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征なる途  作者: 甲殻類
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ニュークリア・アワー


 ニュークリア・アワー


 2001年9月11日、ニューヨークのワールドトレードセンター貿易ビルにハイジャックされた2機の旅客機が突入した。

 その日のニューヨークは、いつもどおりの平和な朝を迎えたばかりで、人々はいつもと同じ時間に、それぞれの勤務先や学校へと出勤・通学し、いつもどおりの日常を送っていた。

 その全てが突如として崩壊した。

 WTCビルに突入した旅客機の乗員・乗客は即死。旅客機が突入した階にいた人々も同様だった。

 その後に発生した火災によってビル内に取り残された人々は、最終的にビルが崩壊した際に帰らぬ人となった。

 ビル崩壊まで内部とは携帯電話で通話することが可能で、助けを求める悲痛な叫びや愛する家族に別れを告げる膨大な音声記録が残された。

 死者数千人、負傷者は26,000人以上という大惨事だった。

 インターネットや衛星放送で全世界に同時中継された国際テロ組織アルカイダの奇襲攻撃によって、アメリカ合衆国は対テロ戦争という新しい戦争に突入することになった。

 当時の首相である古泉純一郎は、テロ攻撃を厳しく批判し、アメリカが掲げたテロの戦いへの参加を表明した。

 日本は、1989年にはセクトの乱という大規模な核テロ未遂を経験し、さらに95年には地下鉄サリン事件という化学兵器テロ攻撃も経験済であり、その後もセクト残党が起こす小規模な爆弾テロが継続的に発生していた。

 よってテロ攻撃に対する憎悪や、アメリカへの同情論は非常に強いものだった。

 また、政府・外交筋もソ連崩壊後に生じた旧東側陣営の国際的地位低下に歯止めをかけるため、国際貢献の拡大が叫ばれていた時期でもあった。

 そのため、米軍がタリバン政権打倒とアルカイダ首領のウサマ・ビン・ラディソ捕縛のためアフガニスタンに侵攻すると国防軍が治安維持作戦のため派遣された。

 これが冷戦終結後、初の日本軍の海外派兵となった。

 なお、アフガンでの日本兵に対する米軍や他有志国軍からの評価は、


「個々の練度は高いが、装備全般が古く、行動パターンが画一的。予想外の事態に弱い」


 というソ連系正規軍のステレオタイプそのままだった。

 何しろ、ソ連崩壊が1991年で、祖国統一と日米同盟開始が1995年である。

 90年代の国防軍はまだまだ冷戦時代を引きずっていたし、2000年代前半でもまだソ連式が幅をきかせていた。

 人間の意識はそう簡単には変わらなかったと言える。

 また、


「戦車や火砲に頼りすぎている」


 という評価もある。

 これは冷戦末期に完成した国防陸軍の編成からすれば、必然的なものだった。

 1991年に軍拡のピークに達した国防陸軍は、師団換算で22個師団相当にまで拡張されていた。

 その内訳は、人員約10,000名、戦車約300両、装甲戦闘車両200両、火砲160門の戦力を有する戦車10個師団。

 人員約12,000名、戦車約200両、装甲戦闘車両300両、火砲160門の機動歩兵師団8個。

 人員9,000名、戦闘ヘリ80機、武装/輸送ヘリ130機、火砲90門の空中突撃師団1個。

 人員8,000名、火砲約320門の砲兵師団3個。

 というまことに分厚い布陣となっていた。

 停戦後7個師団から始まった国防陸軍が、ここまで極端な火力戦志向、機械化・装甲化していったのは、国防陸軍の戦争が米軍相手の本土決戦だったためである。

 南九州大隅半島と関東九十九里浜に上陸してくる米軍を水際で迎撃し、撃退することを目標に国防陸軍はそれぞれの方面に火砲1,000門、戦車1,000両を目指した。

 さらに北海道には戦略予備として火砲1,000門、戦車1,000両を残して、水際の迎撃が失敗した場合に、もう一度決戦に挑める用意となっていた。

 国防軍への改編時にこのような構想は絵空事でしかなかったが、戦後日本の高度経済成長による工業力の拡張は、絵空事を現実へと変えた。

 主力戦車は東側標準のT-72の輸入・ライセンス生産版であるT-72Jである。

 これは所謂モンキーモデルであるが、対ソ外交上やむを得ないものであった。

 また、機動歩兵師団向けの戦車は、既存のT-54Jを近代化改修したもので、全ての戦車がT-72Jだったわけではない。

 それでも約4,500両の主力戦車が本州・北海道で動き回っていたことは、日本の近代軍事史上嘗てないことであり、日本史に残る最大最強の重装甲集団だった。

 だった、という表現を用いたのは、湾岸戦争でイラク軍の惨敗でモンキーモデルのT-72のブリキ缶ぶりが露見したためである。

 湾岸戦争でのM1戦車(エイブラムス)の活躍は国防陸軍を震え上がらせるものだった。

 陸軍の消沈ぶりは凄まじく、政府筋から日米同盟案が提示された時も最初に賛成したのが陸軍だったほどである。

 また、陸軍はソ連崩壊にも衝撃を受けた。

 師匠筋にあたるソ連陸軍が、強大極まる戦力を持ちながら戦わずして滅びたことは、国防とは何かを陸軍に再考させた。

 しかし、変化には時間がかかるものだった。

 ましてや保守的な軍部はなおさらだった。

 2003年頃に撮影された写真の中で、旧ソ連風のカーキー色の野戦服でアフガニスタンの渓谷を歩く国防陸軍の姿は、80年代にアフガニスタンに侵攻したソ連軍と言われたら信じてしまいそうになる。

 米軍から供与されたM4カービンだけが2000年代らしさを感じさせる要素と言える。

 ちなみに米軍から供与されたM4カービンは陸軍から非常に高く評価された。 

 国防軍の主力小銃であるAK-74は堅牢な設計で優れた小銃だったが、2000年頃から急速に発展、普及していったホロサイトなどのアタッチメントには不適応だった。

 銃の構造的に、アタッチメントの固定が困難だったのである。

 本来ならば、次世代小銃に更新してキャッチアップしていくべきところだが海空重視で陸戦兵器の開発はソ連に丸投げしていたツケと軍縮も重なり、国防陸軍の装備更新は遅遅として進まなかった。

 さて、対テロ戦争は、アメリカのブッシュ・D・ノエル大統領が2002年1月29日の一般教書演説で発した「悪の枢軸」で新たな段階に突入した。

 悪の枢軸として名指しで批判された国は、イラク、イラン、そして韓国だった。

 特にイラクは既に湾岸戦争という前科があり、その後も国連決議に基づく武装解除査察をたびたび拒否していた。

 そのため、アメリカ政府内部では武力による政府転覆が議論される状況となった。

 ブッシュ大統領は、イラクがアルカイダを支援し、大量破壊兵器を開発、隠匿している確かな証拠があると主張し、国連安全保障理事会でイラクに対する武力行使決議を求めた。

 この決議には、イギリス・日本が賛成し、フランス・中国・ロシアが反対に回った。

 日本は国連安全保障理事会の常任理事国ではなかったが、非常任理事国として賛成に向けて根回しを行っていた。

 しかし、フランスの拒否権行使が確実な情勢となったため、日英米は国連決議なしで開戦に踏み切った。

 国連決議なしの開戦には反対論が多く、国防相の藤堂護や閣僚3名が開戦方針に反対して辞表を提出するなど、古泉内閣は大荒れになった。

 藤堂国防相は空軍参謀本部長を務め、弟の藤堂晋海軍大将と共に藤堂家と呼ばれる大軍閥を造った大物だった。

 国防相が開戦に反対して抗議の辞表提出というのは帝国時代にさかのぼっても例がなく、世論を驚かせた。


「これは中東のベトナム戦争になる。イスラム教徒は全世界に15億人いる。私たちはこの戦争には勝てない」


 という藤堂国防相の予言は、後にその正しさが証明されることになる。

 ただし、軍部は一枚岩ではなく明確に派兵反対というわけではなかった。

 軍部強硬派は、核兵器開発疑惑のある韓国に対して、武力行使も止む無しという論調があり、イラクの次は韓国だと考えていた。

 アメリカのイラク侵攻を支持することで、後日行う韓国侵攻の時にアメリカから支持を得たいという思惑があった。

 世論の反応も明確ではなかった。

 清廉なイメージで国政改革を断行すると叫ぶ古泉首相の人気もあり、世論には遠い砂漠の国でアメリカの手伝いをする程度なら許容範囲内としていた。

 実際、古泉首相のカリスマは調整型で地味なイメージの強い日本の首相としては異例のものであった。

 昼間のワイドショーで視聴率が稼げる首相など、古泉首相以前には考えられない存在だった。

 それ以前の首相は新聞か、夜のニュースの時間にしか姿を見せないものだった。

 ましてや麻雀漫画の主人公を務めるなど何をか言わんやである。

 ただし、内地とは異なり台湾世論は反対一色だった。

 ベトナム戦争の古傷が痛むためである。

 そこは本土決戦型軍隊として戦後長らく海外派兵とは無縁だった内地とは明確に異なる点で、派兵反対運動が台湾全土に広がった。

 しかし、古泉首相は反対を押し切って国防軍派遣に踏み切った。

 古泉首相の念頭には、前述の韓国核問題や冷戦後の日本の国際的な地位向上、日米同盟の深化という課題があった。

 また、持論である国鉄やタバコ専売公社、電力公社の民営化を進めるうえで、決断力のある強い首相というイメージを押し出す必要があった。

 世論も政治改革のため強力な指導力をもった人物が必要だという風潮があった。

 これは戦後、首相職よりも共産党の書記長の方が実権力を持っているという時代が長く続いたことに対する反省という要素もある。

 特に田中書記長時代は、首相は誰がやっても同じという扱いだった。

 ちなみにこれは台湾でも同じで、軍の長老会議で政府方針が決まってしまうため、トップの軍事政治委員長は見た目ほど実権力をもっていなかった。

 現実の政治を動かしているのは中央官僚や軍官僚で、彼らは利権を独占し、民主化を拒む国家の寄生虫という風潮だった。

 確かにソ連はそれで滅びたという他ない状態だったので、肥大化した官僚組織を悪魔化することは簡単だった。

 旧弊を打破して新しい政治を手に入れるために、清廉な人物を首相に据え、彼に権限を集中させて政治改革を断行するというのが90年代から00年代の流行だったと言える。

 これもある種のソ連崩壊の余波であり、新しい価値観として日本でも新保守主義ネオ・コンサバティブ新自由主義ネオ・リベラリズムが広まり、その流行をいち早く掴んだ自由党は勢力を拡大した。

 イラク戦争は、その絶頂期だった。

 開戦は2003年3月19日となった。

 イラク派遣軍は原子力空母信濃を中心とする空母機動部隊、さらに陸軍1個旅団となった。空軍は輸送機を派遣した。

 派遣軍の総兵力は約3万人に上った。

 これは英軍に匹敵する規模で、米軍に次ぐ戦力展開だった。

 なお、国防海軍のMig-29Kは、イラク空軍の使用するMig-29と中身はほぼ別物となっているが、外観は大差ないので同士討ちの危険性があり、実際の戦闘には参加していない。

 海軍の派遣は典型的なショー・ザ・フラッグでしかなかった。

 空軍についても同様で、同士討ちの危険から戦闘部隊は派遣せず、輸送機による兵站支援を実施した。

 戦闘任務に投入されたのは連邦陸軍の第1独立戦車旅団である。

 第1独立戦車旅団はT-80Uを装備した戦車1個連隊を中心とする完全な機械化編成旅団だった。

 機動歩兵を運ぶ歩兵戦闘車の最新型のBMP-3で、自走砲兵も2S19ムスタ-Sとなっており、対空戦車の2K22ツングースカなど冷戦末期に開発されたソ連式装備の中で最良のものが集められていた。

 いずれも対ソ債務放棄を条件に譲渡された装備であり、冷戦中はソ連本国軍の中でもエリート部隊だけに配備されていた代物だった。

 国防陸軍はこれらをサンプルとして次世代の国産兵器開発の土台づくりを進めていた。

 今後の日本の陸軍を占うことになる新鋭兵団であったが、バグダッド攻略などは米軍が担い、同志国の英軍と共に支作戦であるバスラ攻略作戦に参加した。

 バスラ攻略戦で第1独立戦車旅団は実戦の洗礼を浴び、T-80Uは中国製の69式戦車と対戦した。

 この時、待ち伏せしていたイラク軍の69式戦車がT-80Uを先制攻撃した。

 69式戦車はイラク軍が独自に改修したモデルがいくつか存在し、ソ連系の125mm滑腔砲に換装したモデルもあった。

 正面から撃たれたT-80Uは、爆発反応装甲と複合装甲によって中国製のAPSFDF弾に耐えて乗員を防護すると共に反撃で69式戦車を撃破した。

 69式戦車にも爆発反応装甲あったが、旧型のものでT-80Uからの砲撃には耐えられず、一撃で撃破された。

 69式戦車の元設計がソ連のT-54であることを考えると、2世代分の差があったからこの結果は当然だったと言える。

 中国製の69式戦車はイラク軍の数的主力で、T-72よりも数が多かったことから、各地で山のように撃破された。

 イラク軍は戦車が足りなくなると博物館級の車両まで戦場に投入し、保管してあった第二次世界大戦時の米陸軍のM36対戦車自走砲や、イタリア軍のCV35豆戦車まで投入してきたが、当然のことながらまともな戦闘にならなかった。

 中の乗員が戦意を喪失して逃げ出したのである。

 戦闘そのものは殆ど圧勝と言っていい展開となった。

 開戦時期が遅れたことで強烈な砂嵐にも襲われたが、それさえも作戦の一部として取り込み、日英米軍が苦戦しているという偽情報を使ってイラク軍をおびき出すことに成功した。

 空爆を避けるため陣地や市街地に隠れていたイラク軍は偽情報に踊らされ、反撃のために出撃したところで、空爆によって殲滅された。

 イラク軍は指揮系統が崩壊し、フセイン大統領も空爆を恐れて行方不明となり、もはやイラクは国家の体を成していない状態となった。

 無政府状態と化したバグダッドに米軍が突入したのは、4月5日だった。

 あまりにも早い戦闘速度に、イラクの情報大臣が米軍を撃退したと叫ぶ背後をM1エイブラムスが走り抜けるというコントのようなことさえ発生した。

 正規軍同士の戦闘は、日英米連合軍の勝利に終わった。

 問題はそれからだった。

 イラク戦争に参加した日英米連合軍の総兵力は20万人で、これは湾岸戦争の3分の1以下の兵力である。

 戦闘は小兵力であっても軍事情報革命(RAM)を達成した軍隊が旧式軍を圧倒できること証明したが、占領統治は別問題だった。

 フセイン大統領が逃亡すると彼を支えた政府職員も逃散してしまいイラク全土が無政府状態になったことから軍政が必要になった。

 このような事態は事前の想定にはないか、意図的に軽視されていた。

 ホワイトハウスの予想では、フセイン大統領は降伏し、イラクの政府機能は維持された状態で戦後を迎えられるはずだった。

 まさか政府組織が消えてなくなるとは想定外だった。

 さらにイラク軍は正規軍同士の戦いでは勝ち目がないことを理解しており、兵員の教育にゲリラ戦法を取り入れ、即席爆弾(IED)の作り方をマニュアル化して配布していた。

 イラク軍があっけなく潰走したのも事前の計画という側面もあった。

 電撃戦で米軍はバグダッドに向かったが、その背後に逃散したイラク兵が多数潜伏する形となり、遺棄された兵器から作られた即席爆弾が猛威をふるうことになる。

 共和国防衛隊のT-72を一蹴したM1戦車も大型の航空機用爆弾を転用した即席爆弾が足元で爆発すると耐えられなかった。

 これはT-80Uでも同様か、それよりもひどい状態になった。

 T-80Uなどのソ連式自動装てん装置を搭載した車両は車体底面に砲弾を円盤状に並べて搭載するため、直下で地雷が爆発すると大惨事になる確率が高かった。

 バスラでも3つの対戦車地雷を重ねた即席爆弾によってT-80Uが撃破された。

 この時は車体底部の砲弾が誘爆し、砲塔がびっくり箱のように吹き飛ぶというソ連式戦車にありがちな最後を迎えた。

 問題なのは、その映像がイラクのテロリストグループによって撮影され、インターネット上に公開されたことである。

 映像の中では、火だるまになった日本兵が戦車から這い出て、生きたまま焼け死ぬというショッキングなもので、日本の世論はもちろんのこと、軍部のみならず政府首脳部までもが凍り付くことになった。

 ブッシュ大統領による戦闘終結宣言が出された5月1日以後もイラクでは戦いは続くことになり、バスラに駐留していた第1独立戦車旅団も治安維持戦に投入された。

 なお、アメリカ軍はベトナム戦争での台日軍の極めて効果的な治安維持作戦を第1独立戦車旅団に期待していたが、それは無理筋というものだった。

 第1独立戦車旅団は正規戦を想定した機械化部隊であり、戦後の占領統治など考えたこともない編成だった。

 5月1日に戦争終結宣言が出たので、多くの兵士は戦争は終わったのですぐに帰国できると考えて、土産物の物色を始めていたぐらいである。

 アラビア語通訳さえ事欠く状態から手探りの治安維持戦など悪夢でしかない。

 当初は独裁政権からの解放者に対して好意的だったイラク人も治安の悪化や稚拙な治安維持活動によって民間人に死傷者がでると憎悪をむき出しにした。

 2003年9月22日には、バスラ近郊で結婚式の際に友人・知人が祝砲代わりに拳銃や小銃を空に向けて発砲したところ、銃撃を受けたと誤解した歩兵小隊が応戦したことから血で血を洗う銃撃戦となった。

 最終的に日本側が砲兵支援まで投入して武装勢力を”制圧”したが、調査の結果は無惨なもので新郎新婦はもちろんのこと、結婚式に出席していた親戚や友人・知人が死傷するという誤射・誤爆事件だったことが判明した。

 国防軍は後日、遺族に謝罪して関係者の処分を発表した。

 ただし、政府閣僚は議会での追及に対して責任を否定した。

 古泉首相も事件に対しては、


「戦争は悲惨だね・・・」


 と他人事のように接したため、激しい批判を浴びた。

 また、大量破壊兵器の捜索が完了し、イラクの大量破壊兵器の開発・保有が正式に否定されることになった。

 これにより日本も開戦の大義が問われることになった。

 当初は古泉首相も米国から確かな情報を得ていたと主張していたが、徐々にトーンダウンして、最後には殆どまともな情報共有が成されていなかったことが明らかになった。

 要するに、確たる証拠も見込みもなく戦争を始めたということだった。

 こうした政治的な危機の中で、政府は朝鮮半島核問題と向き合うことになった。

 近国の核開発は、冷戦中の1960年代から始まり、ソ連からの技術導入によって小型の原子炉建設から始まった。

 半島北部の寧辺には朝鮮の核関連施設が建設され、核燃料の再処理施設などもソ連の援助によって建設された。

 これは原子力平和利用が前提であり、韓国は核兵器不拡散条約加盟国だった。

 さらに80年代には5メガワットの黒鉛炉が完成した。

 黒鉛炉は天然ウランを燃やすことが可能で、寧辺の5メガワット黒鉛炉を1年間稼働させると1発分の原子爆弾用のプルトニウム生産が可能だった。

 これは日本の原子爆弾開発と同じ手法で、日本も東海村の黒鉛炉で南アフリカから入手した天然ウランを燃やしてプルトニウムを生産し、原子爆弾を製造した。

 韓国と日本の違いは、韓国がNTP加盟国として原子力の平和利用を条件に技術供与を得ていたことであり、日本はNTP未加盟国として独自に核開発を行った点である。

 NTP条約は、核兵器の不拡散のため加盟国に核保有を禁止する交換条件に、平和的な原子力利用に限って技術供与が得られる恩恵がある。

 韓国はそれを悪用したのである。

 平和的原子力利用を担保するのは、IAEAの核査察である。

 イラク戦争の開戦理由にもイラクがIAEAの核査察拒否があったほど重要な調査であるが、韓国は国防を理由に核査察を拒否していた。

 1994年の朝鮮半島核危機も韓国の査察拒否に端を発しており、この時は日中韓による三か国会議で戦争は回避された。

 韓国は、核開発を凍結する見返りに、日本の資金で2基の軽水炉を建設し、完成までの間に中国から重油50万tを受け取ることになっていた。

 さらに深刻な食料危機に対応するため、日中がそれぞれ10万tの米を提供する至れり尽くせりの内容になっていた。

 韓国が一方的に得をした内容に思えるが、軽水炉を建造するのは半島南端の釜山であり、建設に従事するのは日本の原子炉メーカーだった。

 さらに発電した電力を使うのは、釜山経済特区に進出した日本企業である。

 経済特区は、80年代に中国が採用した改革・開放政策の一つで、社会主義体制に段階的に市場経済を導入するため、国の一部地域に法的かつ特別な地位を与える制度である。

 日本政府の支出で日本企業が原子力発電所をつくり、その電気で日本企業の工場が格安の賃金で使える韓国人労働者を使って生産活動を行うという仕組みで、売電で得た収入で25年かけて原子力発電所建設費用を韓国が日本に返済することになっていた。

 中国は中国で、石油供給の見返りに新義州経済特区を獲得した。

 日中が行った食料支援にしても、支援は釜山と新義州に設置した日中の出先機関が実施するものであり、韓国当局に自由になる援助米はなかった。

 韓国に食料を渡しても軍用米としてため込むのが目に見えていた。

 また、飢餓地獄となった韓国の内政に干渉する上でも、食料支援プログラムは日中双方にとって有用だった。

 特に日本は半世紀ほど前に似たようなことを経験したことがあり、食料支援の政治利用には積極的だった。

 韓国にこれを拒む力はなかった。

 拒否していたら94年時点で人民解放軍が鴨緑江を渡河して飢餓に苦しむ朝鮮人民を”解放”し、日本軍が対抗措置で釜山や仁川あたりに上陸してくるのが目に見えていた。

 おそらく38度線あたりで、朝鮮半島は日中によって分割占領される。

 これは全ての韓国人にとっての悪夢であり、朝鮮半島という立地に根付いた宿命である。

 そこから抜けだすための切り札が、核武装であり、弾道ミサイル開発と言える。

 そのために韓国は94年以降、弾道ミサイル開発に多額の資金を投入し、極秘に核兵器開発を続けていた。

 それにはIAEAの核査察をごまかす必要があった。

 日中の経済支援によって悪化していた韓国経済は立ち直りを見せており、以前のように査察を拒否するのは難しかった。

 そこで韓国当局は核物質(プルトニウム、濃縮ウラン)について二重帳簿を作成した。

 平和のための原子力開発は韓国にも認められており、IAEAには表帳簿が提出され、それに基づく核査察が実施された。

 IAEAの目を誤魔化している間に、裏帳簿のプルトニウム、濃縮ウランを使って原子爆弾の設計・製造作業が進められた。

 問題は、秘密保持のため正規の設備や手順を使用することができないことである。

 設備の利用状況も核査察の対象になっていたからだ。

 そこで裏帳簿に対応した裏マニュアルが作成された。

 その中には、市販のステンレス製バケツで核物質の溶解を行うという杜撰極まるものがあり、さらに作業の簡易化を図って杜撰な裏マニュアルさえ無視した低レベルな作業の果てに臨界事故が発生した。

 臨界事故とは、意図せずに核分裂性物質を臨界(核分裂連鎖反応がおきている状態)にしてしまうことである。

 韓国当局はただちに事故の隠ぺいを図ったが、常駐しているIAEAの査察官をごまかすことは不可能だった。

 何しろ臨界状態(防護措置のない原子炉)が大量の中性子線を放っており、決死隊による停止作業が完了するまで20時間も必要だった。

 これでばれない方がどうかしている。

 誤魔化しようがなくなった韓国当局は、イラク戦争勃発を理由にNPT条約から脱退とIAEA査察官の国外追放という強硬手段にでた。

 2003年9月30日のことだった。

 日中怒りの共同提議により、国連安全保障理事会は決議第1145-14号を採択した。

 決議の主な内容は、韓国に対して核査察の受け入れを迫るもので、回答期限は10月16日とされた。期限までに回答がない場合は、武力行使を容認するものだった。

 イラク戦争時は反対に回ったフランスは賛成に回り、ロシアは棄権した。

 ただし、ロシアの主張により付帯決議14号として韓国の独立と領土の一体性の確保が武力行使容認の条件とされた。

 要するに韓国を日中で分割占領するなということだった。

 これを受けて日中両国は朝鮮空爆に向けて調整を実施して軍事協定を結び、38度線から北側は中国が担当し、南側は日本が担当することになった。

 険悪な関係の日中が曲がりなりにも共同作戦に同意したのは、誤射による偶発的な戦争勃発を回避するためだった。

 南側の空爆にはアメリカ軍も参加し、グアム島基地にB-52を展開した。さらに空母打撃群も展開したが、空爆の主体は日本が務めることとされた。

 韓国空爆には、東アジアの地域覇権国家日本の威信がかかっていた。

 小泉内閣はイラク戦争の泥沼化で支持率が急落しており、降って湧いたような韓国空爆作戦に支持率回復の望みを託すことになった。

 90年代以降、アメリカ大統領の支持率は悪に向けて発射したトマホークミサイルの数に比例するようになっていたからだ。

 総理大臣の支持率が空爆によって回復したという例は過去にないが、古泉首相は世論の矛先をそらすため空爆に前のめりだった。


「韓国をぶっ壊す!」


 という古泉首相の勇ましい発言を記憶している人も多いだろう。

 世論も韓国空爆には前向きだった。

 ソ連崩壊後に経済が破綻した失敗国家ごときに、アメリカと渡り合った国防軍が負けることなど万が一にもなかった。

 イラクという失敗国家に現在進行形で足元を掬われていたのだが、それはゲリラ戦に巻き込まれているからであって、空爆であれば話は別だった。

 強気の世論をうけて衆参両院は韓国空爆決議案に全会一致で賛成した。

 2003年10月17日、回答期限までに韓国からの応答がないため、日中は軍事行動を開始した。

 国防軍の初手は、巡航ミサイルによる飽和攻撃だった。

 国防軍は、冷戦中から米空母機動部隊に対抗するため空中、水中から三次元的な巡航ミサイル飽和攻撃を練り上げてきた。

 2003年にその努力は無意味ではなかったことが示され、水中、空中、および地上から438発、囮機を含めれば666発の巡航ミサイル同時攻撃が実施された。

 80年代に米海軍が恐れていたミサイル飽和攻撃の具現化だった。

 水中からミサイルを発射したのは、蒼龍型原子力巡航ミサイル潜水艦だった。

 蒼龍型SSGNからは米空母撃滅を期してソ連が開発したP-700(グラニート)が96発が同時発射となった。

 P-700は対艦攻撃専用だと西側は考えていたが、韓国空爆で地上攻撃にも使えることが明らかになった。

 空中からミサイルを発射したのは海軍航空隊のTu-22MJで、Kh-22Mが246発投入となった。

 Kh-22Mは対艦攻撃用であるため攻撃精度にかなり問題があった。

 後継の誘導弾は2003時点ではまだ開発中で、Kh-22M投入は囮兼在庫処分という要素が大きかった。

 国防軍の本命は、99式地対艦誘導弾だった。

 ソ連が80年代に開発したKh-55をベースに開発された99式地対艦誘導弾は、射程距離が1,000kmを超える長距離亜音速巡航ミサイルとなっていた。

 名称こそ対艦としているが、実際の用途は九州や台湾から朝鮮半島・中国沿岸部の重要施設を精密攻撃することで、米軍のトマホークミサイルと役割は同じだった。

 性能も湾岸戦争で示されたトマホークミサイルと同レベルを目指すもので、CEPは10m以内を達成していた。

 アメリカは95年以降にトマホークミサイルの売却を打診していたが、国防軍はそれを断って国産開発した。

 長距離打撃力がアメリカのひも付きになることを嫌ったからである。

 国防軍の懸念は2022年に勃発したウクライナ戦争で現実のものとなり、ウクライナ軍はアメリカから供与された長距離ミサイルの使用を制限され、不利な戦いを強いられている。

 九州北部、中国地方から発射された99式地対艦誘導弾は慣性誘導、地形照合で目標に到達し、終末誘導装置を作動させて次々に命中していった。

 これらの一連の攻撃は、水中、空中、地上からの統制攻撃であり、目標への着弾は全弾が1分以内とされていた。

 相手の対応能力を超える多数のミサイルを複数方向から同時にたたきつけることで、対処不能にするというソ連式のミサイル飽和攻撃の完成形だった。

 攻撃目標となったのは、38度線以下南の韓国空軍の早期警戒レーダーや防空指揮所、SAM陣地や飛行場、通信施設、陸軍兵営、海軍基地、艦艇、燃料保管施設、電話交換所、発電所、変電所、橋梁、鉄道駅、操車場など多岐にわたる。

 夜明けと同時に行われたミサイル飽和攻撃で、朝鮮南部の防空システムは壊滅状態となった。

 経済崩壊で整備が滞っていた韓国の防空システムに対しては過剰攻撃であり、本当の狙いは中国の同業者に国防軍が何をできるか見せつけることにあった。

 安全になった半島南部の空を縦横無尽に駆け抜けたのは、日本海、黄海に展開した空母4隻(信濃、加賀、出雲、瑞鶴)から発進した空母艦載機と空軍機の空中打撃群だった。

 これらの攻撃もミサイル着弾から5分以内に調整され、各機が誘導爆弾や対地ミサイルを使った精密攻撃を実施した。

 標的になったのは、南部にあった弾道ミサイル関連施設や核関連施設だった。

 首都ソウルは巡航ミサイルに続き、戦術航空機の爆撃に晒され、市内にあった社会安全省と国家保衛省の本部に誘導爆弾が投下された。

 いずれも金王朝を支える秘密警察/治安維持組織であり、爆撃は体制の動揺を狙ったものだった。

 韓国空軍虎の子のMig-29が集中配置されたソウル空軍基地は、ミサイル攻撃によって壊滅し、戦闘機部隊もすべて地上撃破された。

 国防軍は意図したものではないと説明しているが、ソウルにあった高さ200mの主体思想塔は爆撃によって木っ端みじんになった。

 爆撃を受ける韓国民は、圧倒的な攻撃に呆然とするほかなかった。

 彼らの辞書では日本は国家が分裂した失敗国家であり、それがなぜこれほどまで圧倒的な軍事力を展開できるのか全く理解できなかった。

 情報収集艦や電子偵察機で一連の攻撃を観察していた米軍将校たちは、


「まるで金メダリストのフィギュアスケートを見ているようだった」


 と語っており、後に国防軍が実戦したミサイル飽和攻撃は、エフゲニー・ドクトリンと呼ばれることになった。

 エフゲニーとは、2003年にアメリカ合衆国で開催された世界フィギュアスケート選手権の優勝者のエフゲニー・モモシェンコ選手のことで、2004年の世界大会でも2年連続の優勝に輝き、2006年のトリノ五輪でも圧勝したロシア・フィギュアスケート界の帝王だった人物である。

 日本人的な凝り性と完全主義、テクノロジーの一致によって、韓国空爆は95%の成功を収めたと判定された。

 それに対して北部を担当した中国人民解放軍空軍(PLAAF)は不調だった。

 2003年時点のPLAAFの数的主力はMig-21の改造機(J-7)やMig-19の改造機(Q-5)などだった。

 新鋭のSuー27SKやJ-10の生産は始まっていたが、まだ少数派の時代である。

 国防軍の飽和攻撃に比べると中国の空爆は投入機こそ多いが不徹底で、韓国の防空システムを破壊、麻痺させることはできていなかった。

 不調の穴埋めとして多数の戦術弾道弾が発射されたが、攻撃精度が低く韓国の防空システムを破壊することができなかった。

 結果として、多数の作戦機が対空砲火によって撃墜される結果に終わった。

 一説によると中国が失った戦術航空機は80機を超えると言われているが、詳しい損害を中国当局が公表していないので不明である。

 日本側が失った作戦機は、事故による損失を含めても12機だった。

 寧辺核施設への攻撃は成功したとされるが、2003年のPLAAFの作戦能力でそれが実現できたかは疑問視されている。

 そのため、寧辺核施設を爆撃したのは米空軍のB-2ステルス爆撃機だったのではないかという識者の意見がある。

 寧辺の厳重極まる対空防衛網をすり抜けての精密爆撃が、当時のPLAAFに実施できたとは考えられないからである。

 黒鉛炉への直接攻撃は回避されたものの、爆撃を受けた施設には使用済核燃料の再処理工場が含まれている。

 使用済核燃料の再処理とは、使用済みの核燃料を薬剤で溶解してプルトニウムを取り出す作業であり、そこに1t爆弾が飛び込めばどうなるかは明らかである。

 核爆発は生じなかったが、飛散した使用済核燃料による深刻な放射能汚染が発生した。

 空爆後、寧辺核施設は稼働を停止した。

 韓国当局による除染作業が行われた形跡がなく、汚染対策としては周囲30kmを封鎖したのみである。

 寧辺の壊滅によって韓国の核武装を阻止する空爆作戦は、概ね当初の目的を達成した。

 問題は、その後始末だったと言える。

 日中による空爆で大混乱に陥った韓国軍だったが、一部は態勢を立て直し、反撃を開始した。

 混乱からいち早く立ち直ったのは精鋭の弾道弾部隊だった。

 韓国軍は、通常兵器では日中に対抗することは不可能と割り切って弾道ミサイル開発に注力していた。

 日本に向けて発射されたのは、火星5号、6号(スカッドB,C)と韓国が独自に改良した火星7号だった。

 これらの弾道ミサイルは、輸送起立発射機(TEL)によって機動性/隠密性が高く、空爆による損害を受けていなかった。

 TELの弾道ミサイルの隠密性の高さは、半世紀前の第二次世界大戦時点で既に証明されており、ナチス・ドイツのV2ミサイル発射部隊は敗戦の日まで空爆による被害を受けていなかった。

 韓国は、固定式の弾道ミサイルサイロでは簡単に破壊されると考えて、開発したミサイルは全てTEL運用としていた。

 結果、爆撃を逃れた多数の弾道弾が日本の諸都市に飛来する事態となった。

 なお、ミサイルの弾頭は恐れられていた化学兵器や生物兵器などの大量破壊兵器ではなく、通常弾頭だった。

 さすがにBC兵器を使ったら、日本軍怒りの仁川上陸作戦となりかねなかった。

 それでも1tの高性能爆薬が市街地に落下すれば、被害は甚大なものとなる。

 国防軍で弾道弾迎撃戦を担当したのは、海軍の金剛型重原子力ミサイル巡洋艦と陸軍の防空誘導弾連隊だった。

 それぞれ80式艦対空誘導弾とC-300PMU1を装備していたが、いずれも弾道弾迎撃能力は限定的なものに止まっていた。

 2003年には弾道弾迎撃能力を向上させたそれぞれの後継ミサイルとなる国産の3式艦/地対空誘導弾が採用され、生産配備も始まっていたが韓国空爆には間に合わなかった。

 そのため、多数の弾道ミサイルが市街地へ命中した。

 弾道弾の都市爆撃は、被害そのものは大きなものではなかった。

 韓国もそれは理解しており、政治的な効果を狙った恐怖爆撃だった。

 もちろん、国防軍も黙ってやられていたわけではなく、ソウルは激しい報復攻撃を浴びることになった。

 しかし、独裁者の生命以外は度外視できる韓国と国民国家の日本では、都市爆撃の効果はまるで異なるものだった。

 韓国軍による弾道弾攻撃の中で最大規模となったのは、2003年10月28日の敦賀原発への集中攻撃だった。

 火星7号が21発発射され、そのうちの1発が敦賀原発の敷地内に落下して原子炉建屋を破壊し、火災を発生させた。

 爆撃を受けた敦賀原発は緊急停止した。

 原発敷地外に落下したミサイルによって送電線が切断され、外部電源が絶たれた敦賀原発は原子炉冷却を予備電源に切り替えたが、爆撃と火災によって予備のディーゼル発電機も損傷していたため、原子炉の冷却ができない状態となった。

 原子炉は緊急停止しても暫くは崩壊熱を出すため、冷却水を循環させる必要があり、それが止まってしまうと最終的に核燃料が溶けるメルトダウンが発生する。

 幸いなことに攻撃は一過性のもので、すぐに火災は消し止められ、電源車が急行することで事なきを得た。

 しかし、原子力発電所へのミサイル攻撃は、戦勝気分だった日本人を恐怖のどん底に突き落とした。

 なお、韓国は国際法違反の原子力発電所攻撃について、寧辺核施設爆撃に対する報復攻撃であると主張している。

 この時の反省から、日本の原子力発電所は非常事態に備えて外部電源と予備電源の多重化を行った。

 2011年に東日本大震災が発生した際に、福島第1原子力発電所が津波によって危機的な状況となったが、多重化した予備電源によって事なきを得たことは広く知られている。

 2003年11月3日には、陸軍の発射したC-300ミサイルの加速ブースターが市街地に落下して、登下校中の児童3名が死亡するという痛ましい事件が発生した。

 死亡事故に至らずとも、迎撃戦闘で落下したミサイルの残骸が市街地に落下することは多々あった。

 そのたびに国防軍は釈明に追われたが、こうした事態の根本的な原因には、戦時下における国民保護態勢の不備があった。

 冷戦中、軍部は本土決戦を前提とした軍備を揃えていった。

 しかし、本当に本土決戦となった場合に戦場となる場所に住む住民をどのように退避させるかについては真剣に検討されてこなかった。

 住民の保護は自治体任せとなっており、自治体も地震や台風などを想定した避難訓練は実施しても、国土が戦場になった場合の訓練は考えてこなかった。

 ましてや弾道ミサイル攻撃など完全に想定外だった。

 核攻撃を想定して東京の営団地下鉄はモスクワ地下鉄を参考にしてシェルター代わりに使用できる設計となっていたが、いざ使用してみると設備が老朽化していて、使い物にならないことが判明した。

 米ソ冷戦という時代が、実はとても平和な時代だったことを日本人が痛感したあたりで、ロシアの仲介によって停戦となった。

 停戦までに日本に向けて発射された弾道ミサイルは233基だった。

 このうち9割が迎撃をすりぬけて本土へ着弾し、死者は129名、負傷者2401名、家屋等の被災は約8,700軒となった。

 これは全て通常弾頭での被害で、大量破壊兵器が使用されていた場合の被害は考えるだけで国民を青ざめさせるのに十分だった。

 古泉首相は、軍部から弾道弾攻撃はペイロードからして被害は限定的に留まると説明を受けていた。

 しかし、それはあくまで軍事的な意味であり、政治的な被害とは全く別だった。

 韓国空爆が政権浮揚につながると期待していた古泉内閣の思惑は完全に外れ、国民保護態勢の不備が糾弾される情勢となった。

 仮に弾道弾攻撃を完封できたとしても、イラク戦争の泥沼化で政権が崩壊するのは時間の問題だった。

 古泉首相は、世論の矛先をかわすために国鉄民営化をぶちあげて解散総選挙に訴えようとしたが、求心力が維持できず、自由党が分裂した。

 自由党と保守党が分裂したことで第1党となった民主党から内閣不信任案が提出され、可決が確実の情勢となったため、古泉首相は辞任を表明した。

 イラク戦争、韓国空爆から導かれる結論は二つある。

 如何なる軍事大国であろうともいい加減な準備や誤った情報に基づいた軍事行動は失敗に終わるということとバケツでウラニウムを攪拌してはいけないということである。




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― 新着の感想 ―
バケツでウランとかフィクションにも程があるわw
色々と過渡期の国家体制で外征した結果ともいえる・・・。 古泉政権は外交と宣伝は一流でも軍事と諜報ではド素人とこき下ろされるだろうな。国民は弾道弾攻撃で迎撃システム敷くように叫ぶから陸軍は当分冷遇続きそ…
2025/01/10 19:10 退会済み
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