9
店内に足を踏み入れると、ふわりと石鹸の香りが鼻をくすぐった。
清潔感のある空気。外観の小ささからは想像できないほど、内装は落ち着いていて広々としている。壁際には観葉植物が置かれ、ランプの柔らかな光が鏡面に反射して揺れていた。
カウンターには、ロングヘアを後ろでひとつに結んだ若い男性が立っていた。白いシャツに黒のエプロン。その姿は、美容師というよりアーティストのようにも見える。彼が「Awa」の店主らしかった。
「いらっしゃいませ」
低く澄んだ声が響く。
「あ、予約とかしてないんですけど……大丈夫ですか?」
「えぇ、もちろん大丈夫ですよ」
微笑みながら、店主はゆったりと頷いた。
「どのような雰囲気にしましょうか?」
いつもなら写真を見せるところだけど、今日はいいや。
「俺に似合う感じでお願いします」
店主は頷くと、間を置かずに作業に取りかかった。霧吹きの水滴が細かく髪に落ち、櫛で均されていく。
そのとき、ふと気づいた。
――あれ? 値段、見てない。
少なくとも店の前に料金表はなかった。たぶんPayPayなんて使えないだろう。現金、いくら残ってたっけ。いや、最悪誰かに頼めばいいか。
「はい、できました。どうですか?」
鏡の中に映った自分に目をやる。
おお……めっちゃいい。
「イメージ通りです」
「それはよかった」
店主は柔和な笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。
「シャンプーはしますか?」
頼むことにした。正直、今のままでも十分いい。でも、どこか“目を奪われる”感じまでは足りない。
頭に泡が乗せられる。
その泡は、不思議な感覚だった。暖かいのに冷たい。普通ならシャンプーの泡を長くつけていたいなんて思わない。べたつくし、不快だから。だが、この泡は違った。不快感がなく、むしろ自然に溶け込んでいく。……まるで最初からそうあるべきもののように。
「では、お会計に」
「ちょっと待ってください!」
思わず声が上ずった。
「泡がついたままじゃないですか!」
店主は首だけをこちらに向け、柔和な笑みを崩さぬまま言った。
「でも、違和感はだんだんとなくなっているでしょう?」
「……そんなのおかしいだろ」
ここまでぶっ飛んだ店は初めてだ。最初は好奇心、次は期待。だが今は困惑しかない。
このまま話しても埒があかない。会計だけ済ませてさっさと帰ろう。そう決めたが──
……く。あと五百円足りない。くそぉ。
「すみません。ちょっと友達に連絡します」
声が硬くなっていた。
ポケットからスマホを取り出し、慌ててLINEを開く。だが、こういうときに限って送信がうまくいかない。仕方なく電話に切り替えると──
『ご指定の番号は、現在電源が切れているか、電波の届かない場所にいます──』
知り合い全員に電話をかけたが──誰とも繋がらなかった。
ここは駅前だ。「相手が圏外なんだろう」と思うのが普通だろう。だから履歴にあった番号へ片っ端からかけていった。
けれど、違う。
どうやら“ここ”が圏外らしい。
電波が、存在していない。
アンテナは立っているのに、声は届かない。
通知も、更新も、すべてが止まっている。
どうなっているんだ……。




