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【百合女子学園短編小説小説】「境界線のアリスたち」  作者: 霧崎薫


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第15章:言葉の向こう側

 文化祭の喧騒が嘘のように過ぎ去り、学校には再び日常が戻ってきた。しかし、あの二日間の非日常的な体験は、六人の少女たちの心に、消えない確かな痕跡を残していた。特に、玲の勇気ある自己開示、みのりの涙の告白、そしてアカリの感動的な作品発表は、グループ全体の空気を微妙に変えつつあった。


 だが、しいなとことはの間に横たわる溝は、まだ埋まらないままだった。互いに相手を気にかけてはいるものの、どう切り出していいのかわからず、時間はいたずらに過ぎていく。「開かずの間」で顔を合わせても、交わされるのはぎこちない挨拶だけ。あの雨の日に通い合った、言葉にならない温かい空気は、すっかり失われてしまったように思えた。


 一ノ瀬ことはは、苦しんでいた。しいなの言葉に傷ついた事実は消えない。けれど、文化祭で見た仲間たちの姿――特に、自分の殻を破ろうともがく玲やアカリ、そして涙ながらに本音を語ったみのりの姿――は、ことは自身の頑なな心を揺さぶっていた。自分だけが、過去の傷に囚われ、前に進めずにいるのではないか。


 (言葉は、人を傷つける……でも)


 ことはは、図書室の窓から見える、秋晴れの空を見上げた。言葉は、繋がりを生むこともできるはずだ。自分は、言葉を愛し、言葉の力を信じてきたはずなのに。今、その言葉が、しいなとの間に壁を作ってしまっている。


 (どうすれば、伝わるんだろう……私の気持ちも、そして、たぶん、しいなさんの本当の気持ちも)


 あの時のしいなの言葉は、確かに冷たく響いた。けれど、今思い返せば、そこには彼女特有の、世界に対する諦観や、壊れやすいものへの眼差しがあったのかもしれない。それは、ことはが決して理解できないものではないはずだ。ただ、感情が邪魔をして、受け入れることができなかっただけで。


 ことはは、鞄から一冊のノートを取り出した。それは、誰にも見せたことのない、彼女自身の言葉が綴られたノートだった。詩とも、散文ともつかない、断片的な思いの欠片。そこには、しいなへの複雑な感情も、言葉にならない形で書き留められていた。


 (これを、見せる……?)


 そんな考えが浮かび、ことははすぐに首を振った。恥ずかしい。それに、こんなものを読んでもらっても、しいなには何も伝わらないかもしれない。言葉は、時にあまりにも無力だ。


 一方、白鳥しいなもまた、言葉の壁の前で立ち尽くしていた。ことはに謝りたい。誤解を解きたい。けれど、どんな言葉を選べば、自分の真意が伝わるのか分からない。下手に言葉にすれば、また彼女を傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、口を開くことができなかった。


 文化祭の朗読劇で、クラスメイトたちが生き生きと台詞を語る姿を見て、しいなは改めて表現への渇望を感じていた。けれど、自分には、あんな風に明瞭な言葉で感情を表すことは難しい。自分の内なる世界は、もっと曖昧で、揺らいでいて、言葉にするにはあまりにも繊細すぎるように思えた。


 (私には、言葉じゃない、何か別の方法が必要なのかも……)


 そんなことを考えながら、「開かずの間」の椅子に座っていると、ふと、机の上に置かれた一枚の紙が目に入った。それは、アカリが文化祭のアニメ制作で使っていた、パラパラ漫画の練習用のメモ用紙のようだった。隅には、ドット絵のキャラクターが、少しずつ動きを変えて描かれている。


 しいなは、その紙を手に取り、パラパラとめくってみた。すると、単純な線で描かれたキャラクターが、まるで生きているかのように動き出す。言葉はない。けれど、その動きだけで、キャラクターが寂しそうにしていることや、何かを探していることが、不思議と伝わってくる。


 (……これなら)


 しいなの心に、小さな光が灯った。言葉にするのが難しいなら、絵で、動きで、伝えてみることはできないだろうか。自分の内なる、あの揺らめくような感覚、儚いけれど美しいと感じる風景、そして、ことはへの謝罪と、それでも繋がりたいという気持ち。それを、このパラパラ漫画のように、ささやかな形で表現してみることは……?


 しいなは、鞄から無地のノートとペンを取り出した。心臓が少しだけ早く打っている。うまくいくかは分からない。けれど、何もしないままではいられない。


 その時、「開かずの間」の扉が静かに開き、ことはが入ってきた。二人の視線が、一瞬だけ交錯する。ぎこちない空気が流れる。ことはは、すぐに視線を逸らし、部屋の反対側にある書架へと向かった。


 しいなは、ノートをぎゅっと握りしめた。今だ。今、何か行動しなければ。

 でも、何て言えばいい?


 ことはが、書架から一冊の本を取り出し、こちらに背を向けたまま、ページをめくり始めた。その背中が、頑なに心を閉ざしているように見えて、しいなの勇気は萎みかけた。


 (……だめだ、やっぱり)


 諦めかけた、その時。

 ことはが、ふっと息を吐き、ゆっくりと振り返った。その手には、先ほどの本ではなく、彼女自身の、あの秘密のノートが握られていた。


 ことはは、何かを決意したような、しかし不安と躊躇いに満ちた表情で、しいなの方へと歩いてきた。そして、しいなの目の前で立ち止まると、無言で、そのノートを差し出した。


 「……これ」

 かろうじて、それだけを言うのが精一杯のようだった。


 しいなは、驚いてことはを見上げた。ノートを受け取る手が、微かに震えている。

 開いてもいいのだろうか。彼女の、一番プライベートな場所に触れてもいいのだろうか。


 ことはは、視線を合わせられないまま、小さく頷いた。


 しいなは、おそるおそるノートを開いた。そこには、ことはの繊細な筆跡で、言葉にならない感情の断片が、詩のように綴られていた。喜び、悲しみ、孤独、憧れ……そして、しいなとの間に起こった出来事に対する、痛みと、混乱と、それでも捨てきれない何かが、そこにはあった。

 言葉は、時に直接的ではなく、比喩や断章の形で、しかし、紛れもなく、ことはの生々しい心の声として響いてきた。


 しいなの目から、涙が溢れた。言葉にしなくても、伝わってきた。ことはの苦しみ、そして、彼女がこのノートを差し出すことに込めた、計り知れない勇気。


 しいなは、顔を上げた。ことはも、涙を浮かべた瞳で、しいなを見つめ返していた。


 「……ごめんなさい」

 しいなは、今度こそ、心からの言葉を口にした。

 「私の言葉が、あなたを傷つけた。本当に、ごめんなさい」


 ことはは、首を横に振った。

 「ううん……私も、ごめんなさい。ちゃんと、あなたの言葉の奥にあるものを、聞こうとしなかった」


 二人の間に、ようやく、正直な言葉が交わされた。けれど、それだけではなかった。ことはが差し出したノート、そして、しいなが流した涙。それらは、言葉以上に雄弁に、互いの心を繋ぎ合わせていた。


 しいなは、自分が持っていたノートとペンを、ことはに見せた。

 「私も……伝えたいことがあって……言葉じゃなくて、これで、伝えようと思ってたの」

 ノートには、まだ何も描かれていない。けれど、その意思は、ことはに伝わったようだった。


 ことはは、ふっと微笑んだ。それは、あの雨の日以来の、柔らかで、心からの微笑みだった。

 「……見てみたいな。あなたの描く、言葉」


 言葉の壁は、完全にはなくならないのかもしれない。けれど、言葉の向こう側にある想いを伝えようとする意志、そして、それを受け止めようとする心があれば、繋がりは再び生まれる。

 秋の柔らかな日差しが、「開かずの間」に差し込み、二人の少女を優しく照らしていた。壊れたガラス細工は、元通りにはならないかもしれないけれど、そのひび割れさえも、二人の関係性の新たな模様として、受け入れていけるような気がした。言葉と、言葉にならないものとが織りなす、繊細で、けれど確かな絆が、そこに再び結ばれようとしていた。

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