13話A 灰色のマット
今日の部活は、久しぶりにいつもと違う空気が流れていた感じ。昔はるか昔の楽しかった、あの純粋だった私を思い出すような感覚を覚えた。
夕方のグラウンドは、柔らかな陽光に包まれていて、女子部の仲間たちが、汗を流しながらボールを追いかけている。私は、いつものように、ピッチの中央でボールを待っていた。
パスが来る。トラップして、視界を広げて、次の動きを予測する。パスを出した。味方が走る。でも、少し遅れて、ボールがカットされる。上野君からもう少し遅くしてみたらとも言われたが、もう少しだけ思考を遅らせた方がいいのかも。かなり難しいが、それも仕方ない。個人差もあるし、もともとサッカーというのはミスがあり、それを減らすスポーツなのだから。
ミニゲームの後半。相手のミスから、ボールを奪った。ドリブルで抜いて、シュート。
ゴールネットが揺れた。仲間が、笑顔で駆け寄ってきた。
「綿津見さん、ナイス!」
私は、軽くうなずいただけ。でも、胸の奥が、少し熱くなった。サッカーの時間だけは、世界が灰色じゃなくなる。
母の血の匂いも、親戚の冷たい目も、いとこの手も、すべて忘れられる。サッカーをしている時だけ全てが忘れられる。
部活が終わって、汗がまだ冷えきらないうちに、上野君に呼び止められた。夕陽がグラウンドを赤く染めて、みんなが部室に戻っていく中、上野君が私の前に立っていた。
ユニフォームの袖をまくり上げて、息を少し整えている様子だった。
「綿津見、ちょっと話がある。体育倉庫に来てくれないか」
私は、特に何も考えず、うなずいた。サッカーの話なら、聞く価値はあると思った。それに今日はバイトもない日なのだから。
上野君は最近、練習相手として悪くなかった。パスが少しずつ、私のイメージに近づいてきていたから。あの完璧なタイミングのロングパスを、もう一度味わいたかった。体育倉庫は、グラウンドの端にあって、いつも鍵がかかっているはずだったけど、上野君が開けて、先に入った。
私は、後ろからついていった。倉庫の中は、薄暗くて、古いマットやボールの匂いがこもっていた。小さな窓から、夕陽が斜めに差し込んで、ほこりがゆっくり舞う光の筋を作っている。
床には、使い古されたマットが重ねて置かれていて、少し湿った匂いがした。サッカーボールがいくつか転がっていて、古いネットやコーンが、隅に積み重なっている。上野君は、扉を閉めた。
何でこんなところで話すんだろうか?でもサッカーの話なら、どこでもいい。上野君が、私を振り返った。
いつもの笑顔じゃなく、真剣で、少しゆがんだ目で、私を見ていた。
息が、少し荒い。「綾、もう一度言う。俺、お前が好きだ」告白だった。私は、淡々と答えた。「興味がない」上野君の顔が、ゆっくりゆがんだ。目が、いつもと違う光を宿していた。
額に汗が浮かんで、夕陽に光っている。「なんでだよ……!」突然、両腕を強く捕まれた。痛い。
骨がきしむような力。指が、皮膚に食い込む。私は、一瞬だけ、腕を振り払おうとした。反射的に、体が動いた。サッカーで鍛えた脚が、少し力を込めた。でも、すぐに止めた。腕力じゃ、勝てない。
男子と女子の差は、わかってる。昔から、わかってる。上野君が、私をマットに押し倒した。背中が、古いマットに沈む。埃の匂いが、鼻をつく。マットの感触が、冷たくて、少し湿っている。汗で透けたユニフォームが、冷たい空気に触れて、肌が粟立ってきた。
胸のあたりが、息をするたびに上下する。上野君の体が、私の上に覆いかぶさる。重い。息が荒くて、熱い。首筋に、唇が近づいてくる。熱い息が、肌にかかる。汗の匂いが、混じってくる。ユニフォームの裾が、まくり上げられようとする。胸元が、露わになりかける。
太ももに、手が触れる。指が、肌を這う。私は、抵抗しなかった。目を開けたまま、天井の埃っぽい梁を見つめた。性欲がある以上こうなるのは仕方ないのかもしれない。
期待するといけない。あの時もそうだった。私の目の前で、母が父を殺して、その後で私をも殺そうとして助けられた瞬間。私のことに注意をしていた救助の人のスキをついては母は自殺をした。あの血の匂いが、まだ鼻に残ってる気がする。
新聞で見た写真、母の顔が、ぼんやりと浮かぶ。親戚の家をたらい回しにされたとき。誰も、私を本気で欲しがらなかった。あの時の私は今以上に感情が希薄だったと思う。多分容姿がいいけど、感情がほぼない人形みたいで気味恐がられていたのかもしれない。いとこと言っても他人だから世間体で引き取っただけで、邪魔だったのかもしれない。
中学三年の時、いとこに呼ばれて、部屋で、初めて押し倒されたとき。
あの時も、こうだった。
暗い部屋で、息が詰まって、抵抗しても、誰も来ない。叫んでも、誰も助けに来ない。
痛いのも、汚いのも、すぐ終わる。
三大欲求の一つだから仕方ない。無駄に抵抗すると痛さが増すことが多いから素直に受けよう。嫌悪感や体の違和感と少しの快楽を得るだけ。終わったら、また元の世界に戻るだけ。なら、されるがままの方が、楽。
上野君の唇が、私の首筋に触れて、熱い息が、耳にかかる。手が、さらに奥へ。その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「上野君、何してるの!?」栞の声が聞こえた。
上野君が、ハッとして体を起こした。顔が真っ青になって、私から離れる。息を荒げたまま、立ち上がる。目が、泳いでいる。
「ご、ごめん……!」
上野君は、倉庫から逃げていった。扉が開いたまま、夕陽が差し込んでいる。外の風が、少し入ってきた。グラウンドの土の匂いが、混じってくる。私は、ゆっくり体を起こした。ユニフォームを直す。
汗と埃で、肌がべとつく。胸元が、少し乱れていた。
太ももに、指の跡が、うっすら赤く残っている。栞が、駆け寄ってきた。栞の目が、涙でいっぱいだった。
私を抱きしめて、強く、震える手で。
「綾さん、大丈夫!? 怖かったよね……!」
栞が、泣いている。私は、少し戸惑った。栞の体温が、伝わってくる。温かい。こんなに、誰かに強く抱きしめられたの、いつぶりだろう。栞の髪の匂いが、鼻に届く。
少し、甘い。シャンプーの匂いか、わからないけど。
「なんで……なんで抵抗しなかったの? されるがままなんて……」
栞の声が、震えていた。涙が、私の肩に落ちて、熱い。私は、静かに答えた。
「腕力じゃ勝てないし……されるがままの方が楽だから」
栞の体が、びくっと震えた。私は、栞の背中に、そっと手を置いた。自分でも、驚くくらい、自然に。
「なんで、私じゃなく、あなたが泣くの?」
栞は、答えなかった。ただ、もっと強く、私を抱きしめた。倉庫の外で、風が吹いて、
マットの埃が、少し舞い上がった。サッカーの世界に、小さな亀裂が入った気がした。
栞の温もりが、灰色の世界にほんの少しだけ色を落とした気がした。
外のグラウンドから、遠くで誰かの笑い声が聞こえた。サッカーボールが、地面を蹴る音がした。サッカーだけは裏切らないと信じたい。泣きじゃくる栞の頭を撫でながらそう考えていた。
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