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第10章:ガラス細工の波紋

 秋風が吹き始め、空が高く澄み渡るようになった。夏休みの出来事を経て、六人の関係性は、以前とは比べ物にならないほど深まっていた。特に「開かずの間」は、彼女たちにとってかけがえのない、心を許せる場所となっていた。しかし、近づけば近づくほど、見えてくるものがある。互いの繊細さ、脆さ、そして、意図しない言葉が生む波紋。


 その日は、放課後の「開かずの間」に、しいな、ことは、玲、みのりの四人が集まっていた。澪とアカリは、何か技術的な問題について議論が白熱しているらしく、図書室の別の場所でパソコンを囲んでいるようだ。


 しいなは、窓辺の椅子に座り、ことはから以前借りた詩集を静かに読んでいた。最近、しいなの体調は比較的安定していたが、その分、感受性はより鋭敏になっているようだった。窓の外の木々の葉が風に揺れる音、遠くで響く運動部の掛け声、そして、部屋の中にいる友人たちの微かな息遣い。それらが、しいなの意識の中に、まるで透明なガラス細工のように繊細なイメージを形作っていた。


 玲とみのりは、少し離れた場所で、玲のスケッチブックを囲んで小声で話していた。玲は、みのりや、時にはことはにも、自分の描いた絵を見せるようになっていた。みのりは相変わらず熱心に褒め、ことはは的確な(時に少し辛辣な)批評をくれる。それは玲にとって、大きな励みになっていた。


 「このドレスのデザイン、すごく凝ってるね! 色合いも綺麗」みのりが感嘆の声を上げる。

 「そうか? なんか、ちょっとフリルつけすぎたかなって……」玲が照れながら言う。

 「ううん、全然! このくらい華やかな方が、玲の世界観って感じがするよ」


 二人の楽しげな会話が、しいなの耳にも届いてくる。それは微笑ましい光景のはずなのに、なぜか、しいなの心に小さな波紋が広がった。ガラス細工に、ひびが入るような微かな感覚。


 (玲の世界観……)


 玲が描く、キラキラとした、ファンタジックで可愛らしい世界。それは確かに玲の一部なのだろう。けれど、しいなは、玲の持つ別の側面――体育館で一人、黙々とボールをついていた時の、ストイックで少し影のある横顔――も知っている(気がする)。あのフィルムで見た光景は、幻想だったのだろうか。それとも、それもまた、玲の「本当」の一部なのだろうか。


 そして、みのりの言葉。「玲の世界観って感じ」。みのりは、玲のどの部分を見て、そう言っているのだろう。彼女が玲に見せている顔と、しいなや他のメンバーに見せる顔は、違うのだろうか。


 そんな思考が、しいなの心をざわつかせた。それは、明確な嫉妬というよりも、もっと曖昧で、捉えどころのない感情だった。自分だけが知っている(かもしれない)と思っていた友人の一面が、他の誰かによって、違う形で語られることへの戸惑い。そして、深まってきたはずの繋がりの中で、まだ自分たちが互いのほんの一部しか見ていないのかもしれないという、漠然とした不安。


 しいなは、無意識のうちに、詩集を持つ手に力がこもっていた。カサリ、と乾いた音がして、ページが少しだけ皺になった。そして、栞にしていた、ことはからもらったスミレの押し花が、はらりと床に落ちた。


 「あ……」

 しいなは慌てて拾おうとしたが、隣にいたことはの方が早かった。

 「大丈夫?」

 ことはは、押し花を拾い上げ、しいなに手渡そうとした。その瞬間、ことはの指先が、押し花の脆くなった花びらに触れ、ほんの一部が、粉のように崩れた。


 「――っ!」


 しいなは、息を呑んだ。それは、ほんの僅かな欠損だった。けれど、しいなの目には、まるで大切な宝物が、修復不可能なほど壊れてしまったかのように映った。あの雨の日に、ことはとの間に生まれた、言葉にならない約束のしるし。それが、損なわれてしまった。


 ことはも、自分の不注意に気づき、ハッとした表情でしいなを見た。

 「ごめ……わざとじゃ……」


 「……いいの」

 しいなは、努めて平静を装って言った。けれど、声は微かに震えていた。そして、自分でも予期しない言葉が、口をついて出た。

 「……どうせ、いつかは壊れるものだから。形あるものは、みんな」


 その言葉は、しいなの心の奥底にある、諦観や、世界の儚さに対する感覚から生まれたものだった。けれど、その響きは、ことはの耳には、冷たく、突き放すように聞こえたかもしれない。


 ことはは、傷ついたような顔で、しいなから視線を逸らした。そして、黙って自分の席に戻り、再び本を開いた。けれど、そのページを追う瞳は、明らかに動揺していた。


 玲とみのりも、二人の間のただならぬ空気に気づき、会話を止めて心配そうにこちらを見ていた。部屋の中に、気まずい沈黙が重く漂う。先ほどまで和やかだった空気が、一瞬にして凍りついたかのようだ。


 しいなは、自分の発した言葉の棘に、後から気づいて愕然とした。ことはを傷つけるつもりなんて、全くなかった。ただ、押し花が壊れたことへのショックと、先ほどから感じていた心のざわめきが、不適切な形で表に出てしまっただけだ。


 謝らなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。どう言えば、誤解が解けるだろうか。自分の感じている、この複雑で繊細な感覚を、どう伝えればいいのだろうか。


 みのりが、心配そうに近づいてきた。

 「白鳥さん、ことはさん、どうしたの……? 何かあった?」

 その優しい問いかけが、今はかえって苦しい。


 「……なんでもない」ことはが、本から顔を上げずに答えた。その声は硬く、拒絶の色を帯びているように聞こえた。


 しいなは、胸が締め付けられるような痛みを感じた。繊細なガラス細工だと思っていた繋がりが、自分の不用意な一言で、簡単にひび割れてしまった。修復できるのだろうか。それとも、このひびは、永遠に残ってしまうのだろうか。


 玲が、困ったようにしいなとことはを交互に見た。彼女なりに、何か言葉を探しているようだったが、うまく見つけられないらしい。


 「……ごめん」

 しいなは、ようやくそれだけを絞り出した。けれど、その言葉が、ことはに届いたかどうかは分からなかった。


 窓の外では、秋の陽が静かに傾き始めていた。部屋の中に落ちる光と影のコントラストが、より一層強くなっている。それはまるで、彼女たちの心の中にある、光と影、理解と誤解、繋がりと断絶を映し出しているかのようだった。

 ガラス細工に走ったひび。その波紋は、静かに、しかし確実に、彼女たちの間に広がっていく。この亀裂を、彼女たちはどう乗り越えていくのだろうか。あるいは、この脆さこそが、彼女たちの関係性の本質なのかもしれない。確かなことは、この日の出来事が、彼女たちの絆を試す、最初の大きな試練となるだろうということだけだった。

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