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外に出て、もう一度試してみることにした。
「ちょっと、外に出ていいですか? ここ電波がなんか悪いみたいで」
返答を待たずにドアの取っ手を引いた。だが──動かない。
逆に押してみても、びくともしなかった。
「……開かない?」
「開きませんよ」
店主の声が背後から落ちてくる。
「店を出るときは、客はお金を払っているものですから。そうでしょう?」
そのとき、彼はレジカウンターの椅子に腰かけていた中年の男に手を伸ばした。
軽く押すと、男はまるで糸の切れた人形のように崩れ落ち、床に転がった。
頭を打った音が、乾いた木の床に響く。
「ちょっと……何してるんですか!」
「お気になさらず」
店主は椅子に腰かけ、微笑みを崩さずに言った。
「彼にはもう、この世界を知覚する機能はありません。嗅覚も視覚も、肌感覚も痛覚も──すべて別の場所に流れてしまった」
理解できなかった。
だが、恐怖よりも先に、胸の奥から好奇心がじわりと湧き上がる。
「……死んでるってことか?」
それでも、本能は違う答えを返していた。
生命の危機を告げる声が、繰り返し俺の手はドアの取っ手を引き、押し、また引く。だが結果は同じだった。
「この世界では、彼は“死んでいる”と言ってもいいでしょう」
店主の声が淡々と響く。
「死んでいるとは──すべての人から忘れ去られ、何の生産性も持たない存在を指すのなら、ですが」
「……なんか、よくわからん。それより、まず外に出してくれよ!」
声が震えていた。
店主はわずかに目を細め、指先でカウンターを軽く叩いた。
「つまり、私はあなたをここから“タダで”退店させるわけにはいかない。だから──この男のように、対価を支払ってもらう必要があるのです」
そして、店主は微笑んだ。
「これは、その見本ですよ」
「……対価を払えってことか。でも陽向さんは、普通に帰ってたじゃんか」
「彼はきちんと支払いましたよ。お金も、それ以外もね。意図したものではなかったかもしれませんが、彼もまた少量の対価を置いていった」
店主の声は柔らかいが、どこか冷たい。
「知り合いだった彼が、あなたを認識しましたか?」
思い返す。さっき見かけた陽向は、まるで別人のようだった。視線が合ったはずなのに、彼は何の反応も示さなかった。無視された、というより、最初から僕という存在を知らないかのように。
「……記憶の一部が流れ出しているように見えましたからね」
店主は事もなげに言った。
そんなのおかしい。陽向があんな“泡まみれ”の頭にされて納得するはずがない。必ず文句を言うに決まっている。
苛立ちを押し殺しながら、僕は頭に残る泡を掻き上げた。
「こんな泡をつけられたまま金払えって言われて、素直に払う奴なんているかよ!」
「……それでいいんです」
「は?」
次の瞬間、膝から力が抜けた。いや、力が抜けたんじゃない。どこに力を入れて立てばいいのか、わからなくなったのだ。
自分の体じゃないような感覚。視界が急速に傾き、床が迫ってくる。
――バタ。
「その量の泡に触れれば、いろいろ流れ出してしまいますよ。徐々に、けれど確実にね」
耳元で、店主の声が静かに落ちた。
本作は、頭の中に浮かんでくるシーンをもとに執筆してきました。
ただ、そのせいでどうしても時系列が飛び飛びになってしまい、その隙間を補うお話を考えるのに苦戦しました。
それでも「自然に思いついたシーンをまずは形にして残したい」という思いが強く、最後まで書き切ることを目標にしています。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
そして、よければ次の投稿も読んでいただけると幸いです。




