8話A 陽炎のベンチ
約束した土曜日が来てしまった。
朝刊の新聞配達を終えた私は、自分の部屋に戻った。
道は空いていて、ポストに新聞を投函する作業も驚くほどスムーズだったから、いつもよりずっと早く配達が終わってしまった。
部屋に入り、脱いだ服を洗濯機に入れてからシャワーを浴びる。
まずは少し熱めのお湯で、指先に残ったインクの匂いと、早朝の湿り気を帯びた汚れを丁寧に洗い流した。
指先で頭皮を揉むようにして髪を洗い、真っ白な泡とともに、まとまらない思考を一度空っぽにする。
仕上げに蛇口をひねって、冷たい水を頭から浴びた。
一気に押し寄せる冷たさに、全身がキュッと引き締まる。
おかげで頭はスッキリしたはずなのに、胸の奥にある変なモヤモヤだけは消えてくれなかった。
鏡に映る自分を見ないようにして、急いで髪をふく。
なんだか、早くここを出なきゃいけないような、落ち着かない気分だった。
タオルで体を拭きながら、クローゼットからいつもの白いシャツとジーンズを取り出した。
ショルダーバッグに、簡単なコスメ用品と財布と鍵、それから携帯を入れるだけ。
今まで、誰かに誘われることなんてなかった。
なのに、栞は当たり前のような顔をして、私を誘ってきた。
そして、なぜか私はそれを断らなかった。
なんでだろうって、自分でも思う。
理由はいくら考えても、やっぱりよくわからない。
ただ、あのとき「お世話になるよ」と答えてしまった自分の声が、今でも耳の奥で嘘みたいに響いている。
自転車で駅前の公園へ向かう。
駐輪場に自転車を停めて、入り口の時計を見上げると、まだ九時前だった。
約束までは、一時間以上もある。
指定されたベンチを見つけて、腰を下ろした。
何でこんなに早く来たんだろうと自分で少し笑ってしまった。
週末の公園は、静かに動き始めていた。
家族連れが談笑しながら通り過ぎ、子供の甲高い笑い声が遠くの遊具から響いてくる。
犬を連れた人がゆっくりと歩調を合わせ、ヘッドホンをしたジョギングの男の人が駆け抜けていく。
鳩が数羽、足元で地面をついばみ、時々何かに驚いたようにバサバサと羽音を立てて飛び立っていった。
そうしているうちに約束の十時になったけど、まだ誰も来ていなかった。
約束の十時を知らせるように、遠くの教会の鐘の音が聞こえた。
なぜか必ず来るという、根拠も何もない予感がした。
…まあ、もう少し待つか。 私はもう一度、公園の入り口へと視線を戻した。
時間は、感覚が麻痺するほどゆっくりと過ぎていく。
公園の賑わいは増し、太陽が天頂へと昇るにつれて、心地よかったはずの木陰がじわじわと削り取られていった。
いつの間にか涼しさは消え失せ、アスファルトから立ち上る強烈な照り返しが、剥き出しの肌をじりじりと焼き始める。
喉が少し渇いたけれど、水は持っていない。
どこかにある自販機を探すために視線を動かすことすら、今はひどく面倒に感じられた。
「ねえ、君。こんなところで何してんの? 熱中症になっちゃうよ」
不意に、上から影が差した。
見上げれば、派手なシャツを着た男たちが数人、ニヤニヤとした笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいる。
「無視? 感じ悪ーい。まあ、可愛いから許すけどさ。ねえ、どっか涼しいとこ行こうよ。おごるからさ」
「いらない。邪魔。どいて」
男たちの顔から、ニヤついた笑いが一瞬で消えた。
男たちはなぜか顔を引きつらせ、あとずさりをして、そのままどこかへ去っていった。
栞は芸能人だから、急に仕事が入ったのかもしれない。
私が時間を間違えたのか。それとも場所が違うのか。
そういえば私の連絡先を知らないから誰も連絡を入れることができないのかも
私はなぜか?
栞が来るのではないかと期待してしまった?
期待ってなに?
なぜか栞が来ると確信している私自身驚いてしまった。
いつの間にか、影が長く伸び、空が不気味なオレンジ色になっていた。
膝の上で支えていたショルダーバッグが、ずるりと音を立てて滑り落ちた。
それを拾おうとして、立ち上がった瞬間。
視界が猛スピードでぐにゃりと傾いた。
倒れる直前、夕闇の向こう側に。
誰かが走ってくるような人影が見えた気がした。
必死に地面を蹴り、綺麗な黒髪を大きく揺らして、こちらへ向かってくる。
栞の幻影が見えたきがする。
「……ん! 綾さん……!」
最後に、鼓膜を突き刺すような叫び声が聞こえた。
ああ、来てくれたんだと安心した瞬間
私の意識は真っ白な沈黙の中へと落ちていった。
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