藤沢、潮騒に揺れる予感
電車のドアが開く。駅のホームに降り立った瞬間、潮の匂いがふわりと鼻をかすめた。
「おお! ここだよここ。アニメで見たことあるやつ!」
長代が駅の看板を写真に収めながら言う。さっきまでの心ここにあらずという感じはなくなっていた。
「駅に着いただけでテンション上げすぎやろ」
短澤がニヤニヤしながら言う。
「見たことある風景ちょこちょこあるな。舞台探索とか好きなやつにはたまらんだろうな」
中谷はスマホを操作しながら落ち着いた様子で呟いた。さっきまでの夏の熱で心のヒューズが飛んでしまったような状態はどこへやら、男たち三人はいつの間にか平常心を取り戻していた。
「うん。わかる。でも……」
僕――逢間は改札に向かいながらどこか落ち着かない胸のざわめきを感じていた。
この駅、来たことがあるような気がする。いや、正確には、“鈴音と来たことがあるような気がする“だった。
小学校の夏休み、浜辺で貝殻を集めてどちらが綺麗か真剣に競った。確かあの時、鈴音は小さな風鈴みたいな声で笑って、「この貝、将来お守りにして持っていてね」って言っていた。それが藤沢なのか江の島なのかは記憶が曖昧なのだが、空と風の流れる空気だけははっきりしていた。
「やっぱりな、わかる。ここ藤沢ってさ、なんか“ラノベの匂い”するよな」
言い淀んだ僕は、言い直した。そう、ここは藤沢駅。数々のライトノベルやアニメの舞台になった、いわば聖地の一つだ。駅前のロータリーも改札の雰囲気もどこか既視感があるのはそのせいかもしれない。
などと思い出話を美化しているものの、その時の貝殻は今、手元にはない。正直ライトノベルの世界観に酔っているといっても過言ではなかった。
「これで俺らも登場人物だな」
中谷が大げさに腕を広げて駅の空を見上げた。
「登場して何すんねん。江の島で海鮮食って解散、とかしたらクソ地味な青春だぞ」
短澤のツッコミに思わず全員が笑った。
けれど、ほんの少しだけ心の奥がそわそわしていた。なんでもない夏の旅が、どこか物語みたいな気がしているのは事実である。
その時だった。背後で笑い声が聞こえた。その声の主は女子の声であり、にぎやかで、軽やかであった。
「さっきの新横浜でも見かけたよな…」
中谷が小さく声を潜めて言った。
僕らの後方、数メートル後ろ、四人組の女子大生と思われるグループ。全員が帽子を被っているが、旅のテンションで盛り上がっている……ように見える。でも、なぜかずっと同じタイミングで僕らと同じ方向に向かっているような気がするのは気のせいなのだろうか…?
僕もちらりと振り返る。目が合いそうで合わない。けれど、何か観察されているような視線の気配を感じる。
「まさか尾行……とか?」
短澤が楽しそうに言うけれど冗談にしては妙に確信じみている。
「おまえ、顔赤いぞ」
「いや、なんか……追われているみたいで緊張すんねん!」
軽口を交わしながら僕らは江ノ島電鉄の乗り場に向かう。改札の向こう側に緑色のレトロな車両が僕たちを待っていた。車両の扉が開く。ノスタルジーな匂いが身体を包んだ。僕たちの旅は、次でやっと目的地にたどり着く。
でも、もしかすると――これは僕たちだけの旅じゃないのかもしれない。
風が吹く。吹いた風の音は鈴音の声にほんの少しだけ似ていた。