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Liebe (一部完)  作者:
5章 綾の不幸、栞の提案

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16話A 突然の解雇

 夏休みが始まった。

 カレンダーの上では特別な響きのある言葉だけど、私の生活は特に変わらなかった。旅行の予定も、誰かと出かける約束もない。結局、いつも通り昼からファミレスのアルバイトが入っていた。

 制服に着替えて鏡を見る。少し色あせたシャツと、何度も洗ったエプロン。それを身に着けると、自然と気持ちも仕事用に切り替わるけれど、胸の奥にはどこか重たい感覚が残っていた。理由ははっきりしない。ただ、なんとなく気分が沈んでいた。

 家を出ると、外はもう完全に暑かった。空気はもわっとしていて、歩いているだけで肌にまとわりつく。日差しも強く、数分歩いただけなのに、じわっと汗が滲んでくる。


「もう夏休みなんだな」と、そんなことを今さら実感した。


 店に入ると、その空気はさらに濃くなった。さすがに夏休みということもあり、店内は学生客で溢れていた。制服姿のまま来ている子、部活帰りらしい集団、楽しそうに騒ぐ声。いつもよりも少しだけ、ざわざわしている。

 昼のピークは本当に慌ただしかった。オーダーを取り、料理を運び、空いた皿を片付けて、また次の席へ。足を止める暇もなく、頭の中では常に次の動きを考えている。笑顔を作って、声を出して、ミスをしないように気を張る。

 気が付けば、時間はあっという間に過ぎていた。時計を見る余裕もなく、ただ流れに押されるように働いていたせいか、息をつく暇すらなかった。


 一番暇になる14時頃、店長に呼ばれた。

 来月のシフトはもう提出していたはずだし、何かミスでもあったのだろうか、と一瞬考える。

 スタッフルームへ向かう途中、ふと気付いた。私の前にも、何人かスタッフが同じように呼ばれていた。そして戻ってくるとき、どこか雰囲気が違った気がする。笑顔がぎこちなかったり、無言だったり。胸の奥に、嫌な予感が広がった。

 スタッフルームに入ると、店長はいつもより気難しそうな表情で座っていた。席を勧められ、私は素直に腰を下ろした。


「言いにくい事なんだが」


 その一言で、空気が変わった。

普段の気さくな店長とは明らかに違う。

私は何も言わず、ただ続きを待った。


「実は親会社の意向で、このお店がなくなることに決まりました」


 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。

 店が、なくなる?冗談だと言われるのを待つみたいに、私は黙ったまま店長の顔を見ていた。


「えっと……いつですか?」


 やっとそれだけを絞り出す。


「急な話で悪いんだけど、今月いっぱいでこの店を閉じることになった」


 今月いっぱい。つまり、あと10日ほどで、この場所はなくなる。


「……わかりました」


 自分でも驚くほど、冷静な声だった。


「えっと、驚くとか、何か言うことはないの?」


「実際、驚いてはいます。でも……何か言うことって、例えば?」


「いや、店がなくなったら給料はどうなるのかとか、このバイトで生活してるのに、とか」


 少し考えてから、私は答えた。


「そうですね。給料はどうなりますか?それとこの話を店長にしても、困らせるだけですよね。どうしようもできないってことくらい、学生でもわかりますから」


「規定通り、30日前に通達できなかった分については、本部から補償が出ることになってる。支払いの時期は追って連絡があるはずだ」


「店長や社員さんはどうなるんですか?」


「僕は社員だからね。別の店舗に異動かな。この先どうなるかは、正直わからないけど」


「そうですか……。わかりました。残り少ないですが、よろしくお願いします」


 一礼して、私は席を立った。

次のスタッフと入れ替わりで、スタッフルームを出る。


 実際には、かなり困る。

頭では理解しているつもりでも、改めて考えると現実は重かった。

 このバイトだけで、月に4万円は稼がせてもらっていた。

全部の仕事を合わせると、月13万円ほどになる。

その金額があったから、生活保護の金銭的な支援は受けずに済んでいた。

 月9万円でのやりくり自体は、一応できていた。 

 無駄な出費を減らして、何とか回してきた。けれど、これからはさらに削らなければならない。削れるものが、まだ残っているのかどうかも、正直わからなかった。


 実際にケースワーカーの人にも、後日相談しなければならないだろう。今すぐどうこうなるわけではないが、先延ばしにできる話でもない。頭の中でそんなことを考えながら、私は午後の仕事に戻った。


 夕方からはガソリンスタンドのバイトだった。

制服に着替え、気持ちを切り替えようとした矢先、また店長に呼ばれる。

 すごく既視感があった。でも、まさか同じことが起きるわけがない。そう思いたかった。


「ごめんな。本当はもっと早く伝えないといけなかったんだが、本部から人員削減の通達が急に来て」


 嫌な予感が、確信に変わる。


「……いつですか?」


 自分の声が少し遠く聞こえた。


「規定通り、30日前に通達できなかった分については、本部から補償が出ることになってる。支払いの時期は追って連絡があるはずだよ」


 頭の中で何かが弾けた。理解した瞬間、視界が一気に狭くなる。


 私は、さすがに絶望に打ち上げられた。ここで、収入の約7割が一気に無くなった。ファミレスと合わせて、ようやく成り立っていた生活が、音を立てて崩れた気がした。

 でも、あたりまえだけど、店長に言っても仕方ないことだった。この人も命令されただけで、どうにもできない。怒りを向ける先なんて、どこにもなかった。


「……わかりました」


 それだけ言って、私はその場を後にした。


 どうやって店を出たのか、正直あまり覚えていなかった。更衣室で何を考えていたのかも曖昧で、気が付いたら私は自転車に乗っていた。

 ペダルを踏みながら、ただゆっくりと道を走っていた。急ぐ理由も、立ち止まる理由も見つからない。速くもなく、止まるでもなく、行き先も決めないまま、身体だけが前に進んでいた。

 周りの景色は見えているはずなのに、どこか現実感がなくて、音も遠い。考え事をしているようで、何も考えていなかった。その途中で、見知った人に会った。


 気づいた瞬間にはもう遅かった。

 自転車でUターンなんてできる距離じゃなくて、私はそのまま通り過ぎようとした。


「綾さん」


 その瞬間名前を呼ばれて、思わずブレーキを握ってしまった。自転車がきしむ音を立てて止まり、私は片足を地面につけた。

 次の瞬間、栞がこちらへ駆け寄ってくるのが視界に入った。何か言われる前に、ハンドルに掛けていた私の手を外されて、自転車を脇へ押しやられる。


「ちょっと、来て」


 そう短く言われて、今度は手首を掴まれた。抵抗する間もなく、私は自転車をその場に残した。そのまま栞に引かれて歩き出していた。


 こうして私の夏休みが始まった。

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