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Liebe  作者:
第1章 出会い

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2話A 解けない熱、冷めない予感

 腕の中に伝わる重みは、ひどく頼りなかった。

大雨を吸い込んだ彼女の服は、ずっしりと水分を含んでいるはずなのに、抱きかかえた瞬間に感じたのは、まるで「吸い込んだ雨水よりも軽いんじゃないか」という錯覚だった。


 私は彼女を自分の部屋に連れ込んだ。

まずは、濡れた服を脱がせなければならない。

このままでは風邪を引いてしまう。

それだけが理由だった。しかし、指先を動かしたその瞬間、心拍が不自然に跳ねた。


 ……綺麗だ


 ほんの一瞬、呼吸を忘れて彼女に見惚れてしまった。

透き通るような白い肌、整った顔立ち。

こんな感情が自分の中にまだ残っていたことに、激しい動揺を覚える。

ここ数年、何を見ても何をしても、私の心は常に凪いだままだったはずなのに。


 一体、誰なのだろう、この子は。 後ろめたさを感じながらも、手がかりを探るために持ち物を調べた。

けれど、彼女の身元を証明するものは何一つ見つからなかった。


 熱は少しあるようだったが、深刻なものではない。

私は枕元に書き置きを残し、手早く雑炊を作ると、いつものように家を出た。


 学校の席に座っても、視界に入る黒板の文字は頭を素通りしていくばかりだ。

ふと、自分でも信じられないような問いが頭をよぎった。

……なぜ、私は警察や病院に連絡しなかったんだろう


 いつも通りの私なら、迷わず電話を手に取っていただろう。

家に取られるような金目のものなんてないし、命に別状がないなら、それでいいか。

そう自分を納得させようとしたが、心のどこかで、あの一瞬奪われた心が関係あるのではないのかと思った。


 今日は幸い、放課後に予定はない。

いつもなら部活に顔を出すのだけど、さすがに名も知らぬ病人を一人残していることが気になった。

私は最短ルートで買い物を済ませ、アパートへ急いだ。


 ドアの前で立ち止まり、鍵がかかっていることを確認する。

……まだ、中にいる。 その事実に、胸の奥で小さな安堵が広がった。

鍵を開け、一歩足を踏み入れた瞬間。


「お帰りなさい~!」


 鼓膜を震わせるような、弾んだ声が部屋の奥から響いた。

不意を突かれ、心臓が大きく跳ねる。

自分の部屋で、自分以外の誰かに迎えられるなんて、初めてだった。


「……元気そうだね」


 私は動揺を悟られないよう、努めてそっけなく、感情を押し殺した声で返した。

視線の先には、昨日の死にそうな青白さが嘘だったかのように、表情を輝かせた少女が立っていた。


「ところで、あなたは誰?」


「え!! 私を知らないの?」


 彼女は心底信じられないといった様子で、丸い目を見開いた。


「知らないし、興味もない。……ただ、名前がないと呼ぶのに不便だと思っただけだ」


「私って、結構有名だと思ってたんだけどなぁ……」


 彼女は最後の方は小声で、何やらぶつぶつと独り言をこぼしている。


「まぁ、言いたくないなら別に構わないけど」


「えっと、助けてくれてありがとう。私の名前は、(しおり)だよ」


「そう」


 名前さえ分かれば、それ以上の深入りは不要だ。  

私はそのままキッチンへと向かった。

背後から「え、それだけ~!?」という、心底不満げな声が追いかけてくる。


「何が?」


「普通、何であんな所にいたの?とか、色々聞くことあるじゃない!」


「別にない。興味がないから。……ただ、私の目の前で最悪な結末(こと)になられたら、目覚めが悪い。それだけで助けたまで」


 私はそのままキッチンに立ち、夕食の準備を始める。  

彼女は、暇そうに部屋を見渡し、不満げに口を尖らせはじめた。


「ここって、テレビもないの~?」


「必要ないから」


 改めて彼女の視線を追うように部屋を見渡すと、私の部屋はひどく味気ないかもしれない。  

テレビも、音楽を聴くデバイスも何もなかった。

女子高生の部屋というより、最低限の生活機能だけを詰め込んだ部屋だった。  

あるのは、使い古した勉強机と、小さなテーブル、ベッドにタンスそれだけがこの部屋にある。

生活に困らないからそれでいいんだけど。


「そうそう、雑炊ありがとう。昨日から何も食べてなかったから、すっごく美味しかった! いい奥さんになれるね~」


「……興味がない」


 私は会話を打ち切るように、テーブルに夕飯を並べた。

胃に優しい野菜のポトフと、柔らかく炊いたご飯。

「食べれる?」と尋ねた。


「え!これお姉さんが作ったの?」

彼女は驚いたように訪ねてきたけど、見ればわかるのに何で聞いてくるのかわからなかった。


「ねえ」


「なに?」


「なんで、こんなにしてくれるの?」


 スプーンを止めて、彼女が真っ直ぐに私を見てくる。

その瞳は、真剣そのもので、どこか私を試すような色を含んでいた。


「さっきも言ったはず。知った以上は、何かしないと後味が悪い」


「でも普通なら、病院とか警察とか……」


「朝早かったから。それだけ」


 本当は、それだけじゃないことくらい自分でも分かっていた。

けれど、言葉にする勇気も方法も、今の私にはなかった。


「お願いがあるんだけど」


「なに?」


「少しの間……何も聞かずに、ここに置いてほしいの」


 唐突な申し出だった。

普通なら、警戒すべき場面だ。見ず知らずの他人が、私の生活圏に居座ろうとしている。


「別にかまわない」


 私の即答に、今度は彼女の方が呆気にとられた顔をした。

何を考えているんだ、このお姉さんは。彼女の瞳には、そんな困惑がありありと浮かんでいたように見える。


「……なぜ、聞かないの?」


「興味がないから。居たければいればいい。帰りたくなったら帰ればいい。私には関係ないことだし」


「いやいやお姉さん、関係あるでしょ! ここ、あなたの家だよ?」


どちらが家主か分からないようなツッコミを入れられ、私は少しだけ眉を寄せた。


「なぜ? 確かにここは私の家だけど、病人を外へ放り出すほど、人でなしではないつもりよ」


「あ~……そういう意味。でも普通は聞くでしょ? 『別に』とか『関係ない』って突き放すのは、ちょっとやめてよ」


「……世の中の『普通』というのは、そんなものなの?」

一般常識にしろ普通というのは基準がわからない。そんな物はすぐに変わるのだから。


 私の問いに、彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。


「変わってるなぁ、変なお姉さん」

屈託のない笑顔。その笑顔になぜか見入ってしまう。


「お姉さん? 見たところ、そんなに年齢は違わないと思うけど」


「私は18歳。一応高校2年生だよ」


「……なら、私より一つ上だけど、学年は同じだね。私は17歳」


「えっ!? てっきりOLさんだと思ってた!」


 彼女は私を上から下まで見ながら、心底驚いたように声を上げた。


「……まあ、個人差はあると思う」


 老けて見られることには慣れているつもりだったが、同年代にまでそう思われていたのは意外だった。

けれど、こうして年齢を教え合ったことで、張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけ柔らかく(ほど)けた気がした。


「なら、親御さんが帰ってくるんじゃないの? 私、怒られちゃうかも」


「私は一人暮らしだから。気にする必要はないよ」


「ふ~ん……」


 彼女は意外そうに、けれど深くは追求せずに頷いた。

1DKの部屋なのに複数人が暮らしてると思ったのだろうか?変なことを聞く

食事が終わると、私は彼女の顔色を改めて伺った。頬の赤みは引いているが、まだ油断はできない。


「まだお風呂は無理だろうから、身体を拭いてあげるよ」


「いやいや! 自分でできるから!」


「……熱がぶり返して、私の手間が増えるのは御免だから。そうなったら意味がないでしょ」


 何でそんなに拒否をするんだろう?それでも放っておく気にはなれなかった。


「そう言われたらそうだけど……もしかしてお姉さん、そっちの気があるとか?」


「そっちの気というのは知らないし、そもそもお姉さんでもない」


「だって~、名前知らないんだもん」


 そういえば、まだ名乗っていなかった。

忘れていたじゃないけど、そのタイミングがなかった。


綿津見(わたつみ) (あや)。それが私の名前だよ」


「改めて、私の名前は霧生(きりゅう) (しおり)。よろしくね、綾さん」


 彼女はいたずらっぽく笑って手を差し出してきた。

けれど、私はその温もりを拒むようにスルーして、お湯を張った洗面器を用意した。


「話がまとまったなら、身体を拭くよ」


「いやいや、全然まとまってないから! 一人でやるから、本当に!」


 必死に抵抗する彼女に、最後は私が根負けした。  

お湯を染み込ませたタオルと、着替え用に自分のスポーツジャージ、それにシャツを渡す。

彼女は「助かった~」とこぼしながら、そそくさと浴室へ向かっていった。


 ……珍しく、人と話している気がするなぁ。


 静かになった部屋で、私は自分の心拍音を聴いていた。  

なぜだろう。興味などないはずなのに、閉まった扉の向こう側にいる彼女のことが、気になって仕方がなかった。


しばらくして、浴室から彼女が戻ってきた。


「綾さん、ありがとう。……でも、ズボンもシャツもぶかぶかだよ」


 立ち上がって彼女を見る。

身長160cmに満たない彼女が、170cmを超える私の服を着ると、袖も裾も大きく余っていた。

まるで子供が親の服を借りているような、そのちぐはぐな姿。


「それしかないから。……着ていた服は、後でクリーニングしておく。……なら、次は私がお風呂に行ってくるから」


 私はそのまま浴室に向かった。

背後で「いってらっしゃ~い!」という楽しげな声が、いつまでも耳に残っていた。

何がそんなに楽しいのだろうか?とても不思議な子だった。


 お風呂から上がると、待ち構えていた栞の質問攻めにあった。  


「綾さん好きな食べ物って何?」


「別にないけど、食べれたらそれでいい」


「ならさぁ趣味は?」


「ん~、特にない」


「なら休日は何をしているの?」


「寝てる」


 私は、まるで学校の授業で指名された生徒のように、淡々と事実だけを返していった。

最後には栞が「はぁ……」と大きなため息をついた。


「せっかくのガールズトークが台無しだよ、綾さん。答えが全部『別に』ばっかり!」


 本当のことを言って何を怒っているのか?

まったく変な子だよ

不満げに頬を膨らませる彼女を横目に、私は深夜の問題を口にする。


「栞。君は病人なんだから、布団で寝たらいいよ」


「綾さんはどうするの?」


「私はそこらへんで寝るから、気にしなくていい」


「いやいや、そんなわけにいかないでしょ!」


 彼女はなぜか食い下がってきた。

もしかして、まるで子供をあやすような私の態度が気に入らないのがいやなのか?

病人なんて子供扱いなんて普通なのに、全く面倒だ。


「なぜ? 栞はまだ病み上がりだ。私は健康体だよ。布団は一枚しかない。幸い、明日の朝は予定がないから、少し体が痛むくらい問題ない」


「常識的に見て、そんなことできるはずないよ!」


 ふ~ん常識ね。


「なら聞くけど、『常識的』に見て、雨の朝に倒れていたり、理由も言わずに数日泊めてくれなんて言う人間がいるの?」


 理詰めで返すと、彼女は「う……」と言葉を詰まらせた。


「そりゃそうだけど、気にするじゃん。普通」


「私は気にしないと言っているよ」


「じゃあ……もし家主の綾さんがそんなところで寝るって言うなら、私も布団は要らない」


 そう言って、彼女は本当に床に座り込もうとした。  

いつもの私なら「好きにすればいい」と突き放していただろう。

けれど、なぜか言葉が詰まった。自分でも理由の分からない戸惑いが、胸の奥で渦巻く。


 私が黙り込むと、栞は私の顔をじっと見つめ、なぜか急に顔を赤くした。


「……なに、その顔。不意打ちだよ、綾さん。もじもじしちゃって、可愛すぎるんだけど」


「もじもじって何?あなたが聞き分けないからどうしようかって考えてるだけでしょ」


「う~、私、やっぱり布団で寝ないと風邪が悪化する気がしてきた」


「なら、さっさと寝ればいい」


「でも、綾さんが気になって眠れないから、やっぱり悪化しそう。……ねえ、一緒に寝るのはどう?綾さん、もしかして『そっちの人』なの?」


「そっちの人?」


「女の子が好きとか」


「……興味がない。そういうの」


 どこまでも噛み合わない会話。このままでは堂々巡りだ。


「はぁ~……わかった。一緒に寝ればいいんでしょ」


 このままの会話が永遠続いても面倒だから折れた。

狭い布団に二人。彼女の体温が伝わってくる距離に、一瞬だけ緊張が走る。

けれど、昨夜からの不規則な生活と、慣れない「他人との対話」で、私の体力は限界だった。

横になった瞬間、深い眠りが意識を塗りつぶしていった。

「Liebe」をお楽しみいただけましたか?


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皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!

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