第8章:星屑のフィルム
夏休みも終わりに近づいた、ある蒸し暑い日の午後。久しぶりに六人全員が「開かずの間」に集まっていた。合宿から戻った五人は、どこか少しだけ雰囲気が変わったように、しいなには感じられた。特に、玲とみのりの間の空気が、以前よりもずっと柔らかく、親密になったように見える。
今日の「開かずの間」は、外の強い日差しとは対照的に、ひんやりと薄暗かった。窓から差し込む光が、埃っぽい空気の中に筋を作り、壁に掛けられた古い時計の針だけが、かすかに時を刻む音を立てている。
ふと、部屋の隅に置かれた古い映写機の存在に、アカリが気づいた。これまでもそこにあったはずなのに、誰も特に注意を払っていなかったものだ。黒くて重々しい、時代を感じさせる機械。
「これ……動くのかな?」
アカリが、珍しく自分から声を上げた。澪との交流を経て、少しだけ、自分の興味があることについては発言できるようになってきたのかもしれない。
「さあ……かなり古い型だし、電源も入るかどうか」
澪が近づき、映写機を観察し始める。背面のパネルを開け、内部の構造を確かめている。その姿は、まるで機械の医者のようだ。
「わ、なんかカッコいい!」玲が興味津々で覗き込む。「これで映画とか見れたら、秘密基地感マシマシだね!」
「フィルムがないと、どうしようもないけどね」ことはが静かに言った。
「フィルムなら……」しいなが、ふと思い出したように言った。「この部屋の棚の上に、いくつか古い缶が置いてあった気がする」
しいなの言葉に、みのりが棚の上を探し始めた。背伸びをして、埃をかぶったいくつかの金属製の丸い缶を見つけ、慎重に下ろす。缶にはラベルが貼られているが、文字は掠れてほとんど読めない。
「これかな?」みのりが缶の一つを開けると、中には茶色く変色した古いフィルムが巻かれていた。
「電源、入るぞ」澪が、壁のコンセントにプラグを差し込みながら言った。映写機のランプが、ぼんやりとオレンジ色の光を灯す。
「フィルムの装填方法が分からないが……おそらく、こうか?」
澪は、アカリと協力しながら、手探りでフィルムを映写機にセットしていく。アカリは、古い機械の構造にも詳しいようで、的確なアドバイスを送っている。
やがて、準備が整った。部屋の電気を消すと、中は完全な暗闇に包まれた。窓から差し込むわずかな光だけが、互いのシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。
澪がスイッチを入れると、カタカタカタ……という、懐かしいような、それでいて少し不気味な機械音が響き始めた。壁に向かって、白い光が投射される。そして、光の中に、ノイズ混じりの映像が映し出された。
映像はモノクロで、音声はない。粒子が粗く、傷も多い。何かの記録映像のようだが、場面は脈絡なく切り替わっていく。
最初に映し出されたのは、どこかの海辺の風景。荒々しい波が岩に打ち付け、白い飛沫を上げている。それは、しいなが時折夢に見る風景に似ていた。寄せては返す波の音がないのに、しいなの耳には、確かに海鳴りが聞こえるような気がした。
次に、場面は古い洋館の内部のような場所に変わった。螺旋階段、ステンドグラスの窓、埃をかぶったグランドピアノ。どこか、澪の家の雰囲気に似ている。映像の中の窓からは、幾何学的な模様の光が差し込み、床に複雑なパターンを描いている。それは美しく、同時に冷たく、人を寄せ付けないような印象を与えた。
ふと、ピアノの前に座る少女の後ろ姿が映る。顔は見えないが、その背筋の伸びた、凛とした姿は、澪自身を想起させた。少女は鍵盤に指を置いているが、音は聞こえない。ただ、無音の旋律が、見る者の心に直接響いてくるような、不思議な感覚があった。
場面が変わる。今度は、たくさんの本が積み上げられた、薄暗い書斎のような部屋。壁一面の本棚。床にも散らばる本の山。その中で、眼鏡をかけた少女が、一心不乱にページをめくっている。ことはは、息を呑んだ。まるで、自分の部屋、自分の姿を見ているかのようだ。映像の中の少女は、時折顔を上げ、不安そうに部屋の扉を見つめる。何かから隠れるように、本の世界に逃げ込んでいるように見えた。
次に映ったのは、広い体育館。高い天井から吊り下げられたバスケットゴール。コートの上で、一人、ドリブルをつくショートカットの少女。その動きは素早く、力強い。けれど、ふと動きを止め、誰もいない観客席を見上げる表情には、言いようのない寂しさが浮かんでいる。玲は、自分の胸が締め付けられるのを感じた。まるで、自分の心の中を覗かれているようだ。
映像はさらに続く。たくさんの人々が行き交う、賑やかな広場。その中心で、笑顔を振りまきながら、誰かと話している少女。表情は明るく、楽しそうに見える。けれど、カメラが少し引くと、彼女の周りだけが、まるでスポットライトが当たっているかのように明るく、その外側は深い闇に包まれているのがわかる。彼女は、その明るい輪の中から出られないように見える。みのりは、無意識のうちに自分の胸元を押さえた。
そして、最後に映し出されたのは、たくさんのモニターが並ぶ、雑然とした部屋。その前で、猫背になってキーボードを叩く少女。画面には、ドット絵のキャラクターが、広大な、しかしどこか未完成な世界を歩いている。少女は時折、不安そうに後ろを振り返るが、そこには誰もいない。ただ、壁に貼られたポスターのキャラクターだけが、彼女を見つめている。アカリは、自分の頬が熱くなるのを感じた。これは、自分の部屋、自分の姿そのものだ。
映像は、そこでぷつりと途切れた。映写機の回転音だけが、しばらく虚しく響いていたが、やがてそれも止まった。
部屋は、完全な静寂と暗闇に包まれた。
誰も、何も言えなかった。
今、見たものは何だったのだろうか。古い記録フィルム? それとも……?
偶然にしては、あまりにも自分たちの内面や、抱える秘密を正確に映し出しすぎてはいなかったか?
それは、まるで、この「開かずの間」自体が、彼女たちの心象風景を吸い取り、古いフィルムの上に焼き付けたかのようだった。あるいは、この部屋が、現実と幻想、過去と現在が交錯する、特別な「境界」なのかもしれない。
暗闇の中で、誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。
言葉にならない感情が、部屋の中を満たしていく。驚き、戸惑い、恐怖、そして、奇妙な共感。
自分だけが抱えていると思っていた孤独や葛藤が、形を変えて、他の誰かの中にも存在しているのかもしれない。そんな予感が、暗闇の中で静かに共有されていた。
しいなは、隣にいることはの気配を感じた。ことはもまた、しいなの存在を感じているだろう。玲とみのりは、無言のまま、互いの存在を確かめ合っているかもしれない。澪とアカリは、この不可解な現象を、それぞれの方法で理解しようと努めているだろうか。
やがて、澪が静かに立ち上がり、部屋の電気をつけた。
突然の光に、誰もが目を細める。
互いの顔を見合わせると、そこには、まだ動揺の色が残っていた。しかし、同時に、以前とは違う、何か深い部分で繋がったような、不思議な連帯感のようなものも漂っていた。
あのフィルムは、星屑のように散らばっていた彼女たちの孤独な心を、一瞬だけ、同じ光の下に集めたのかもしれない。現実なのか幻想なのかわからない、けれど確かに共有したあの奇妙な体験は、彼女たちの関係性を、さらに深く、そして複雑に結びつけていくことになるだろう。
「開かずの間」の秘密は、まだ始まったばかりなのかもしれない。