第2章:埃と西日の図書室
放課後の図書室は、昼休みとは違う静けさに満ちていた。窓から斜めに差し込む西日が、床にくっきりと長い光の帯を描き、空気中を舞う微かな埃を金色にきらめかせている。高い書架が迷路のように連なり、その奥へ進むほど、しんと静まり返っていた。古い紙と、乾いた木の匂いが濃くなる。
一ノ瀬ことはは、その静寂の中をゆっくりと歩いていた。目当ての本は、人文科学の棚の、一番奥にあるはずだ。誰かの視線も、ざわめきもない。ただ、自分の革靴が床板を軋ませる音と、時折ページをめくる微かな音だけが響く。それが、ことはにとっては何より心地よい音楽だった。
棚の端までたどり着き、目的の本を探して背表紙を指で追う。その時、ふと視界の隅に、普段は気にも留めないものが映った。書架の陰になった突き当たりにある、古びた木の扉。濃い茶色で、表面には細かな傷がたくさんついている。確か、「関係者以外立入禁止」という小さな札が貼られていたはずだが、今はそれも見当たらない。そして、その扉が、ほんの少しだけ、開いているような気がした。
(気のせい、か……)
ことはは一瞬だけ足を止め、再び本を探し始めた。しかし、一度意識してしまった扉の存在が、妙に気にかかる。あの向こうには何があるのだろう。倉庫か、あるいは今は使われていない特別な部屋か。物語の始まりのような、微かな予感が胸を掠めた。
* * *
白鳥しいなは、人気のない図書室の奥へ、吸い寄せられるように歩を進めていた。今日の授業は特に疲れたわけではないけれど、身体の奥に鉛のような重さを感じる。教室や廊下の明るい喧騒は、今のしいなには少し眩しすぎる。どこか、静かで、薄暗くて、誰にも邪魔されない場所はないだろうか。
書架の迷路を抜け、一番奥の突き当たりまで来た時、しいなは足を止めた。そこには、古びた木の扉があった。そして、その扉の前に、見慣れた背中が立っているのに気づいた。一ノ瀬さんだ。彼女は扉をじっと見つめているようだった。
声をかけるべきか迷い、しいなは少し離れた書架の陰に身を寄せた。一ノ瀬さんは、本が好きで、いつも静かな人。彼女もまた、この図書室の静けさを求めてここまで来たのかもしれない。
すると、一ノ瀬さんがゆっくりと扉に手を伸ばし、古びた金属の取っ手を掴んだ。ギ、と小さな軋む音を立てて、扉が内側へさらに開いた。中から、埃っぽい、黴と古紙が混じったような独特の匂いが流れ出してくる。しいなは、息を呑んでその様子を見守っていた。
* * *
氷川澪が図書室の奥へと向かったのは、ある特定の論文を探すためだった。インターネットで検索してもヒットしない、古い学術雑誌に掲載されているらしい。司書の先生に尋ねると、書庫にあるかもしれないが、今は整理中で立ち入り禁止になっているとのことだった。諦めて別の資料を探そうと書架の間を歩いていた時、澪は突き当たりの扉の前で立ち止まっている一ノ瀬ことはと、少し離れた場所にいる白鳥しいなの姿を認識した。
(何をしているのだろう?)
論理的ではない行動。しかし、澪の好奇心を刺激するには十分だった。特に、一ノ瀬ことはが、躊躇いがちに、しかし確かな意志を持って扉を開けようとしている様子は、普段の彼女からは想像しにくいものだった。
澪は、気配を消して近づき、二人の視線の先にある扉を見た。古びてはいるが、頑丈そうな造りだ。そして、わずかに開いた隙間から、濃密な闇と、時間の止まったような空気が漂ってくるのを感じた。合理的ではない。けれど、その非合理性に強く惹かれる自分がいることに、澪は少し驚いていた。
* * *
「最悪……なんで今日に限って忘れ物……」
星野アカリは、半泣きになりながら図書室の入り口に立っていた。放課後、誰にも会わずに速攻で帰宅するはずだったのに、教室に一番大事なスケッチブック(アイデア帳)を忘れてきたことに気づいたのだ。しかも、クラスメイトに聞くと「図書委員の子が預かってくれてるかも」と言われた。つまり、この怖い場所に来なければならない。
おそるおそる中に入り、カウンターに向かう。幸い、司書の先生は不在で、カウンターには誰もいなかった。代わりに、「忘れ物はカウンター横の箱へ」という張り紙。箱を覗くと、あった。自分のスケッチブックだ。
ほっと胸を撫で下ろし、一刻も早くここから立ち去ろうとした、その時。
図書室の奥の方から、ギィ……という、古い扉が開くような、軋んだ音が聞こえた気がした。
びくりとして、アカリは身体を硬直させる。誰かいる? まさか、お化けとか……? いやいや、そんな非科学的な。でも、図書室って、そういう噂、あるよね……?
好奇心と恐怖がせめぎ合う。帰りたい。でも、音の正体が気になる。アカリは、抜き足差し足、音を立てないように、まるで不審者のように、音のした方へと恐る恐る近づいていった。そして、書架の隙間から見た。一番奥の突き当たり。古びた扉。そして、その前にいる、クラスメイトたちの姿――氷川さん、一ノ瀬さん、白鳥さん……!?
え、なんでみんなこんなところに? 何してるの……? アカリは混乱しながら、物陰に隠れて息を潜めた。
* * *
橘玲は、少し時間を持て余していた。部活が急遽休みになり、かといってすぐに家に帰る気分でもない。教室で友人たちと駄弁ることもできたが、なんとなく一人になりたい気分だった。ぶらぶらと校舎を歩き、気づけば図書室の前にいた。
(……なんか、探してる本、あったっけな)
特に目的があったわけではない。ただ、なんとなく、静かな場所に行きたかったのかもしれない。中に入ると、思ったよりも人が少なく、静かだった。カウンターを通り過ぎ、雑誌コーナーを少し眺める。スポーツ雑誌、ファッション雑誌……どれも、今の気分にはしっくりこない。
ふらふらと奥へ進む。高い書架が並び、迷路のようだ。昔、ここでかくれんぼをしたことを思い出す。その時、一番奥に、開かない扉があったような……。
そんなことを考えながら角を曲がった瞬間、玲は予期せぬ光景に足を止めた。
一番奥の突き当たり。古びた扉が、開いている。そして、その中に吸い込まれるように入っていく、一ノ瀬と氷川の後ろ姿が見えた。扉のすぐそばには白鳥が立ち尽くしていて、少し離れた書架の陰には、星野らしき姿が隠れている。
「……は?」
何が起こっているのか、全く理解できない。秘密の集会? 何かヤバいこと? 玲の頭の中に、様々な憶測が駆け巡る。好奇心と、わずかな警戒心。そして、白鳥の心配そうな、でもどこか引き寄せられているような表情が気になった。玲は、無意識のうちに、そちらへ足を踏み出していた。
* * *
陽向みのりは、友人に頼まれた歴史小説を探して、図書室の奥の書架を眺めていた。普段あまり来ないエリアだが、指定された本はなかなか見つからない。
(どこかなあ……あ、あった)
目当ての本を見つけ、手に取った時、みのりはすぐ近くで微かな物音がしたのに気づいた。視線を向けると、突き当たりの古びた扉が開いていて、その前に数人のクラスメイトが集まっている。氷川さん、一ノ瀬さん、白鳥さん、星野さん……それに、今まさに近づいていこうとしている、橘さんまで。
(え、みんな、どうしたんだろ?)
いつもの「調整役」としてのアンテナが反応する。何か問題でも起きているのだろうか。それとも、何か面白いこと? みのりは、持ち前の人当たりの良い笑顔で近づいていった。
「みんな、こんなところでどうしたのー?」
声をかけると、扉の前にいたしいなと、物陰に隠れていたアカリがびくりと肩を震わせた。玲も驚いたように振り返る。扉の中に入っていったことはと澪は、まだ気づいていないようだ。
開いた扉の向こうは、予想以上に暗かった。埃っぽい匂いと、ひんやりとした空気が漂ってくる。西日が、開いた隙間から細い光の筋となって、暗闇の中に延びているのが見えた。それはまるで、異世界への入り口のようにも見えて、みのりの胸が少しだけ、騒いだ。
ことはと澪が、暗闇の中で何かを見つけたように、足を止めた気配がした。
しいなが、ためらうように一歩、扉の中へ足を踏み入れる。
玲が、少し警戒しながらも、しいなに続くように中を覗き込む。
アカリが、恐怖と好奇心で震えながら、物陰からそっと顔を出す。
そしてみのりもまた、笑顔のまま、その不思議な空間へと誘われるように、一歩、足を踏み出した。
薄暗い部屋の中、埃っぽい空気、窓から差し込む斜陽。古い映写機らしきもののシルエット。
そして、予期せず同じ場所に集まった、六人の少女たち。
互いの存在に気づき、言葉もなく、ただ視線を交わす。
驚き、戸惑い、好奇心、不安――様々な感情がないまぜになった、奇妙な静寂が、その空間を満たしていた。
これが「開かずの間」での6人の初めての出逢いだった。