第7章:海鳴りの聞こえる合宿
夏休みに入り、照りつける太陽がアスファルトを白く輝かせていた。蝉の声がシャワーのように降り注ぎ、空気は熱気で揺らめいている。
しいなを除く五人は、学校主催ではない、有志参加の小さな合宿に参加していた。表向きは「地域研究」という名目だが、実態は海辺の古いセミナーハウスで数日間を過ごす、自由な勉強合宿のようなものだ。参加を決めた理由はそれぞれだった。ことはは静かに読書できる環境を求めて、玲は気分転換と運動不足解消(セミナーハウスには小さな体育館もあった)、澪は特定の文献調査、アカリは澪に誘われる形で(半分パニックになりながらも断れず)、そしてみのりは、誘われたから、といういつもの理由だった。しいなは体調を考慮して参加を見送ったが、「お土産話、楽しみにしてるね」と笑顔で見送ってくれた。
セミナーハウスは、海を見下ろす小高い丘の上に建っていた。古いが手入れは行き届いており、潮風が心地よく吹き抜ける。夜になると、遠くから寄せては返す波の音――海鳴りが、子守唄のように聞こえてきた。
日中は、それぞれが自習室や図書スペースで過ごしたり、澪やアカリのようにパソコンに向かったりしていた。玲は、時折セミナーハウスの周りをランニングしたり、体育館で一人バスケットボールをしたりして汗を流した。みのりは、他の参加者とも積極的に交流し、情報交換をしたり、お菓子を配ったりして、ここでも潤滑油のような役割を果たしていた。ことはは、窓際の席でひたすら本の世界に没頭していた。
問題が起こったのは、合宿三日目の夜だった。
その日は、夕食後に小さな懇親会が開かれた。といっても、ジュースとお菓子が用意されただけの簡素なものだ。玲は、最初は他の参加者と当たり障りのない話をしていたが、なんとなく居心地が悪くなり、そっと会場を抜け出した。
向かったのは、自分の部屋ではなく、セミナーハウスの裏手にある、使われていない古い温室だった。昼間、散策している時に偶然見つけた場所だ。ガラスは所々割れ、蔦が絡まっているが、中は意外と広く、月明かりが差し込んで幻想的な雰囲気を醸し出していた。ここなら、誰も来ないだろう。
玲は温室の隅に置かれていた古い木のベンチに腰掛け、ため息をついた。持ってきたスケッチブックを開く。例の、秘密のスケッチブックだ。みのりに見られて以来、前よりも少しだけ大胆に、自分の好きなものを描くようになっていた。今描いているのは、星空の下で踊る、軽やかなドレスを着た妖精のような少女。現実の自分とはかけ離れた、憧れの世界。
集中してペンを走らせていると、不意に背後で物音がした。
「――っ!?」
玲は驚いて振り返る。そこに立っていたのは、陽向みのりだった。
「あ、ごめん、玲。びっくりさせちゃった?」
みのりは少し申し訳なさそうに言った。
「いや……陽向さんこそ、どうしたの? 懇親会は?」
玲は慌ててスケッチブックを閉じようとしたが、みのりの視線がそれに注がれているのに気づき、動きを止めた。
「ちょっと、抜け出しちゃった。人が多いと、なんだか疲れちゃって」
みのりは、はにかむように笑った。玲が知る限り、みのりが「人疲れ」を口にするのは初めてだった。
「……玲は? ここで何してたの?」
みのりの視線は、玲の手元にあるスケッチブックに向けられている。
「べ、別に……ちょっと、絵を描いてただけ」
玲はどもりながら答えた。また見られた。しかも、こんな、いかにも「秘密の場所」っぽいところで。
「見てもいい?」
みのりは、静かに尋ねた。その声には、いつものような明るさではなく、落ち着いた響きがあった。
玲は一瞬ためらった。けれど、みのりの真剣な眼差しに、断ることができなかった。それに、一度見られているのだ。今更隠すのもおかしいかもしれない。
「……うん」
玲が頷くと、みのりは玲の隣にそっと腰掛けた。玲は、おそるおそるスケッチブックを開き、さっきまで描いていた妖精の絵を見せた。
みのりは、しばらくの間、黙って絵を見つめていた。月明かりが、彼女の横顔を照らしている。その表情は、読み取りにくい。玲は、心臓が早鐘を打つのを感じていた。今度こそ、引かれるかもしれない。こんな非現実的な、女の子っぽい絵ばかり描いているなんて。
やがて、みのりは小さな声で呟いた。
「……きれい」
それは、心の底から漏れたような、ため息まじりの言葉だった。
「この子、すごく自由そう。風みたいに、軽やかで……うらやましいな」
「え……?」
玲は、みのりの意外な感想に驚いた。
「陽向さんだって、自由じゃないか。誰とでも仲良くなれて、いつも楽しそうで」
その言葉に、みのりは自嘲するように小さく笑った。
「そう見える? ……そう見えるように、頑張ってるだけだよ」
彼女は視線を落とし、自分の指先を見つめた。
「本当はね、私、すごく不自由なんだ。いつも周りの顔色を窺って、みんなが何を求めているか考えて……本当の自分が、わからなくなっちゃう時がある」
玲は、息を呑んだ。いつも完璧に見えたみのりの、初めて聞く弱音だった。
「玲みたいに、自分の好きなものを、こんな風に真っ直ぐ表現できるの、すごく……羨ましいよ」
みのりは、スケッチブックの妖精に視線を戻し、優しい手つきでそっとページを撫でた。
「この絵を見てると、なんだか、私まで自由になれる気がする」
玲は、何も言えなかった。みのりが抱える息苦しさ。それは、玲自身が感じているものと、どこか似ている気がした。仮面の下の、本当の自分。
「……私も、自由じゃないよ」
玲は、ぽつりと言った。
「いつも、周りが思う『橘玲』でいなきゃって……本当は、こういう可愛いものが好きなのに、バレたら変だって思われるのが怖くて」
秘密を打ち明けるのは、勇気がいることだった。けれど、みのりの告白を聞いて、玲も自分の殻を少しだけ破ることができた。
みのりは顔を上げ、玲をじっと見つめた。その瞳には、深い共感が浮かんでいるように見えた。
「……そっか。玲も、そうなんだ」
二人の間に、沈黙が流れた。けれどそれは、気まずいものではなく、互いの秘密を共有した者同士の、静かで温かい沈黙だった。遠くから聞こえる海鳴りが、二人の心を優しく包んでいるかのようだった。
「ねえ、玲」と、みのりが言った。「この絵、他の子たちにも見せてみない?」
「えっ!? む、無理だよ! 絶対引かれる!」
玲は慌てて首を振った。
「そうかなあ?」みのりは悪戯っぽく笑った。「ことはさんとか、しいなさんとか、きっと『きれい』って言ってくれると思うけどな。澪さんだって、意外とこういうファンタジーの世界、嫌いじゃないかもしれないよ? アカリちゃんなんて、絶対仲間だって思うはず!」
「そ、それは……」
玲は想像してみた。ことはやしいなの反応。澪の分析。アカリの食いつきそうな様子。もしかしたら、みのりの言う通りかもしれない。
「まあ、無理にとは言わないけど」と、みのりは付け加えた。「でも、玲のこの素敵な世界を、玲の中だけに閉じ込めておくのは、もったいないと思うな」
その言葉は、玲の心に深く響いた。自分の好きなものを、隠すのではなく、誰かと共有する喜び。それは、玲が今まで知らなかった可能性だった。
月明かりの下、古い温室の中で、二人の少女は、互いの仮面を少しだけずらし、本当の顔を覗かせ合った。それは、まだ完璧な理解にはほど遠いけれど、確かな共感と、新しい関係性の始まりを予感させる、夏の夜の秘密のひとときだった。遠い海鳴りが、その証人のように、静かに響き続けていた。