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第4章:仮面とスケッチブック

 放課後の教室には、まだ数人の生徒が残っていた。窓の外では、先ほどの雨が嘘のように上がり、強い西日が差し込んでいる。橘玲は、自分の席でスポーツバッグに荷物を詰めながら、隣の席で友人たちと談笑している陽向みのりの横顔を盗み見た。


 今日もみのりは、太陽みたいに明るい笑顔を振りまいている。誰に対しても優しくて、面白くて、場を和ませるのが上手い。クラスの人気者。玲自身も、みのりとはよく話すし、一緒に帰ることもある。気さくで、話しやすい子。そう思っていた。

 でも、最近、玲はみのりの笑顔の裏に、何か別のものがあるような気がしてならなかった。「開かずの間」で時折見せる、ふとした瞬間の真顔や、どこか遠くを見ているような視線。それは、普段の彼女からは想像もつかない表情だった。


 (陽向さんって、本当は何を考えてるんだろう……)


 そんなことを考えている自分に、玲は少し自嘲気味に笑った。人のことを言える立場じゃない。自分だって、いつも「ボーイッシュで頼れる橘玲」という仮面を被っている。本当は、可愛いものが好きで、少女漫画みたいな展開にドキドキしたり、落ち込んだりすると一人で泣きたくなったりするのに。そんなこと、誰にも言えない。特に、みのりのような「完璧な女の子」には。


 「玲、一緒に帰ろー!」

 友人たちとの話を終えたみのりが、玲に声をかけてきた。いつもの、キラキラした笑顔だ。

 「お、おう」玲は少しぎこちなく返事をした。


 二人は並んで廊下を歩き始めた。みのりは、さっきまで友人としていたらしい、テレビ番組の話を続けている。玲も適当に相槌を打ちながら、頭の片隅では別のことを考えていた。今日、美術の授業で使ったスケッチブック。間違えて、いつも人に見せている風景画用ではなく、こっそり自分の好きなものを描いている方のスケッチブックを持ってきてしまったのだ。授業中はバレないように必死だったけれど、バッグの中にそれが入っていると思うだけで、心臓が妙にドキドキする。


 「そういえば玲って、絵も上手いんだよね」

 突然、みのりが話題を変えた。

 「え? あ、いや、そんな……たいしたことないよ」

 玲は慌てて否定した。まさか、スケッチブックのこと、気づかれてる?


 「またまたー、謙遜しちゃって。この前の美術の風景画、すごく良かったって先生も褒めてたよ」

 「そ、そう?」

 「うん。なんかさ、玲って運動もできるし、絵も描けるし、すごいよね。何でもできるって感じ」

 みのりは屈託なく笑う。その笑顔が、玲には少しだけ眩しすぎた。そして、その言葉が、見えない棘のようにちくりと胸を刺した。


 (何でもできる、か……)


 そんなことない。できないことばかりだ。本当の気持ちを素直に言うこと。弱い自分を見せること。女の子らしい格好をすること。そういうのは、全部できない。みのりみたいに、自然に可愛くいられない。


 「陽向さんだって、すごいじゃん。誰とでも仲良くなれるし、いつも明るいし」

 玲は、少しだけ皮肉を込めて言ってみた。みのりの反応が見たかったのかもしれない。

 みのりは一瞬、ほんの一瞬だけ、笑顔を揺らがせたように見えた。でも、すぐにいつもの表情に戻って言った。

 「えー、私なんて、取り柄それくらいしかないよー」


 やっぱり、本心は見せない。玲は心の中でため息をついた。お互いに、仮面をつけたまま。それが、自分たちの間の、心地よくて、そして少し息苦しい距離感なのかもしれない。


 校門を出て、帰り道を歩く。夕暮れ時の光が、建物の影を長く伸ばしていた。

 その時、玲のバッグのファスナーが少し開いていて、そこからスケッチブックの角が見えていることに、みのりが気づいた。

 「あ、玲、バッグ開いてるよ」

 「え、マジ?」


 玲が慌ててファスナーを閉めようとした瞬間、バランスを崩し、バッグが手から滑り落ちた。

 バサッ、と鈍い音を立てて、中のものがいくつか道に散らばる。教科書、筆箱、そして――問題のスケッチブック。

 運悪く、スケッチブックは開いた状態で落ち、そこには玲がこっそり描いていた、フリルのついたドレスを着た、大きな瞳の少女の絵が晒されていた。


 「――っ!」


 玲は顔が真っ赤になるのを感じた。最悪だ。よりにもよって、みのりの前で。

 急いでスケッチブックを拾い上げようとする玲よりも早く、みのりの手がそれに伸びた。


 「わあ……!」


 みのりは、驚いたように声を上げた。しかし、その声には、嘲笑の色は全くなかった。むしろ、純粋な感嘆のような響きがあった。


 「これ、玲が描いたの? すっごく可愛い……!」


 みのりは、目をキラキラさせながら、スケッチブックの絵に見入っている。その表情は、玲が今まで見たことのない、素直で、飾らないものに見えた。


 「え……あ……その……」

 玲は、どう反応していいかわからず、言葉に詰まった。馬鹿にされるか、引かれるかと思っていたのに。


 「すごい、玲ってこんな絵も描くんだね。女の子の表情とか、ドレスのデザインとか、すごく素敵。なんか、見てるとキュンとしちゃう」

 みのりは、本当に嬉しそうに言った。

 「……陽向さん、こういうの、好きなの?」

 玲は、恐る恐る尋ねた。


 「うん! 大好きだよ! こういう可愛い世界観。でも、私、絵は全然ダメだから……だから、玲がこんな絵を描けるなんて、びっくりしたし、すごく嬉しい!」


 みのりの言葉には、嘘や建前は感じられなかった。玲は、拍子抜けするような、そして、心の奥がじんわりと温かくなるような、不思議な気持ちになった。


 「……そっか」

 玲は、ぽつりと呟いた。


 みのりはスケッチブックを玲に返し、散らばった他の荷物を拾うのを手伝ってくれた。

 帰り道、二人の間の空気は、少しだけ変わっていた。まだ、お互いの全てを知っているわけではない。けれど、分厚い仮面の一部が、ほんの少しだけ剥がれたような気がした。


 「ねえ、玲」と、みのりが言った。「今度、そのスケッチブック、もっと見せてもらってもいい?」

 「え……いいけど……あんまり上手くないよ?」

 「ううん、見たい! すごく楽しみ!」


 夕日が、みのりの笑顔をオレンジ色に照らしていた。その笑顔は、いつもの「完璧な」笑顔とは少し違う、柔らかくて、本物の光を放っているように、玲には見えた。玲も、つられて少しだけ、素直な笑顔を返すことができた。それは、まだぎこちないけれど、確かに自分の心から生まれた笑顔だった。



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