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 店内に足を踏み入れると、ふわりと石鹸の香りが鼻をくすぐった。

 清潔感のある空気。外観の小ささからは想像できないほど、内装は落ち着いていて広々としている。壁際には観葉植物が置かれ、ランプの柔らかな光が鏡面に反射して揺れていた。


 カウンターには、ロングヘアを後ろでひとつに結んだ若い男性が立っていた。白いシャツに黒のエプロン。その姿は、美容師というよりアーティストのようにも見える。彼が「Awa」の店主らしかった。


「いらっしゃいませ」


 低く澄んだ声が響く。


「あ、予約とかしてないんですけど……大丈夫ですか?」


「えぇ、もちろん大丈夫ですよ」

 微笑みながら、店主はゆったりと頷いた。


「どのような雰囲気にしましょうか?」


 いつもなら写真を見せるところだけど、今日はいいや。

「俺に似合う感じでお願いします」


 店主は頷くと、間を置かずに作業に取りかかった。霧吹きの水滴が細かく髪に落ち、櫛で均されていく。

 そのとき、ふと気づいた。


――あれ? 値段、見てない。


 少なくとも店の前に料金表はなかった。たぶんPayPayなんて使えないだろう。現金、いくら残ってたっけ。いや、最悪誰かに頼めばいいか。


「はい、できました。どうですか?」


 鏡の中に映った自分に目をやる。


 おお……めっちゃいい。

「イメージ通りです」


「それはよかった」

 店主は柔和な笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。


「シャンプーはしますか?」


 頼むことにした。正直、今のままでも十分いい。でも、どこか“目を奪われる”感じまでは足りない。


 頭に泡が乗せられる。

 その泡は、不思議な感覚だった。暖かいのに冷たい。普通ならシャンプーの泡を長くつけていたいなんて思わない。べたつくし、不快だから。だが、この泡は違った。不快感がなく、むしろ自然に溶け込んでいく。……まるで最初からそうあるべきもののように。


「では、お会計に」


「ちょっと待ってください!」


 思わず声が上ずった。


「泡がついたままじゃないですか!」


 店主は首だけをこちらに向け、柔和な笑みを崩さぬまま言った。


「でも、違和感はだんだんとなくなっているでしょう?」


「……そんなのおかしいだろ」


 ここまでぶっ飛んだ店は初めてだ。最初は好奇心、次は期待。だが今は困惑しかない。

 このまま話しても埒があかない。会計だけ済ませてさっさと帰ろう。そう決めたが──


 ……く。あと五百円足りない。くそぉ。


「すみません。ちょっと友達に連絡します」

 声が硬くなっていた。


 ポケットからスマホを取り出し、慌ててLINEを開く。だが、こういうときに限って送信がうまくいかない。仕方なく電話に切り替えると──


『ご指定の番号は、現在電源が切れているか、電波の届かない場所にいます──』


 知り合い全員に電話をかけたが──誰とも繋がらなかった。

 ここは駅前だ。「相手が圏外なんだろう」と思うのが普通だろう。だから履歴にあった番号へ片っ端からかけていった。


 けれど、違う。

 どうやら“ここ”が圏外らしい。


 電波が、存在していない。

 アンテナは立っているのに、声は届かない。

 通知も、更新も、すべてが止まっている。


 どうなっているんだ……。

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