞ちゃんが言う通りの子なら、たぶんこの提案を受けると思いますよ。ただ、自分の殻に閉じこもっている子なら、きっと受けませんわ」
秋子さんの言葉に、胸の奥が少しだけほどけた。
部屋の空気がほんの少し、軽くなる。
「自分の殻?」
「私から見ても、殻が固い子ではあります。でも自己がないわけではありません。その証拠に、サッカーでは熱意を見せると聞きました。栞ちゃんとの会話は昨日しか知りませんが、それでも、かなり揺れていたのを感じました。悩みながらでも、一歩踏み込むと思います」
安心が、やっと遅れてやってきた。
私はどうしても、綾さんに一歩だけでも世界を広げてほしかった。
私はソファの端に腰を下ろして、膝の上で指を組み直す。
秋子さんの動きが視界の隅で静かに続いているのが、逆に落ち着かなかった。
「私からも聞いていいですか?」
「なに?」
「なぜ、そこまで綿津見さんを気にかけるんですか? 栞ちゃんは面倒見がいいですが、いつもなら、そこまで踏み込みませんよね」
「うん、そうだね。目の前で困ったり、相談してくれたら踏み込むけど、自分からは行かないよね」
秋子さんの目が変わった。
いつもの優しいお姉さんの目じゃなくて、この世界で生きるための冷たさをまとって、私を見つめてくる。
部屋の温度が下がったみたいに感じた。
「本音を言えば、気になるから。……この感情を何て言えばいいのか分からないけど、たぶん好きなんだと思う」
「好きとは?」
「たぶん恋愛的で、ヤバいとは思ってる。私の立場的に」
「同性だと分かってますよね」
「うん。理解してる。でも同性だから、この提案ができたと思う。異性だったら、それだけでスキャンダルになるから」
「苦しいですよ」
「そうかもしれない。でも、あの子が全部を諦めてるなら、その心の中に私が残れたら……それって素敵じゃない?」
「同じ屋根の下で暮らす。きっと身体を求めますよ」
「それこそ同性だよ」
「でも本能で求めますわ。そして栞ちゃんが理性で止めるのは、きついですわ。私としては、夏休みだけの契約で終わってほしいです」
「もし肉体まで求めたら、どうなると思う?」
「綿津見さんにとっては分かりませんが、栞ちゃんにとっては破滅のスタートとなり、会社としては非常な決断を取らないといけない時が来るかもしれません」
「そうだよね。私的には香織さんや秋子さんには家族以上の情を持ってるけど、ビジネス上ではそうもいかないもんね」
「ですので」
秋子さんは冷静を保っているのに、今にも泣きそうだった。
判断も決断もできる人だ。でも、根っこがすごく優しい人なのも分かってる。
私を実の妹みたいに扱ってくれてるのも、ちゃんと伝わってる。
「ごめんなさい」
「いいえ。私達も、貴女でだいぶ上り詰めて、一大芸能グループに発展しました。沢山の売れっ子もいますし、働いてくれてもいます。あなたが幼少の時から頑張ってくれたものだと思ってます。これは私達の恩返しでもあるんですよ」
「変なことが起こる世界だけど……いつも助けてもらってる。ありがとう」
「私から言えるのは、後悔のないようにしてください。あと失礼だけど、一応、綿津見さんの過去を調べようと思います」
「それも仕方ないよね。絶対に、過去に何かあるのがわかるから」
「何も知らなかったでは、何か起きた時に対応ができませんから」
「うん。ありがとう」
秋子さんがふっと時計を見た。腕時計のガラスに、窓の光が小さく反射する。
「そろそろ迎えに行きますね」
私も時間を見る。予定の時間が、もうすぐそこだった。
「もうそんな時間なんだ。迎え、よろしくね」
秋子さんは廊下へ出て、玄関の方へ向かった。ドアの開閉の音が遠ざかる。
私は落ち着かなくて、部屋をうろうろしたり、飲み物を飲んで誤魔化したりした。
台本を覚えようとしても頭に入ってこない。
ページをめくる指だけが動いて、文字が滑っていく。全部が空回りだった。
玄関の扉が開く音がした。
足音は二人分。なら、綾さんも来た。
答えは、どうなんだろう。
私はソファに座って、なるべく冷静に、扉が開くのを待った。
扉が開いて、綾さんが入ってくる。
廊下の明かりが一瞬、綾さんの影を長く伸ばして、すぐ消えた。
私は立ち上がって、綾さんの方へ向かった。
「綾さん……来てくれたんだ」
綾さんは鞄を置いて、頭を下げた。鞄の底が床に当たって、鈍い音がする。
「一月半ですが、働かせてもらいます。よろしくお願いします」
どんな気持ちで決めたのかは分からない。
でも嬉しくて、頬がゆるむのが分かった。
「うん、ありがとう。本当にうれしい」
私は席をすすめて、麦茶を渡して、隣に座った。
氷がカランと鳴って、透明な音が部屋に落ちる。
「まずは、ゆっくりして。明日から本格的に始まるね」
来たばかりで仕事をさせるのは悪い。そう思って言った。
「……栞。いえ、霧生さん」
名前で呼びかけようとして、言い直す。
それが珍しくて、少しだけ驚いた。雇い主の立場だから、ってことなんだろう。やっぱり真面目だ。
「ありがとう。助かります」
本当は、もう少し何か言いたい顔をしていた。
でも、出てきたのはその一言だけだったと思う。
「私の方こそ、綾さんがいてくれて嬉しいよ。あと、一応、今まで通りで栞でいいからね」
ずっと霧生さんとか栞さんで呼ばれるのは、いやだったから。
芸能人の私でも、雇い主の私でもなく、等身大の私を見てほしかった。
「ですが……」
綾さんが、後ろに控えている秋子さんの方をちらっと見た。
「基本、問題はありません。ただ、お仕事上で一緒に外に出る場合は霧生さんでお願いします。この空間での仕事の時は、普段通りの口調で構いませんよ」
秋子さんがそう言ってくれて、ありがたかった。
公私を分けてと言ったら、綾さんは完璧にやる。それは最初から分かってたから。
夕食は、私の提案で一緒に作った。
キッチンの照明が少しだけ黄色くて、まな板の上の影が柔らかい。
綾さんは、すごく不思議そうな顔をしていた。こういうのも楽しいって思ってほしかった。
綾さんが冷蔵庫を開けて、数秒だけ考えて、メニューを決めたらしい。
回鍋肉を作ると言われた時は、正直びっくりした。元がないと作れないと思っていたから。
私は言われた通り、野菜を切る手伝いをした。
包丁の音が一定のリズムで続いて、油の匂いが少しずつ立ち上がる。
綾さんと秋子さんと、会話をしながら料理を作るのは楽しかった。
綾さんの中にも、楽しいって気持ちが少しでも出ればいいなと思った。
出来上がった料理は、すごくおいしかった。
秋子さんも「ここまでおいしいとは思わなかった」と言ってくれて、それがまた嬉しかった。
秋子さんは料理が上手で、プロ顔負けだと聞いたことがある。
そんな秋子さんが認めるくらいなら、やっぱり綾さんはすごい。
夜、別室のベッドに横になる。シーツの冷たさが背中に広がって、部屋の音が遠くなる。
綾さんを大好きだとは思う。でも理性はちゃんとある。
肌を重ねたいとも思ってない。大丈夫だと思う。
これからの生活を楽しみにして、私は眠った。
第一部 栞パート完結
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