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2 歩道橋の上で

 いつもの帰り道と違う道を選んだのは、ほんの気まぐれだった。

 夜八時に塾を終えた後、塾友と近くのファーストフード店へ寄り、ハンバーガーで空腹を宥めながらおしゃべりをして勉強に疲れた頭を休めるのが日課だったけれど、今日は疲れていてどうしてもそんな気になれず、友人たちとは塾を出たところで別れた。

 自宅から二キロほどの離れた塾へは自転車で通っている。小学生の間は家から歩いて行けるところにあった個人住宅を教室に改築した塾に通っていたが、少しのんびりした指導のため成績の向上があまり望めず、中学入学を機に評判の良い今の塾へ移った。

 確かに良い塾だった。指導カリキュラムもしっかりしていて、講師も熱心な人が多い。

 だからこそ今の状況が苦しくもある。

 中学三年生になったばかりだというのに大学進学とその先の就職先まで視野に入れた高校の選択を迫られ、受験の二文字が聞かれない日はない。どんなに仲がよくても志望校が同じならライバル。人生をかけた椅子取りゲームの真っ最中。

 学校の教師も塾の講師も、私がそのゲームの勝者になれるよう力を注いでくれている。私自身も勝ちたいし、期待に応えたいから頑張っている。

 でも、そんなことに疲れていたのではなかった。

 もっと根深いところにある疲労が精神を蝕んでいる。視野のほんの隅に点としてあった闇が、気づけば形を成して視界を覆いかけていた。

 その不安から逃れるように、いつもは真っ直ぐ素通りする交差点で右に曲がった。

 古めかしい商店街の通りは街灯の明かりでさほど暗くはなかったけれど人影はない。代わりに、国道へ続く道のせいか行き交う車は意外に多かった。

 古びた歩道橋が目に入り、足がそっちへ向いたのは高いところへ上がれば少しは気が晴れるかとの思いが働いたからだ。

 歩道橋の下に自転車を止め、階段を上がる。歩道橋はあまり使われていないのか、階段の隅には土やゴミが溜まり、雑草まで生えていた。手すりも至る所でペンキが剥げて錆びていた。

 階段を上がりきって、下を眺めてみた。

 街灯の鈍い明かりが照らし出す無人の街並みに、流れるヘッドライトとテールランプ。未練なく流れ過ぎ去ってしまう光たちと、愚鈍さが取り柄とでも言いたげに立ち尽く薄赤い街灯。

 一夜の幻にも似た現世の風景から、今は一人外れている私。

 そこに紛れてしまうから、当事者になってしまうから苦しいのかもしれない。離れてしまえば、第三者になってしまえば、この世はこんなにも美しい。


 人には何故翼がないのだろう。

 どこへも行けない私はよくそう考えた。

 けれど、もし今翼を与えられたとしても、私は多分飛び立てない。

 行きたい所もなく、本気で行こうとも思っていないくせに、ここにいるのは嫌という子供染みた感傷が生み出す思考の避難場所のようなものと自分でも分かっていた。


「……ここ、通るの」

 か細い少年の声に、ギョッとして振り返ると、歩道橋の真ん中あたりに人がうずくまっていた。橋の両端にある暗い明かりに薄く照らし出された影は、子供。歩道橋の上に少年の幽霊が出る──なんて話、聞いた記憶はない、けれど。

 ふいに得体の知れない恐怖に襲われ、思わず後ずさりしてしまった。

「僕、幽霊じゃないよ」

 軽い笑い声がした。彼はもそもそと端に避けて座り込む。

「ほら、足、あるでしょ」

 ピンと片足を上げて見せて、彼はもう一度笑った。

「それに、幽霊が出るには時間が早すぎるんじゃないかな」

 塾を出たのが八時過ぎだから、まだ八時半にもなっていないのは確かだ。生きている人間なら、それも自分より年下の子供なら怖くない。私は彼に歩み寄った。

「幽霊じゃないなら、何してるの。こんな所で」

 見たところ小学生の高学年くらいの子だ。私と同じ、塾の帰りなのかもしれない。

「お腹空いてて動きたくないっていうか……動けないから座ってる」

 情けなさそうに笑って私を見上げてきた彼は、髪が長めで女の子のように優しい顔だちをしていた。この国のこの時代に、子供が空腹で行き倒れ──そんな深刻な事態じゃないけれど、めったに行き当たらないシーンだ。

 私は彼にちょっと待っててと言い残してコンビニへ走り、パンをいくつかとペットボトルの飲みものを買うと彼の所へまた走って戻った。

「これ、食べる?」

 レジ袋を差し出すと、彼は大きな目をさらに大きく丸くした。

「え……くれるの?」

「お腹空いてるんでしょう。良かったら食べて」

 彼は目を見開いたままカクカクと頷いて袋を受け取ると、すごい勢いでパンにかじりついた。冗談ではなく、本当に飢えていたらしい。彼の食べっぷりは見事で、しかもとてもおいしそうだったので、ご馳走した甲斐があった。

「すっごくおいしかったあ。お姉さん、ありがとう」

 とても素直な子だった。礼を言う満面の笑みにまだ幼さが強く残っていた。

「どうしたの? 晩御飯食べずに塾に行ってて、お腹空いたの?」

「……お母さんと喧嘩して……ご飯食べ損ねた」

 彼は未練がましくパンの空き袋を弄びながら答えた。

「君、幾つ?」

 十一歳、と笑った彼を見て、私はふと一年前に自殺した少年を思い出した。

 この子と同い年だった彼。思考は大人びていたとしても見た目はこんなに幼かっただろう。まだあどけなさも残っていただろうに。

 退屈だと死を選んだ彼を、初めて痛ましく思った。

「喧嘩の訳は聞かないけど、とにかく帰ってお母さんに謝ってみたら?」

「今帰ってもいないんだ。スナックで働いているから、帰るのはいつも明け方」

 父親はずっと前に死んで、母と二人暮しなのだと言う。

「でも、いつまでもここにいる訳にはいかないでしょう。早く帰って寝ないと寝坊して、学校に遅刻するじゃない」

「あ、大丈夫。僕、学校行ってないから」

 大きな瞳をくるくるさせて、彼は笑う。

「僕、登校拒否児童なの」


 それが彼と私の出会いだった。



 彼はこの近くの市営住宅に住んでいて、小学校には五年生の二学期から全く行ってないそうだ。

「お母さんは何も言わないの?」

 私は彼の隣に座り、素朴な疑問を尋ねてみた。

「言わないよ。だって、行く気のない者に行けって言っても無駄だもの」

「学校の先生は?」

「前は時々来てたけど……来ても一般的なことしか言わない」

 つまり、あまり熱心な教師たちではないのだ。

「どうして学校に行かないの?」

「面白くないから」

 みんなが同じ時間に集まって、頭の出来や興味の対象を無視して一斉に同一の知識を詰め込まれるなんてつまらない、と彼は笑った。

「学校に行かないで、昼間は何してるの?」

「うーん、色々。大抵は、図書館で借りてきた本を読んでる」

 テレビは見ない、ゲームもやらない。マンガは気が向けば読む程度。

「……変なひきこもり」

「ひきこもりじゃなくて登校拒否。僕は学校が嫌いなだけ」

 イジメにも逢ったしね、と他人事のような口調で言う。

「気に入らないって曖昧な理由なんだけど、まあイジメなんて大体は下らない原因でやるから」

 何があったのか、詳しくは語らなかった。済んだことは言っても仕方ないと笑う。学校に行っていないわりに、頭は悪くなさそうだった。

「みんな『自分の思考こそ世の中の基準』って思ってるらしいから、自分に沿わないものは全部『悪』なんだろうね。単なる自分の好き嫌いで他人を差別する人間に通じる言葉はないから、関わらないことにしたんだ」

 人は政治的に、文化的に、民族的に、思想的に、容姿的に、能力的に、そして本能的に自分と違う者を排除しようとする生き物だから、人間が人間である限りイジメはなくならないだろう。

 そしてこの国の人間は多数決が大好きで、手の上がる数が多い意見がそのまま社会正義の規範になってしまう。

 淘汰されしものは悪。繁栄しものは善。

 私は滅ぼされる側なのか、生き残る側なのか。

 どこの誰が決定権を持つのか知らないけれど、私の意思の及ばない所で決められていくこの世の模範、規律、道徳……。

「どうしたの、お姉さん」

 怪訝そうな顔で彼が私の顔を覗き込んでいた。

「ボーッとして……考え事?」

 曖昧な返事をして作り笑いをした私に、もう帰った方がいいよ、と彼は顔を背けた。

「女の子がいつまでも夜に出歩いてちゃダメだよ。家の人が心配するじゃない」

「私は今まで塾に行ってたの。八時までちゃんと勉強してたんだから」

「塾はとっくに終わっているのに、今まで何してたの」

「空腹で行き倒れた子にパンを買ってあげてました」

 くすくすっと幼い笑い声を立てて、彼はぺこんと頭を下げた。

「パンくれて、本当にありがとう。遅くなるといけないからお姉さんはもう帰って。僕のせいで家の人に怒られたら、僕、お姉さんに何て謝ればいいか分からない」

「君は帰らないの?」

「僕はもう少し月を眺めてから」

 そう、と私が立ち上がると、彼は一瞬、ほんの一瞬だけ淋しげな表情を見せた。

「……お母さんと仲直りしてね」

「……うん」

 私は歩道橋を下りるまで意識的に振り返らなかった。振り返って、もし彼が淋しそうにしていたら、いつまでも彼の隣に座っていてあげたいと思ってしまいそうだったから。

 ああ、違う。

 淋しい顔をしているのは、きっと私の方だった。

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