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第9章:逆さまの金魚

 夏の終わりを告げる風が吹き始めた頃、街ではささやかな夏祭りが開かれた。神社の境内には色とりどりの提灯が灯され、屋台が軒を連ね、浴衣姿の人々が行き交う。どこか懐かしく、浮き立つような、それでいて一抹の寂しさを感じさせる夜。


 陽向みのりは、玲と二人で祭りの喧騒の中にいた。他のメンバーも誘ったのだが、しいなは人混みを避けて、ことはと澪は家で過ごすことを選び、アカリは「ぜ、ぜったい無理です……!」と固辞した。玲は、みのりが少し落ち込んでいるように見えたので、「じゃあ、二人で行こうぜ!」と誘ってくれたのだ。


 みのりは、努めて明るく振る舞っていた。玲と一緒に綿あめを食べ、射的に挑戦し(玲は驚くほど上手かった)、賑やかな雰囲気を楽しんでいるように見せていた。けれど、心の奥底では、重たい疲労感と、言いようのない孤独感が渦巻いていた。


 (みんな、楽しそうだな……)


 周りの人々は、家族や友人、恋人同士で、心からこの祭りの夜を楽しんでいるように見える。それに比べて自分は、どうだろう。玲が隣にいてくれるのは嬉しい。合宿での一件以来、玲との間には特別な信頼関係が生まれた。けれど、それでも、この賑やかさの中で、自分がうまく溶け込めていないような感覚が消えない。常に「陽向みのり」という役割を意識してしまう。笑顔で、明るく、場を盛り上げなければ。そんな強迫観念のようなものが、頭から離れない。


 「なあ、陽向さん、あれやらない? 金魚すくい」

 玲が、水槽を囲む人だかりを指差して言った。色とりどりの金魚が、水の中でひらひらと尾を揺らしている。

 「うん、やろう!」

 みのりは笑顔で頷いた。


 二人はポイを受け取り、水槽の前にしゃがみ込んだ。玲はすぐに狙いを定め、素早い動きで赤い金魚をすくい上げた。

 「おっしゃ!」

 嬉しそうな玲の隣で、みのりは水面を見つめていた。水の表面には、提灯の赤い光と、行き交う人々の影がゆらゆらと映り込んでいる。そして、その水面に映る金魚たちは、まるで逆さまになって泳いでいるように見えた。


 (逆さまの金魚……)


 それは、今の自分みたいだ、とみのりは思った。表向きは楽しそうに泳いでいるけれど、本当の姿は、水面に映る虚像のように、不安定で、どこか歪んでいるのかもしれない。


 ポイを持つ手が、微かに震える。うまくすくえる気がしない。周りの期待に応えなければ、というプレッシャー。失敗したら、玲に呆れられるかもしれない。そんな考えが、頭をよぎる。


 その時、人混みの向こうに、見慣れたような、しかしここにいるはずのない人物の姿を見つけたような気がした。眼鏡をかけた、少し猫背の少女。星野アカリだ。

 まさか。彼女がこんな人混みに来るはずがない。みのりは目をこすり、もう一度そちらを見た。やはり、アカリのように見える。彼女は、屋台の影に隠れるようにして、こちらを窺っているようだ。手には、小さなビニール袋を持っている。


 「……アカリちゃん?」

 みのりは、思わず呟いた。

 「え? 星野?」玲も驚いてそちらを見た。「マジだ。あいつ、なんでこんなところに?」


 アカリは、二人の視線に気づくと、びくりとして、慌てて踵を返し、人混みの中に消えようとした。


 「あ、待って!」

 みのりは、金魚すくいのことも忘れ、立ち上がってアカリを追いかけた。玲も後に続く。


 人波をかき分け、ようやくアカリの後ろ姿を捉えた。彼女は、神社の裏手へと続く、少し薄暗い小道に入ろうとしていた。

 「アカリちゃん!」

 みのりが呼びかけると、アカリは肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。その顔は怯えと混乱でいっぱいだった。


 「ひ、陽向さ……橘さ……な、なんで……」

 「なんでって、こっちのセリフだよ! お前、祭りとか絶対来ないタイプだろ!」玲が言う。


 アカリは俯き、もじもじしながら、手に持っていたビニール袋を差し出した。中には、小さなカメの形をした、鼈甲飴が入っている。

 「……これ……しいなさんに……お見舞い、というか……」

 アカリは小さな声で言った。

 「しいなさん、カメ、好きだって、前に……言ってたから……」


 合宿に参加できなかったしいなのために、わざわざこの人混みの中を、たった一人で、これを買いに来たというのか。

 みのりと玲は、顔を見合わせた。驚きと、そして、胸を打たれるような気持ちでいっぱいになった。


 「そっか……白鳥さんのために……」みのりは、しゃがんでアカリと視線を合わせた。「ありがとう、アカリちゃん。優しいね」

 みのりの言葉に、アカリの顔が少しだけ赤くなった。


 「でも、一人で怖かっただろ?」玲が少し心配そうに言った。「帰り、送ってくよ」

 「え、あ、だ、大丈夫です! 一人で帰れますから!」

 アカリはブンブンと首を振った。


 「でもさ」と、みのりが言った。「せっかく来たんだから、もう少しだけ、一緒に回らない? ほら、あそこに、あんまり人がいない休憩スペースがあるから。そこで少し話そうよ」

 みのりは、神社の隅にある、提灯の光が届かない、静かな場所を指差した。


 アカリは、しばらく躊躇していたが、みのりの優しい眼差しと、玲の(少し強引だが)心配そうな様子に、小さく頷いた。


 三人は、休憩スペースのベンチに並んで座った。遠くから祭りの囃子の音が聞こえてくるが、ここは比較的静かだった。

 みのりは、アカリがしいなのために見せた勇気に、素直に感動していた。自分は、誰かのために、あんな風に苦手なことを乗り越えようとしたことがあっただろうか。いつも、自分の役割や体面ばかりを気にしていたのではないか。


 ふと、水面に映っていた逆さまの金魚を思い出す。虚像ではない、本当の姿。アカリが見せたのは、不器用だけれど、間違いなく彼女自身の「本当の優しさ」だった。


 「アカリちゃん、本当にありがとうね」みのりは、もう一度言った。「しいなさん、きっとすごく喜ぶと思う」

 「……うん」アカリは小さく頷いた。


 「お前、意外と根性あるじゃん」玲が、アカリの頭をくしゃっと撫でた。「見直したぜ」

 「ひゃっ!?」アカリは変な声を上げたが、まんざらでもないような表情をしている。


 みのりは、二人の様子を見て、自然と笑みがこぼれた。それは、いつもの「作られた」笑顔ではなく、心の底から湧き上がってきた、温かい笑みだった。

 自分も、アカリのように、少しだけ勇気を出してみてもいいのかもしれない。周りの期待に応えるためではなく、自分の心が動くままに。たとえそれが、不器用で、格好悪くても。


 逆さまに映っていた金魚たちが、水の中で自由に泳ぎ始めるような、そんな予感がした。

 祭りの夜はまだ続いている。遠い囃子の音が、まるで新しい始まりを告げるファンファーレのように、みのりの耳には聞こえていた。隣には、仮面を少しだけ外した玲と、小さな勇気を見せてくれたアカリがいる。孤独感は、まだ完全には消えていないけれど、確かな繋がりが、そこにはあった。

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