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「もうちょっと寄って」

「ほい」


体を横にずらすと、妹が隣に腰を下ろした。


「いただきます」


箸を動かした瞬間、手が痛む。

仕方なく左手に持ち替えて食べていると、妹がそっとスプーンを差し出してきた。


「はい、どうぞ」


「ねえ、お兄ちゃん……部活、やめない?」


テレビの音だけが部屋を満たす。

返事を探す僕の沈黙が、余計に音を大きく感じさせる。


「やめないよ。まだ」


「なんで? あんなになるまで練習しなきゃいけないなんておかしいよ。

なんだったら、私が電話してあげる」


「やめない。だから電話もいらないよ」


「……じゃあ、無理だけはしないで」


それは無理だね。

だって向こうから“それ”はやってくるんだから。


「それに」


口まで出かかった言葉を、僕は飲み込む。

ずるいから。


「それは?」

「……なんでもない」


僕は手のひらのケガを理由にお皿洗いを免除され、テーブルの前でうらうらとテレビを見ていた。


「忘れてた」


デザートのプリンを持ってきた妹が、怪訝そうにこちらをうかがってくる。


べつに大したことじゃないよ。

村上にノートを返してもらうのを忘れていただけ。


 村上健太、彼自身もまた“奇妙な世界”を知っている。


 健太と三浦悠真の関係は、大学の入学式にさかのぼる。

 たまたま隣の席に座った――ただそれだけの縁が、今も細く続いているのだ。


 健太は今どきの理工学部らしく、明るく社交的な男だった。

 初対面の相手でも臆せず話しかけ、笑いの一つも引き出せる。授業のあとに自然と友人たちに囲まれるのは、彼の人柄ゆえだろう。


 一方で三浦悠真は正反対だった。

 内省的で、どこか周囲との距離を置く。人に背を預けることを避け、必要以上に目立つこともない。


 けれど、不思議と健太は彼に声をかけ、悠真もそれを拒まなかった。


 こうして二人の関係は、大学生活の始まりから細く続いていた。

 もっとも、それは村上にとってはあくまで数ある知り合いの一人という程度。三浦にとっては自分に声を掛けてくる数少ない人の内の一人。


 お互いに廊下ですれ違えば軽く声をかけ、講義で隣になれば雑談を交わす──そのくらいの距離感だった。


 転機は、夏休みが明けたある日の帰り道に訪れる。


 そして、二人は“奇妙な世界”に足を踏み入れることになる。

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