第3章:雨待ちの言葉
しとしと、と窓を打つ雨音が、図書室の静寂を一層深くしていた。梅雨入りにはまだ少し早いはずなのに、空は重たい灰色に覆われ、世界全体が湿り気を帯びているようだ。
白鳥しいなは、「開かずの間」の古い木の椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。あの予期せぬ邂逅から数週間、この場所はいつの間にか、六人にとって暗黙の了解のような、特別な空間になっていた。全員が揃うことは稀で、むしろ、一人か二人で静かに過ごすことの方が多い。
今日のこの部屋には、しいなともう一人だけ。一ノ瀬ことはが、部屋の隅にある小さな机に向かい、分厚い本を広げていた。彼女もまた、この雨の日の図書室を好んでいるようだった。時折、ページをめくる乾いた音だけが、単調な雨音に混じって聞こえてくる。
雨の日は、しいなの身体には少しだけ堪える。関節が鈍く痛み、身体全体が重く感じる。けれど、不思議と心は落ち着いていた。降り続く雨音が、思考のざわめきを洗い流してくれるような気がする。窓ガラスを伝う雨粒が、まるで知らない文字を描いているように見えた。景色は白くけぶり、現実と夢の境界線が曖昧になる。この感覚は、少し怖くもあるけれど、嫌いではなかった。自分の内側の風景と、外の世界がそっと重なり合うような、秘密めいた時間。
しいなは、膝の上に置いていた文庫本に視線を落とした。古い詩集。言葉は少なく、余白が多い。その余白に、雨音が染み込んでいくような気がした。
ふと、ことはが顔を上げた。視線がかち合う。しいなが小さく微笑むと、ことはは少しだけ驚いたような顔をして、すぐに視線を本に戻した。けれど、その一瞬の交錯に、言葉はないけれど、確かな存在の認識があった。この部屋では、無理に言葉を探す必要がない。沈黙が、気まずさではなく、穏やかな共有として存在している。それが、しいなには心地よかった。
しばらくして、ことはが静かに立ち上がり、しいなの方へやってきた。手には、先ほどまで読んでいた本とは別の、少し小さな詩集を持っている。
「白鳥さん……これ、もしよかったら」
差し出されたのは、海外の古い詩人の作品だった。装丁はシンプルだが、大切に読まれてきたことがわかる。
「ありがとう、一ノ瀬さん」
しいなはそれを受け取った。指先が微かに触れる。
「雨の日に、読むと……少し、違う気がするんです」
ことはは、ぽつりと言った。視線は少し斜め下を向いている。
「わかる気がします」と、しいなは静かに答えた。「雨の音って、言葉みたいですよね。意味はわからないけれど、何かをずっと語りかけてくるような」
その言葉に、ことはは顔を上げて、しいなをじっと見つめた。眼鏡の奥の瞳が、何かを探るように揺れている。しいなは、自分の内側にある、言葉にならない感覚の断片を、思い切って口にしたことに、少しだけ胸がどきりとした。けれど、ことはの前では、それが許されるような気がした。
「……そう、ですね」と、ことはは呟くように言った。「言葉にならない言葉、というか」
そして、少しの間、二人の間に再び沈黙が落ちた。けれどそれは、先ほどまでの穏やかな沈黙とは少し違う、何かとても大切なものが、そっと通い合った後のような、満たされた静けさだった。
やがて、閉館時間を告げる音楽が遠くから聞こえてきた。
「もう、そんな時間……」しいなは呟いた。
「帰りましょうか」ことはが言う。
二人は立ち上がり、部屋を出る準備を始めた。ことはが自分の本を鞄にしまう時、ページの間から、ぱらりと何かが床に落ちた。小さな、色褪せた押し花だった。
「あ……」
しいなが拾い上げると、それは紫色の、小さなスミレの花びらだった。繊細で、今にも壊れてしまいそうに儚い。
「ごめんなさい、栞代わりにしていたんです」ことはが少し慌てたように言った。
「きれい……」しいなは、その小さな花びらに見入った。「まるで、閉じ込められた言葉みたい」
ことはは、しいなの言葉にハッとしたような表情を見せた。そして、ゆっくりと言った。
「……よかったら、白鳥さん、持っていてください。その詩集の、栞に」
「え? でも……」
「いいんです。その方が、この子も嬉しいと思うので」
ことはは、少しだけ微笑んでみせた。それは、しいなが初めて見る、彼女の柔らかな表情だった。
しいなは、そっと押し花を受け取った。指先に伝わる、乾いた花びらの感触。それは、今日、二人の間に生まれた、言葉にならない約束のしるしのような気がした。
図書室を出ると、雨は小降りになっていた。湿った空気の中に、土と緑の匂いが混じっている。二人は並んで歩きながら、ほとんど言葉を交わさなかった。けれど、隣にいる互いの存在を、雨音のように静かに、そして確かに感じていた。空はまだ灰色だったけれど、雲の切れ間から、ほんの少しだけ、薄い光が差し込んでいるのが見えた。