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第1章:六人のアリス

 五月。

 窓から滑り込む陽光は、もう初夏の色をしていた。


 白鳥しいなは、窓際の席で頬杖をつきながら、校庭の楠の葉が風に揺れるのをぼんやりと眺めていた。教室の中の喧騒が、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側のように遠く聞こえる。ざわめき、笑い声、誰かを呼ぶ声。それらはしいなの耳には届くけれど、心の表面を滑っていくだけで、染み込んではこない。体調は悪くない。ただ、世界との間に薄い膜が張られているような、そんな浮遊感が常にまとわりついている。特に、こんな明るい光に満ちた日は。


 しいなはそっと息を吐き、視線を教室の中に戻した。新しいクラスになって一ヶ月が過ぎたけれど、まだ本当の意味で「ここ」にいるという実感はなかった。時折、心配そうに声をかけてくれる子はいる。けれど、その優しさが逆に、自分と他の子たちとの間にある見えない壁を際立たせる気がした。大丈夫ですよ、と微笑んでみせる。その笑顔がうまく作れているのか、しいなには分からない。ただ、陽光に透ける自分の手の甲が、頼りないほど白く見えた。


* * *


 昼休みを知らせるチャイムが鳴り終わらないうちに、一ノ瀬ことはは読みかけの本を閉じ、鞄を持って席を立った。周囲の生徒たちが弁当の包みを開けたり、グループで移動し始めたりするざわめきを背中に感じながら、早足で廊下に出る。目指す場所は決まっている。図書室だ。

 廊下は生徒たちの声で満ちている。楽しげな声、不満げな声、ひそひそ話す声。それらが混ざり合って、意味を持たない音の洪水のようにことはの周りを流れていく。早く、静かな場所へ。言葉が、秩序立てて並んでいる場所へ。


 (次は、何を読もうか)


 頭の中では、もう次の物語が始まっている。最近気になっているのは、少しマイナーな海外の幻想文学。あるいは、忘れ去られた詩人の詩集。誰かが読み込んだ跡のある、古い紙の匂いがする本がいい。ことはは少しだけ早足になりながら、眼鏡の位置を指で押し上げた。本のページをめくる音だけが聞こえる、あの静謐な空間を思うと、胸が小さく高鳴るのだった。現実のざわめきから逃れるための、自分だけの避難所。


* * *


 「玲ー! 次の体育、合同だって!」

 「マジ? かったるー」


 体育の授業が終わり、汗を拭きながら教室へ戻る途中、快活な声に橘玲は笑顔で応えた。ジャージ姿の玲は、クラスの中でもひときわ目立つ。すらりとした長身、日に焼けた肌、短い髪。男女問わず、彼女の周りにはいつも人が集まっていた。


 「また男子とドッジボールかなあ」

 「玲がいれば余裕っしょ!」


 そんな言葉に、玲は「まあね」と軽く笑ってみせる。期待されていることは分かっている。

 運動神経が良くて、明るくて、頼りになる「橘玲」。

 その役割を演じるのは、もう慣れていた。疲れていないわけではない。

 むしろ、身体の芯には重い疲労感が残っている。

 それでも、笑顔でいる方がずっと楽だった。


 ふと、廊下の窓から差し込む光の中に、白い姿が見えた。窓際で外を眺めている、白鳥さんだ。入学してから何度か言葉を交わしたけれど、いつもどこか儚げで、すぐに消えてしまいそうな印象を受ける。大丈夫なのだろうか、と少しだけ思う。けれど、玲はその思いをすぐに打ち消した。自分にできることなんて、何もない。

 玲は再び友人たちとの他愛ない会話に意識を戻し、わざと大きな声で笑った。


* * *


 氷川澪は、自分の席で静かに本を読んでいた。周囲の喧騒は耳に入っているが、意識は活字が紡ぐ論理の世界に集中している。プラトンの対話篇。言葉による厳密な思考の構築。そこに美しさを感じた。

 ふと顔を上げると、教室の中は様々な感情が渦巻いているように見えた。喜び、不満、気怠さ、期待。それらは非言語的なサインとして澪の目に映るが、その根源にある非合理的な衝動や揺らぎは、まるで異国の言語のように理解が難しい。


 (なぜ、彼女たちはあんなに些細なことで笑い合えるのだろう)

 (なぜ、あの生徒はあんなに不機嫌そうな顔をしているのだろう。論理的な理由はあるのだろうか?)


 分析しようと試みるが、すぐに思考は迷路に入る。人間の感情は、数式のように解き明かせない。その事実に、わずかな苛立ちと、それ以上に強い好奇心を覚える。自分だけが、この教室の中で異質な存在のような気がした。それは、優越感と、ほんの少しの寂しさを伴う感覚だった。澪は再び本に視線を落とし、整然とした言葉の世界に意識を沈めた。


* * *


 星野アカリは、教室の後ろの隅で、できるだけ小さくなっていた。机に置かれた教科書は開いているが、その内容は全く頭に入ってこない。視線は、すぐ前の席に座る生徒の背中に固定されている。その背中が動くたびに、アカリの肩がびくりと震えた。


 (話しかけられたらどうしよう……)

 (目が合ったら……いや、合うわけない。私なんて見えてない)


 頭の中では、昨晩遅くまで見ていたアニメの戦闘シーンが、勝手に再生されている。現実の教室の音は遠く、代わりにキャラクターたちの声や効果音が鳴り響いていた。自分の好きなこと、得意なこと――絵を描くこと、プログラムを組むこと、物語を考えること――はたくさんある。でも、それを誰かに話すなんて考えられない。馬鹿にされるかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない。そんな恐怖が、常にアカリの心を縛っていた。


 鞄にこっそり付けている、小さなキャラクターのキーホルダーを指で撫でる。それだけが、この息苦しい現実世界での、ささやかなお守りだった。早く放課後にならないか。自分の部屋という安全な要塞に帰り、モニターの光の中に逃げ込みたい。アカリはそっと息を殺し、再び前の席の背中を見つめた。


* * *


 「それでね、昨日のドラマ見た? 超展開だったよね!」

 「見た見た! まさかあの人が犯人だったなんて!」


 陽向みのりは、クラスの中心で繰り広げられる会話に、明るい笑顔で相槌を打っていた。周りには常に三、四人の友人がいて、話題は目まぐるしく変わっていく。みのりは、その流れに乗り遅れることなく、的確なタイミングで質問をしたり、共感を示したり、場を和ませるような冗談を言ったりした。


 (うんうん、それで? なるほどね)

 (あ、この話題は、あの子はあんまり興味なさそう。そろそろ変えようかな)


 笑顔の下で、みのりの意識は常に周囲に張り巡らされている。誰がどんな表情をしているか、誰が会話に入りたそうにしているか、誰が少し退屈しているか。

 まるで高性能なレーダーのように、場の空気を敏感に察知し、最適解を探し続ける。

 大家族の中で揉まれて育ったせいか、それはもう、ほとんど無意識な彼女の習慣になっていた。


 楽しい。

 みんなと笑い合っている時間は、確かに楽しい。

 けれど、ふとした瞬間に、自分がこの輪の中から少しだけ浮いているような、奇妙な感覚に襲われることがある。まるで、舞台の上で役を演じているような。みんなが期待する「陽向みのり」を。

 みのりは、輪の中心で笑いながら、そっと教室全体を見渡した。窓際で外を見ている白鳥さん。一人で本を読む氷川さん。隅で小さくなっている星野さん。みんな、それぞれの世界を持っているように見えた。みのりは、再び目の前の会話に意識を戻し、とびきりの笑顔を作った。


 それが、今の自分の役割だから。

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