18話 誰かこの気持ちを教えて欲しい
今日は本当に長い一日だった。
二つのバイトが急になくなったこと。
それから、水無月芸能プロダクションから来た、栞のハウスキーパーの仕事の話。
部屋が静かすぎて、逆にうるさい。
冷蔵庫の低い音と、時計の秒針だけが妙に大きい。
机の上には、シフトのメモと、丸めたレシートと、いじったままのスマホ。
指先が冷たい。握っても握っても、落ち着かない。
頭が重い。喉の奥が詰まって、息が浅くなる。
考えようとすると、思考がずるずる滑っていく。
踏ん張りたいのに、足が空回りする。
栞は、なぜか私がピンチのときにいつも現れる。
私が熱を出したとき。
熱中症で倒れたとき。
上野君に襲われそうになったとき。
今回もそうだ。
思い出すだけで、胸の奥がざわつく。
熱中症のときなんて、視界が白くて、音が遠くて、身体が砂みたいに崩れていった。
誰かの声が聞こえた気がするのに、言葉が掴めない。
それでも、次に意識が戻ったとき、近くに栞がいた。
私が栞にしたことなんて、初めて会ったときだけだ。
あれ以来、迷惑しかかけてない。
なのに栞は、なぜか話しかけてくる。遊びに誘ってくる。
私の生活に、当たり前みたいに入ってこようとする。
拒否しても、ディフェンダーの壁をすり抜けるみたいに、私の心に入ってこようとする。
守ってきたはずなのに、簡単に抜かれる。いや、抜かれてるのは私のほうだ。
あの子が怖い。私にこんな感情がまだあったなんて、本当にびっくりしてる。
感情を素直に見せたら、そこに漬け込まれて傷つけられるのはわかってるのに。
あのとき、十分わかったはずなのに。栞を前にすると、自分がわからなくなる。
あの子が怖い。なのに、なぜか栞の前から居なくなりたくない。
この気持ちがわからなくて、自分を保てなくなる。
誰か教えてほしい。自分が怖い。
この恐怖の正体を、心の奥から叫びたい。
でも、叫んでも答えは出ない。
近所迷惑になるのもわかる。
だから声は飲み込む。飲み込んだぶんだけ、胸が痛くなる。
私は、もっとよく考えてみようと思った。
でも難解な学校の問題も、この問題に比べたら簡単な気がする。
学校のテストは答えがある。
でもこれは違う。正解がない。逃げても終わらない。
一番簡単なのは、あの子の前から居なくなればいい。
それはわかってる。
今回の提案を拒否して、栞に、もう私に関わらないでって言う。
それだけで以前の私に戻れるはずだ。
本当に戻れるの?
本当はわかっている。戻れるはずがない。
以前の時に戻れるはずがない。
記憶喪失にでもならない限り、忘れられるはずがない。
私は、この日、十数年ぶりに大声で泣いた。
声が割れて、息がひっくり返って、止め方がわからない。
涙が落ちる音だけが続いて、床に座ったまま動けなかった。
そうして私は、過去を思い出していた。
無邪気で幸せだった私から、私自身を作り変えられた、あの時の記憶へと。
父と母はすごく仲がよくて、私も大好きな両親だった。
たくさん遊んでくれて、愛してくれた。
家の中には笑い声があって、それが当たり前だと思ってた。
でも父が浮気をしたときに、すべてが壊れた。
父が浮気をして母に殺され、母が私を殺そうとした時、私はすごく泣いた。
泣き声が大きすぎて、外にいた人が気づいて家に入ってきて、私が保護された。
それも束の間で、私の目の前で母は自殺をした。
次の日から陰口をたたかれた。
幼稚園で友達だった子は、全員私から離れた。
視線が痛かった。背中が遠かった。
その日から私は、期待をすること、自分から求めることをやめた。
人とは最低限しか付き合わない。そうやって生きることにした。
私に残ったのは、父が買ってくれたサッカーボールと、あの時見たCMの楽しさだけだった。
ボールを蹴ってる間だけ、胸の奥が少しだけ軽くなった。
親戚中から腫物を触るみたいに厄介者の私を住まわせてくれたことには感謝している。
感謝しているのに、心はずっと冷たかった。
中学三年の時、従兄の兄からレイプをされた。そのときの私は、ただ体が動かなくなって、
頭の中が真っ白になって、でもどこかで冷静に考えていた。
人間って、結局動物と同じなんだなって。性欲が湧いたら、抑えられない生き物なんだなって。
だから仕方ない、って思った。
親戚の家を転々として、みんなに迷惑をかけてる。
そんな私が、拒否する資格なんてない。私は生きているだけで厄介な存在だから。
だから私は、これ以上迷惑かけないために全部を諦めた。
されるがままに、声を殺して、目を閉じて、ただ終わってくれるのを待った。
それしかできなかった。
この時も家にいた従姉の姉が発見してくれて、通報され問題になった。
このようなこともあり、いとこの家を出て、国の厄介になった。
でも国もいつか私を裏切るかもしれないと思ったので、金銭の援助は拒否をした。
それを期待しすぎて、何かあった場合無理となったらどうにもならないから。
役所の人は親身になってくれたけど、私は妥協をしなかったので、私から提案をした。
「学校にも行きます。成績も落としません。だからバイトをして自立します」
多分、世間を知らない小娘が言ったことで、そんなことは無理だと思ったのかもしれない。
それでも私の要望は受理されて、今このように生活をしている。
なのに、それが崩されようとしている。
結局私がやったことは、自分勝手で独りよがりだったのかもしれない。
自立をしてると言えば聞こえはいい。
でも働いてる場所が潰れるってわかった瞬間、無力すぎるとさえ思った。
自分の足で立ってるつもりだったのに、足元はこんなに脆い。
私は人を愛する気持ちがわからない。
従妹の兄も上野君も、愛してるから、好きだからと言ってくれた。
だからあんなことをするのが、愛なのだろうか。
父みたいに愛してる人を裏切って他の人と一夜を共にするのも愛なら、裏切られたショックで愛する家族全員を殺そうとする母の気持ちも愛なんだろう。
両親を無垢な気持ちで愛してたのも愛だと思う。
なら栞はなぜ私にこんなに手を差し伸べる?
愛ではないと思う。
愛とは異性の間のみに発生して、子孫を残すために作られた仕組みだ。
それでも栞に手を差し伸べられた時、熱中症の時、私はうれしかった。
サッカーをしている時とは違ううれしさだ。
胸の奥に、あったかいものが落ちてくる感じがした。
それが怖い。なのに、もっと欲しい気もする。
私はどうすればいい?
栞は、凄いと思う。いきなり表れて私の心を乱してくる。
それは不愉快なはずなのに、同時に私の心にも暖かさが入ってくる。
両極端の気持ちが私を乱してくる。
どうすればいい?
何度も何度も同じ質問をして堂々巡りだ。
答えが出ないのに、止まれない。
私は……覚悟を決めた。
自分のために、夏休みの間だけ、栞の提案を受けることにした。
何もしないまま元に戻ろうとしても、戻れないのはわかってる。
だったら一度だけ、自分の足で踏み込んでみよう。サッカーの時みたいに。
新聞配達の社長には夏休みの間だけ休みをもらうようにした。
私が頭を下げた時に肩を軽く優しくたたいて、
「自分の思うようにやってみるのもいい」
そう言ってくれた。
私は、栞の家に行く準備をした。
荷物をまとめて、鞄の持ち手を握り直して、また握り直した。
水無月さんの迎えの車を待った。
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