第6章:紫陽花の見る夢
本格的な梅雨が始まった。空は低く垂れ込め、灰色の雲が街を覆っている。雨は時に激しく窓を叩き、時に霧のように細かく降り注ぎ、世界から色彩を奪っていくかのようだった。
白鳥しいなは、この季節があまり得意ではなかった。気圧の変化や湿度の高さが、見えない重石のように身体にのしかかる。関節が軋み、時折、微かな熱っぽさを感じる。それは明確な痛みや苦しさとは違う、境界線の曖昧な不調だった。
そして、身体の輪郭がぼやけるように感じると、しいなの見る世界もまた、その輪郭を失いがちだった。
「開かずの間」の窓から見える中庭の紫陽花。雨に濡れたその花々は、まるで意思を持っているかのように、日々その色を微妙に変えていく。淡い青から紫へ、そして赤みを帯びた色へ。その移ろいを見ていると、しいなは自分が花の色と混じり合っていくような、奇妙な感覚に襲われることがあった。雨音が、ただの音ではなく、色とりどりの粒子になって降り注いでくるように感じたり、空気中の湿気が、甘いような、少し苦いような味を帯びているように思えたり。
現実と幻想の境界線が、雨に滲んで揺らいでいる。それは不安でもあり、どこか秘密めいた美しさを伴う体験でもあった。この感覚を、他の誰かに話したことはない。理解されないだろうという諦めと、自分だけの宝物にしておきたいような気持ちがないまぜになっていた。
今日の「開かずの間」には、珍しく六人全員が集まっていた。雨宿りのためか、あるいは、この共有の隠れ家が、それぞれの理由で必要だったのかもしれない。以前のような張り詰めた空気は薄れ、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
ことははしいなの隣で静かに本を読み、澪は少し離れた場所で難しい顔をして数式をノートに書きつけ、アカリは澪に時折小さな声で質問しながらパソコンに向かっている。玲とみのりは、部屋の隅で小さな声で何か話していたが、今は二人とも窓の外の雨を眺めていた。
しいなは、膝の上で組んだ自分の指先を見つめていた。指の関節が少しだけ熱を持っている気がする。視界の端で、窓ガラスを伝う雨粒が、銀色の虫のように蠢いている。
「……白鳥さん、大丈夫?」
隣から、ことはの静かな声がした。しいなが顔を上げると、ことはが心配そうにこちらを見ていた。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
しいなは微笑んでみせたが、ことはは納得していないような顔で、しいなの顔をじっと見つめている。彼女の鋭い感受性は、しいなの微細な変化も見逃さないのかもしれない。
「顔色、少し悪いみたいだけど」
今度は、玲が少し離れた場所から声をかけてきた。彼女の声には、からりとした響きの中に、不器用な優しさが滲んでいる。
「平気だって。ちょっと、雨の日は眠くなるだけ」
しいなは努めて明るく答えた。
「低気圧の影響かな」澪が冷静な声で言った。「自律神経のバランスが崩れやすい。十分な休息が必要だ」
その言葉は的確で、医学的な知識に基づいているのだろう。けれど、しいなが感じているのは、それだけでは説明できない、もっと曖昧で個人的な感覚だった。
みのりが、ふわりとした笑顔で言った。
「無理しないでね、白鳥さん。しんどかったら、いつでも言ってね」
その気遣いはありがたいけれど、どこか定型文のようにも聞こえてしまう。みのり自身も、どこまで本気で心配しているのか、あるいは、心配するという役割を演じているのか、しいなには判別がつかなかった。
アカリは、ちらりとこちらを見ただけで、すぐにパソコンの画面に視線を戻した。彼女の世界は、今、この部屋とは別の次元にあるようだ。
しいなは、みんなの視線から逃れるように、再び窓の外に目を向けた。雨に打たれる紫陽花。その花びらの上に、小さなカタツムリが乗っているのが見えた。ゆっくりと、粘液の軌跡を残しながら進んでいる。
その瞬間、しいなには、カタツムリの背負う殻の中に、小さな宇宙が広がっているように見えた。渦巻く星雲、瞬く星々。雨粒が、その小さな宇宙に降り注ぎ、波紋を広げている。
(きれい……)
思わず、小さなため息が漏れた。それは、病的な幻覚というよりも、世界が時折見せてくれる、秘密の詩の一片のように感じられた。
「……雨の日って、不思議」
しいなは、誰に言うともなく呟いた。
「世界が、いつもと違う顔を見せる気がする。色が濃くなったり、音が形を持ったり……しない?」
言ってしまってから、しいなは少し後悔した。変に思われただろうか。心配させてしまっただろうか。
部屋の中に、一瞬、沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、意外にも澪だった。
「共感覚、と呼ばれる現象に近いかもしれないな。特定の刺激に対して、通常とは異なる種類の感覚が引き起こされる」
冷静な分析。けれど、否定的な響きはない。
「へえ、そんなのあるんだ」玲が興味深そうに言った。「なんか、かっこいいね、それ」
「……わかる、気がします」ことはが、静かに言った。「雨の日は、言葉の匂いがする、みたいな……そういう感じ、ありますよね」
アカリが、パソコンから顔を上げて、少しだけ驚いたようにしいなを見ていた。
みのりは、困ったように微笑んで、「私は、残念ながらそういうのは感じないかなあ」と言った。「でも、白鳥さんが見る世界、ちょっと覗いてみたい気もする」
しいなは、みんなの反応に少し驚いていた。馬鹿にされたり、過剰に心配されたりするのではなく、それぞれが、それぞれの形で、しいなの言葉を受け止めようとしてくれている。それは、しいなにとって、予想外の、そして心強い出来事だった。
この「開かずの間」という場所が、そして、ここに集うメンバーが、少しずつ、互いの境界線を曖昧にし、それぞれの内なる世界を、ほんの少しずつ、共有し始めているのかもしれない。
窓の外では、紫陽花が雨の中で静かに色を変え続けている。ひとつの色が別の色へと移り変わる、その曖昧なグラデーションのように、彼女たちの関係性もまた、ゆっくりと、けれど確実に変化していく。その変化は、時に不安を伴うけれど、雨上がりの虹を待つような、微かな希望も感じさせてくれる。
しいなは、自分の内側で揺らめく幻想的な感覚が、ただの不調ではなく、この世界を豊かに捉えるための、特別なアンテナなのかもしれない、と、ほんの少しだけ、思い始めていた。