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Liebe (一部完)  作者:
5章 綾の不幸、栞の提案

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17話A 提案

 栞に手を掴まれた瞬間、反射で振りほどきたくなった。

 指が絡むみたいに強くて、逃げる隙がなかった。あの日みたいな、無理やりじゃないのが余計に腹立つ。優しさの顔をして、勝手に踏み込んでくる。


「……どこ行くの」


 聞いても栞は、少しだけ困った顔をして、でも手は離さない。

 気づいたら、見上げるほど大きいマンションの前に立っていた。ガラスとコンクリの塊みたいで、外の暑さと別の世界に見えた。

 エントランスを抜けて、エレベーターに乗る。上がっていく表示が速すぎて、胸の奥が落ち着かない。

エレベーター横の案内板に、最上階は四〇階と書かれていた。三十八階で止まった。

 廊下は静かで、足音がやけに響く。栞が鍵を開けて、扉がすっと開いた。

 中は、きれいだった。生活感が薄いのに、冷たいわけじゃない。広さだけが先に目に入って、ここが自分のいる場所じゃないって、勝手に思わされた。

 リビングに通されると、見知らぬ女性がいた。すらっとして、動きが無駄なくて、目だけで空気を変えるタイプに見えた。


「まずは、飲み物用意するね」


 栞がそう言うより早く、その人が手際よくグラスを出した。冷たい飲み物が置かれて、軽く会釈して、すぐ席を外した。


 残された空間が、急に重くなる。栞が小さく息を吸って言った。


「あの人は水無月秋子さん。私のマネージャーさん」


「……ふうん」


 時間が時間だから仕事場から送ってもらったって事かな?

 頭の中で言葉が尖っていくのが分かる。栞が目の前にいるだけで、感情が揺れて、勝手に腹が立つ。


「何でこんなところに連れてきたの?見せびらかすため?」


 言ったあとで、自分の声が意地悪だって気づいた。でももう戻せない。栞は、怒らなかった。むしろ苦しそうに笑って、肩を落とした。


「たまたまなんだけどね。今日、お客として綾さんが働いてるファミレスでご飯食べたの」


「……」


 視線を外さないで見ていると、栞の指先が少しだけ落ち着きなく動いた。


「信じてもらえるかわからないんだけど、トイレに行ってるときに、綾さんの同僚の雑談が聞こえたの。ファミレス、今月でなくなるって」


「それ知って何?栞には関係ないよね」


 言い切るみたいに返した。これ以上、触られたくなかった。

 栞は少し黙って、それから、迷いを捨てるみたいに顔を上げた。


「綾さん相手に腹の探り合いしたくないから、単刀直入で言うね」


 嫌な予感が、背中を這った。栞は、どこまで知ってるんだろう。


「今日の夕刊にね。綾さんが働いてるガソリンスタンドの親会社が事業の整理をするって記事があったの。綾さんの店も、今月中に閉店になるってことも、もう出回ってる」


 その言葉が、胸の奥に突き刺さる。視界が一瞬、狭くなった。


「だから何?栞には関係ないじゃない!」


 自分でもびっくりするくらい大きい声が出た。喉が痛い。こんな声、何年ぶりだろう。

 栞は少し目を見開いて、それでも私の目をじっと見つめていた。


「私、綾さんとは友達だと思ってる。綾さんは違うっていうかもしれないけど」


 言葉が、まっすぐすぎて腹が立つ。優しさって、こういう形で殴ってくる。

 私は黙って栞を見た。次に何を言うのか、予想がつかない。


「私は綾さんの過去、何も知らない。どうして一人暮らしなのかも、家族がどうなのかも。疑問はあるよ。でも、人には色々な事情があると思う」


 栞は、そこで一度息を吸った。


「綾さん、これからどうするつもり?」


「栞に関係ないでしょ」


「うん、関係ない。でも心配はする。勝手だけど、友達だから」


「友達って……たまたま偶然で関わっただけでしょ」


「うん、そうだね。それでも私は、綿津見綾さんと友達になりたいと思ったの。理由はないよ。友達になるのに理由はいらないから」


 胸が、変にきゅっとなる。

 それでも、押し返したくて、言葉が先に出た。


「友達の押し売りをする栞は、どうしたいの?」


 栞は、少しだけ笑って、でもその笑いが痛そうだった。


「押し売りか……そうだよね」


 ひどいって分かってる。分かってるのに止まらない。

 仕事とか、立場とか、そういうの関係なく心配してくれてる相手に、何やってるんだろう。

 栞は視線を落として、それから、静かに続けた。


「勝手な推測だけどね。もし身寄りがないとか、保護者がいない状態なら、給付型の奨学金を申請できるから、高校は通えると思うの。本来なら、こんなにバイトしなくてもいいようになってるのに、綾さんがそれを申請してないのが不思議で」


 そこまで言ったところで、扉の向こうから足音がした。

 さっき席を外した女性が戻ってくる。重苦しい空気が変わったような感じがした。


「母……いえ、社長から許可を得ました。栞さん、その条件でいいそうです。ここからはわたくしがお話しますが、よろしいですか?」


 その人は私と栞に向き直って、落ち着いた声で続けた。


「ここからは、わたくしがお話します。よろしいですか?」


 栞はどうぞ、という感じで軽くうなずく。私も、聞くだけは聞いてみようと思った。断るのはいつでもできる。


「改めて。水無月プロダクションでマネージャーをしております、水無月秋子と言います。よろしくお願いします」


 水無月。珍しい名字だ。プロダクションの名前も同じだし、さっきの「母……社長が」という言い直しで、秋子さんが社長の身内なんだろうなと思った。

 水無月さんは、まっすぐ私を見る。


「綿津見さんがよろしければ、わたくしたちの会社で働きませんか?」


「は?」


 反射で声が出た。


「私は芸能人になるつもりはない。愛想も悪いし、向いてないと思う」


 秋子さんは表情を崩さない。


「提供するのは、芸能活動ではありません。霧生栞さんの家で、ハウスキーパーをしてほしいのです」


「……お手伝いみたいなもの?」


「はい。忙しいと食事を取らない日がありまして。先日は、綿津見さんにご迷惑をかけたと思います」


「……あの時、そういう理由があったんだね」


「しかも、それを知られたくないから黙っていてほしいと言い出す始末です」


 秋子さんの視線が栞に刺さる。栞はばつが悪そうに苦笑いでごまかしていた。

 仕事がなくなる自分にとって、渡りに船みたいな話なのに。

なんで、ここまでしてくれるのか分からない。


「水無月さん、一ついいですか?」


「はい何なりと、ご質問ですか?」



「栞の言い分だけど、友達だからって相談したんだろうと思う。そこまでは私でもわかります。でも、利益が発生しないのに会社が動く理由が分かりません。なんで私にここまでしようとするのでしょうか?」


 水無月さんは少しだけ目を細めて、言葉を選んでいる感じに見て取れた。


「はい、綿津見さんのお食事は健康的でいいとお聞きしましたので、安心できる点が一つです。でも本音といたしましては、こちらですね。恩返しをしたいと思っているんです」


「恩返しをしたいんです。栞を保護していただいた件で」


「恩返し?」


「通常なら警察に通報され、保護される形だったでしょう。そうなると、マスコミの格好の材料になる可能性がありました。栞や会社のイメージに傷がつきます」


 私は、思わず眉を寄せた。


「でも私は霧生さんから、もうたくさん返してもらいました。家に滞在してた時、私がダウンしたらバイトを代わってくれたし、熱中症で倒れた時も助けてくれました。それで恩は返されたと思ってます」


 水無月さんは、そこで首を横に振った。


「綿津見さんと栞の間ではそうですよね。ですがこちらとしては、綿津見さんに恩を返したいと思ったのです。かといってお金で解決っていうのはお互い納得がいかないと思うので、綿津見さんに働く場を紹介する。今回はそのような形の方がお互い納得ができるだろうと、社長が判断いたしました」


「引っかかるところもありますが、理由はわかりました。契約内容をお聞きします」


 水無月さんは、準備していた紙を差し出した。


「こちらを読んでください」


 私は渡された紙をしっかり読んだ。

 提示された条件は、想像以上に破格だった。

 期間は夏休み終了まで。それ以降の継続については、双方の合意により決定する。給与は月額二十万円とし、八月分と九月の中途分を合わせ、九月二十五日に一括で三十万円が支払われる。

 額面通りだと、ここから所得税が引かれるから、手元に残るのは二十八万ぐらいだと思う。

 住み込みが条件なのは、栞の不規則なスケジュールに対応するためだろう。だが、契約書にははっきりと『午後二十二時から午前五時までの労働は一切禁ずる』と記されていた。仕事内容は食事の準備と清掃、洗濯。それ以外の時間は、自由時間として認められるという。

 普通にやっても三食の食事、清掃、洗濯は、4.5時間あればすむ話だ。もちろん買い物もしたりしないといけないので実際はもう少しかかるかもしれないが。


「一つ、付け加えるのを忘れていました」


「……何ですか?」


「一応綿津見さんには栞のスケジュールは渡しておきます。もし寝坊していたら起こしてあげてもよろしいですか?」


「ちょっと秋子さん。子供じゃない。一人で起きれる」


 栞がむっとして言う。秋子さんは、あっさりと栞を見た。まるで仲のいいしまいを見ている気分になってくる。

 それにしても、いろいろと頭が追いついていなかった。

 確かに助かる。すごく助かる。だけど、簡単に受け取っていい話なのかも分からない。

 私は紙を揃えて、静かに言った。


「今日はいろいろありましたので、明日には返事したいと思いますがよろしいでしょうか?」


「もちろん。いい返事がもらえると嬉しいです」


 私は立ち上がって、栞を見た。


「栞」


「何?綾さん」



「いろいろ気にかけてくれてありがとう。でも、さすがに参ってる。今日は帰る。そっちがよければ昼あたりに来て返事する」


「うん、わかった。夜遅いから送っていくよ」


「自転車があるから一人で帰るよ」


「なら今日は車で帰って、明日断ってもよろしいのでお迎えに行きますよ」


 秋子さんがそのように妥協案なのかわからないが提案をしてくれた。


「迷惑じゃありませんか?」


「先ほどみたいに考え事をなさって運転される方が心配ですわ。それか今日はここにお泊りいたしますか?部屋は空いておりますので」


「帰らせてもらいます。何もない部屋かもしれませんが、もし仕事を受けるのであれば、身支度の整理もしたいので」


「了解しました。ならお送りいたしますわ」


「迷惑おかけします」


 私は、そう言って頭を下げ家まで送ってもらった。

明日の昼までに頭を整理して、きちんと答えを出そう。

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