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3 私という人間

 私は恵まれた家庭に生まれ育っている、と思う。

 父は弁護士で、小さいながら自分の事務所を持ち、母はそこで事務を執っている。経済的に裕福で、両親の仲もいい。私も両親と言い争ったことはない。

 たぶん、何の問題もない家庭。

 なのに、私は心から望んで帰りたいという欲求が湧かない。

 両親に感謝がない訳じゃない。今日まで私を守り育ててくれたことは十分ありがたいと思っている。

 ただ──私は親が思うような人間には育たなかった。成績や能力の話じゃない。人格のことだ。

 私は両親が願った性格を持てなかった。

 その申し訳なさが家の敷居を高くしているのかもしれない。



「お帰りなさい。今日は私の方が早かったわね」

 リビングで持ち帰った仕事の書類の束を整理していた母が笑顔を向けた。

 母を含め三人いる事務員の一人が出産と育児のため三月末に退職して忙しくなったのか、最近は母が帰宅するのは私が家に帰った後になる日が多かった。

 いつも塾友と寄り道して帰ると知っている母は、今日もそうだと思っている。

「事務所の佐竹さんがパウンドケーキを焼いてきてくれたんだけど食べない? 食べるなら紅茶淹れるけど」

 佐竹さんはお菓子作りが趣味の人で、作った菓子を時々仕事場に差し入れてくれる人だった。その日に食べきれなければ欲しい人がもらって帰る。今までにも何度か母がもらって帰って来たが、素人の手作りなので正直見栄えは今ひとつ垢抜けない。が、味はとても良かった。

「紅茶なら自分で淹れるよ。お母さん、今忙しいんでしょう」

 立ち上がりかけた母を止めて、私はキッチンへ回った。

 紅茶とパウンドケーキを母の分も用意し、食べながら母と会話する。

 学校や塾であったことや友人から聞いた話など、端からみれば会話は弾んでいるように見えるのだろうけど、私の心は母に対峙していない。私は私に上の空のまま、言葉を紡ぎだすだけ。母の言葉も私に止まらず、すり抜けて消えていくばかりだ。

 母の声が単なる音になってしまわないうちに、私は部屋へ引き上げた。

 明かりもつけず窓辺に歩み寄り、カーテンを開く。

 空には下弦の月。

 あの子はまだあの歩道橋の上で、この月を眺めているのだろうか。

 夜の中、一人でいるのだろうか。

 私も一人、彼と同じように月を眺めている。

 月の光は鮮やかに照らしていた。

 二人の孤独を。



 学校や塾での私は平凡な中学生だ。

 校則に沿った制服を着て学校に毎日通い、苦手な科目に頭を悩ませながら勉強し、部活動はしない代わりに放課後は塾へ行く。学校や塾の休憩時間には人の輪の中に入り、他愛ないおしゃべりをして過ごし、休日には友達と出かけたりもする。

 どこにでもいる女子中学生――けれどそれは上辺だけだ。

 本当は、誰の話も何一つ真剣には聞いていない。誰に対しても本当のことなど一言も話していない。自分の正体を知られないように。

 今、親を含めて他人が知る私は、私が演じている私でしかない。

 真の私は、この世で生きていくには「異質」だから。


 例えば私はよく友達に宿題を写させる。写していく友達は私を優しいと言う。大した茶番劇だ。私は彼女たちを助けたいと思ってなどいないのに。

 友達のためを思うなら、宿題は自分でした方がいいと諭すのが本当だ。だけど、私は言わない。

 だって、私は他人などどうでもいいと思っているから。

 楽をした報いはいつか必ず来ると言わなければならない義理などない、と偽りの友情を心のどこかで冷笑している。

 仮に誰かに、自分の努力を無償で奪われているじゃないかと言われたとしても、腹は立たない。真剣に人と向き合っていないのだから、怒りなど湧く訳もない。

 他人に対して酷く排他的な私は、何かが致命的に欠けている。



 あれは私が五歳の頃だった。

 家に猫が迷い込んできた。猫の好きな母が餌をやったので猫は家の庭によく来るようになったけれど、正式に飼ったわけではなかった。

 その猫がある日瀕死状態で庭に倒れていた。今思い返すと、どこかで毒餌を食べたのかもしれない。野良猫がうろついているのが気に入らないらしい家があり、毒入りの餌を町内のあちこちに仕掛けているとの噂を聞いた母が心配していたから。

 幼い私の目から見ても、今から病院へ運んでも助からないと分かるほど猫は死に近かった。母はおろおろして、虫の息の猫のお腹を撫でて泣いた。

 私は泣かなかった。死の意味が理解できない歳でなかったし、私なりに猫を可愛く思っていたから悲しかったけれど、涙は出なかった。

 私はものごころついた頃から一歩引いた、どこか冷めた考えをする子供だった。だからなのか、目の前に横たわる猫は私の意識の中ですでに死んでいて、『可愛がっていた猫』ではなくて『猫だったモノ』になっていた。

 私は泣いている母の横で、庭にあったスコップで穴を掘った。

 ――何を……してるの?

 ──猫、もう死ぬから、お墓つくってあげるの

 母は私を、得たいの知れない生き物を見るような目で見た。

 ──あなたは……冷たい子ね

 それは私が初めて私の本質を指摘された瞬間だった。


 私が生まれた時に産院で記念にもらったというアルバムに、生まれたばかりの私の足形に寄せ書きしたページがある。

 両親はそこに、『誰にでも優しくできる人になるように』と書いた。

 けれど、私は彼らの望み通りには育たなかった。


 母から猫の話を聞き、父は深くため息をついた。

 真夜中のリビングで憂い顔を寄せ合う両親。トイレに起きた私が、階段の陰で話を聞いているとも知らず。

 ──そういえばあの子は他の子に比べて生き物に対して関心が薄いな。何か……何にも執着心がないような……

 ――そんなレベルの話じゃないわ! 猫があんなに可愛そうな目に遭ったのに、泣きもしないで『もう死ぬからお墓を作る』なんて言うなんて! 人としての心がないの! 人間じゃないわ!

 私の育て方が悪かったのかしら、と母は泣いた。

 何故母が泣いているのか、その時の私には理解出来なかった。でも、私のせいで、私が『人間』ではないせいで母が泣いているのは悲しかった。

 ――君のせいではないよ

 父は首を振り、再びため息をついた。

 ──それはあの子が持って生まれたもの……なのかもしれない


 猫の一件以来、母は頻繁に植物園や動物園へ私を連れて行くようになった。美しいものや愛らしいものを見せて興味を抱かせ、慈しむ心を育てようとしたのだろう。

 ――お花、きれいでしょう。ペンギンさん、かわいいわね

 母は常に先回りして模範解答を用意し、同意を求めた。それ以外の感想が私の口から出るのを恐れていた。

 ――お花、きれい。ペンギンさん、かわいい

 私は母が望む通りに頷いた。もう母を泣かせたくはなかったから。

 そんなことを繰り返すうちに、母の愛らしいとされるものに対する評価と対応がそのまま私の感想と行動になった。それは共感からではなく、母を泣かせないための技術でしかなかった。

 母の教育は誤りではなかっただろう。普通の子供なら、きっとそれで慈愛の気持ちが生まれ育った。

 いけないのは私自身だ。母にこれほどしてもらっても、美意識と慈愛心は一体には育たなかった。

 私の感覚では夕日も火事の炎も等しく美しいオレンジ色で、剥製と毛皮はどちらも同じ素材のものに過ぎない。

 私には心から好きなものがなく、何に対しても深く興味を持てない。だから、全てあっさる切り捨てられる──それをこの世では薄情といい、冷淡という。

 父の言う通り、私は人として大切なものが欠けたまま生まれてきてしまったのだ。

 私は外見こそありきたりな人間だけれど、内面に巣くうものは異形の者。

 自覚があるからこそ、人になろうとした。両親が期待したような、誰にでも優しくできる人に。

 優しさとはどんなものをいうのか、マニュアルは掃いて捨てるほどある。私は手本通りに欠けたものを埋めようと努力したつもりだった。

 けれど、私に足りないものは多すぎて、疲れた。疲れ果ててしまった。

 私はただ、人になりたかっただけなのに。

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