第13章:舞台袖のアリス
文化祭当日。
校内は朝から活気に満ち溢れ、生徒たちの熱気と、訪れた保護者や地域の人々の賑わいで、普段の静かな学校とは別世界のようだった。カラフルな装飾、模擬店の呼び込みの声、体育館から漏れ聞こえるステージ発表の音楽。その全てが、非日常的な高揚感を作り出していた。
橘玲たちのクラスの模擬店(クレープ屋)は大盛況だった。玲は、持ち前の手際の良さと明るい接客で、次々と注文をこなしていく。汗を光らせ、笑顔で対応する姿は、まさにクラスの人気者、頼れるリーダーそのものだ。周りのクラスメイトたちも、玲の働きぶりに感嘆の声を上げていた。
しかし、玲の心の中は、別のことでいっぱいだった。今日、クラスの出し物とは別に、有志参加のフリーステージが体育館で行われる。玲は、昨夜、大きな決断をしていた。そのステージで、自分の描いた絵を、数枚だけだが、展示してみよう、と。みのりに背中を押され、そして何より、自分自身が変わりたいと強く願った結果だった。
玲は、模擬店のシフトの合間を縫って、体育館の舞台袖へと向かった。手には、厳選した数枚のイラストを入れたファイルを持っている。心臓が、早鐘のように鳴っている。今からでも、引き返した方がいいのではないか。やっぱり、馬鹿にされるだけかもしれない。そんな弱気が、何度も頭をもたげる。
舞台袖は、表の華やかさとは対照的に、薄暗く、雑然としていた。出番を待つ生徒たちの緊張した面持ち、スタッフの慌ただしい動き、そして、ステージから漏れ聞こえてくる歓声や音楽。その全てが、玲の不安を掻き立てた。
「……玲?」
不意に、背後から声がした。振り返ると、そこには陽向みのりが立っていた。彼女は、クラスの模擬店のシフトを終え、玲の様子を見に来てくれたようだった。その顔には、心配と、そして期待の色が浮かんでいた。
「陽向さん……」
「大丈夫? 顔、真っ青だよ」
みのりは、そっと玲の腕に触れた。その手は少し冷たかったが、温かい気遣いが伝わってくる。
「……やっぱ、無理かも」玲は弱音を吐いた。「こんな、フリフリの、女の子っぽい絵……みんな、引くに決まってる」
ファイルを持つ手が、震えている。
みのりは、何も言わずに、玲の手をそっと握りしめた。そして、真っ直ぐに玲の目を見て言った。
「大丈夫だよ。玲の絵は、すごく素敵だもん。それにね、もし、誰かに何か言われたとしても、私がいる。玲の絵が大好きだって、私が一番大きな声で言ってあげる」
その言葉は、何の飾りもない、みのりの本心からのものだと、玲には分かった。いつも周りの空気を読んで、当たり障りのないことばかり言っていた(ように見えた)みのりが、今は、玲のためだけに、強い言葉をくれている。
「……陽向さん」
玲の目頭が熱くなった。
「それにね」と、みのりは続けた。声が、少し震えている。「玲だけじゃないんだよ。怖いのは。……私も、ずっと、怖いんだ」
「え……?」
「いつも笑って、明るくして……そうしないと、みんながっかりするんじゃないかって。本当は、すごく疲れてる時も、悲しい時も、怒りたい時もあるのに……それを言ったら、嫌われるんじゃないかって……ずっと、怖かった」
みのりの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。それは、玲が初めて見る、彼女の涙だった。いつも完璧な笑顔の仮面の下に隠されていた、生身の感情。
「ごめん……こんな時に、泣いちゃって……」
みのりは慌てて涙を拭う。
「……陽向さん」
玲は、衝動的にみのりを抱きしめていた。華奢な身体が、微かに震えている。
「……知ってたよ。陽向さんが、無理してること。時々、すごく辛そうな顔、してたから」
みのりは、玲の腕の中で、声を殺して泣いた。それは、溜め込んでいた感情が、堰を切ったように溢れ出した、静かな、しかし激しい嗚咽だった。舞台袖の薄暗がりが、彼女の涙を優しく包み込んでいるかのようだった。
玲は、みのりの背中をそっと撫でながら、自分自身の心の中にも、温かいものが込み上げてくるのを感じていた。みのりの涙は、玲自身の恐怖や不安をも、洗い流してくれるような気がした。
やがて、みのりは少し落ち着きを取り戻し、玲から身体を離した。目元は赤くなっていたが、その表情は、どこか吹っ切れたように、すっきりとしていた。
「……ありがとう、玲。聞いてくれて」
「ううん」
「私、決めた」みのりは、強い意志を込めて言った。「もう、無理して笑うのはやめる。ちゃんと、自分の気持ち、言うようにする。……たとえ、嫌われたとしても」
その言葉は、みのりにとって、大きな決意表明だった。長年被り続けてきた「良い子」の仮面を脱ぎ捨てるという、勇気ある一歩。
そして、みのりは玲に向き直り、力強い笑顔を見せた。それは、いつもの作られた笑顔ではなく、涙の後に咲いた、本物の花のような笑顔だった。
「だから、玲も行っておいで! 玲の素敵な世界を、みんなに見せてきて!」
みのりの言葉に、玲の迷いは消えていた。胸の中に、確かな勇気が湧き上がってくる。
「……うん。行ってくる!」
玲は、ファイルをしっかりと抱え直し、ステージへと続く通路に向かった。舞台袖の暗がりから、表舞台の眩しい光の中へ。それは、玲にとって、自分自身の殻を破り、新しい世界へと踏み出す瞬間だった。
みのりは、その後ろ姿を、涙の滲んだ瞳で見送っていた。玲の勇気が、自分にも伝染したような気がした。自分もまた、この舞台袖という「境界線」を越えて、新しい自分になれるかもしれない。
舞台の上では、次のパフォーマーの紹介が始まっていた。玲の名前が呼ばれる。
みのりは、祈るように手を組み、心の中で叫んだ。
(頑張れ、玲!)
それは、玲へのエールであると同時に、新しい一歩を踏み出そうとしている、自分自身へのエールでもあった。舞台袖のアリスたちは、今、それぞれの殻を破り、光の中へと歩み出そうとしていた。